Neetel Inside ニートノベル
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 煌びやかなホールのどこかで、肉を打つ音がした。
「…………」
 鋼は、目がいい。というよりこの男の持つ五感で鈍いものはないと言っていい。ゆえに、リング上の相手のブーツの靴擦れの音さえ聞き分けるその鋭敏な聴覚で、その肉を打つ音も聞き取ることができた。
 眩い照明の下、周囲では出資者や他のブラックボクサー、ピースメイカーが変わりなく談笑していたが、鋼には自信があった。いまのは肉を打擲する音だ。
 昔取った杵柄で、疾風のごとく、ホール端の螺旋階段を駆け上がる。安い人間を五、六人は飼える値段の絨毯を蹴って、鋼は一階から四階まで一気に詰めた。
「…………」
 緩やかな弧を右に描いて伸びている回廊には、めまいがするほど等間隔でドアが配置されている。そのひとつ、半開きになったそれの前で女が一人、膝が馬鹿になったようにぺたんと座り込んでいた。鼻から血が一筋垂れて、着ている黒のドレスに消えない染みを作っている。
 甘いものの食べすぎには、見えない。
 その女、というよりも少女を自分の影で覆い隠すように男が立っている。少女を冷たく見下ろしていたその横顔が、こっちを向いた。嫌がる顔面に眼球を無理矢理に埋め込んだような、あまり詩的でない面構えをしていた。なるほど。
 状況は完璧だ。
 俗に言う、大ピンチってやつ。
 鋼は笑った。
 男は笑わなかった。
 じっとこちらを見るその濁った目には、無視すればそれで済むのか、それとも何も考えずにヤりたいようにヤってしまった方がラクなのか、けだものじみた計算が走っていた。そんなことしても、もう無駄なのに。
 男の足元で、どう見ても女物の眼鏡が踏み潰されて粉々になっている。その割れたレンズの破片をべったりした視線で確かめた後、鋼は黒いドレスの少女を見やった。そして、その顔を見て、おや、と思った。
 初対面だ。それは間違いない。
 悠里のようにどこかで会った覚えはない。
 だが、どこかで見たような気がしてならなかった。
 金色に近い色素の薄い髪。綿のように白く柔らかそうな肌。クセの強い猫毛の隙間から覗く、やはり金色に近い、卵黄のような輝く瞳。誰かに似ている。でも誰に?
 若い頃のお袋に似ているのかな、とチラっと思った。
「おい、そこのお前」
 男が言った。顔を少女に向けたまま、鋼の目が磁力で曳きつけられたように男を捉えた。
「失せろ」
 そう言って男は顎を振った。まるで犬か猫にでもやるような仕草だった。
 へえ。
 ごきり、と鋼が首を鳴らす。そしてそのまま軽く顎を引き、チッチと舌打ちしながら左手で相手を誘った。
 そう悪い気分じゃなかった。状況は完璧。鼻血を出して座り込んでいる女の子がいて、どう見てもその拳に切り損なった小便のように血飛沫をへばりつかせている男がいる。
 一度やってみたかった。
 正義の味方、というやつを。
 ――くくっ。
 あばた顔の男が締められた鶏のように笑った。その目が映画でも見るような気安さで揺れる鋼の右袖を捉えている。
「あんまり頑張るなよ、身障者」
「すぐにお前もこうなるさ」
 一瞬、男は言葉の意味が理解できなかったらしく眉根を寄せた。だがすぐに各駅停車の思考回路に火が点いて、カァッとその顔が真っ赤に染まった。そしてそれはただの怒りでなく、本当に『そう』なる可能性を瞬時に連想して恐怖に繋がった。恐怖は、人間のタガを破壊する。
 男がいきなり鋼に殴りかかった。
 今度は鼻血で済みそうになかった。男の拳が作った影が座り込んだ少女の両目をレーザーのように横切る。フックとストレートの中間、大振りのオーバーハンドライト。そのモーションは丸見えで、どこか砲丸投げに似ていた。
 鋼の編み上げブーツが弾けるように絨毯を蹴った。
 見事なサイドステップでパンチをかわした鋼に、男はぎょっとしたらしかった。すぐに構えを取り直す。
「この野郎ォ……!!」
「焦りすぎなんだよ」
 言って鋼は、何もしない。
 左半身に構え、後ろ足に体重を乗せ、前後左右どこへでも飛べる姿勢を保ちながら、左腕をくの字型に伸ばした。指を二本立てて、ちょいちょいと招く。
「どうした? 最初に当てさせてやるから撃って来いよ。さっきはできたんだろ?」
 これがお前の漏らしたミソパンだ、とでも言うかのように鋼は嘲り切った目で、黒いドレスの少女を顎で差した。
「それとも、女しか殴れない腰抜けか?」
 ようやく、男の両目から完全に理性が掻き消えた。
「――――!!」
 肉食動物のような雄叫びを上げて、ほとんど体当たりのような殴打に出た男を、鋼はアタマを下げて身体を流し、流水のようにさばいた。男は懲りずに右に左にと拳を繰り出す。だが、それのどれも鋼の髪にすらかすらない。そして男の顔に、全力でパンチを撃ち続けた者に特有の疲労が浮かんだ時、鋼は反撃に出た。
 床をぶち抜くかのような踏み込み。
 それだけ。
 それだけで、男が怯んだ。顔面を両腕でガードし、たたらを踏んだ。
 鋼の左は、ただ揺れている。
 ガードの間から、男が混乱した顔を覗かせている。それもそのはず、殴られると思ったからガードしたのだし、実際に殴るチャンスは鋼にあった。なぜ、左拳を出さなかったのか、それが男には分からない。
 簡単だ。
 殴るまでもない。
 フェイントだけで、カタがつく。
 続けて、鋼は身体を左右に振って相手の意識の綱を引っ張り回し、肩の入れ込みと腰の捻りを利かしながら左足をまっすぐに踏み込んだ。男のガードの真ン前を左フックが通り過ぎた。その風圧がすでにひとつのパンチだったかのように男がまた後退する。なかば振り払うようなパンチを滅茶苦茶に撃ちまくる。だが鋼は避けるどころか逆に突っ込んできて、そのすべての拳をアタマを振って肩で弾いて、寄せつけない。気味が悪いほどの近距離で男の顔に恐怖が溢れたところで再び、ドン、と踏み込んだ。まるで左のショートアッパーを喰らったように男の身体が浮き足立って、もつれた。
 鋼は、ジャンケンが強い。
 百戦百勝とはいかないが、最初の一回さえ済めば、同じ相手と連続して拳を突き合わせる限りまず負けない。相手の心は目に宿る。少なくとも鋼はそう信じている。インチキくさい精神論じみていてバツが悪いが、仕方ない、鋼はいつも相手の目を見る。その生きたガラス玉に映る光の明滅を読み取れば、おのずと相手の次の手もわかる。一種のテレパシー? そんなわけはない、ただ鋼はこうも思っている。――本気と本気がぶつかり合えば、安い嘘なんか吐き通せるわけがない。血も凍る時間の中では、自分は相手になり、相手が自分になる。その精度が上回った方が勝つ。それがジャンケン。それが、勝負。
 だから、目は嘘を吐けない。
 そもそも人間は、他者に理解を求める生き物だから。
 男は、鋼のフェイントに面白いように引っかかる。右腕のない男のフェイントに、あるはずのない肩を入れているだけの「右」に怯み、寸止めで戻る「左」に押されて身体がうしろに下がっていく。
 悪夢だった。
 破れかぶれの右フックを男が撃ち、鋼はそれをダッキングしてかわす。そして自分の頭上を通過した右フックの中から、男を見上げた。目が合った。捻りは充分、踏み込みも好形。最初の一発を見た時から決めていた。最後はこれでトドメにすると。
 怒涛のような殺気の熱波をぶち撒けて、鋼は『右』のオーバーハンドライトを、撃った。
 下から弧を描いて上昇し、爆撃するように相手の顔面へと辿り着くそのパンチに実体はない。左と違って風圧さえない。
 だが、その『右』は確かに男の心をノックアウトした。
 殺される、と男は思った。
 ぼんやり歩いていた人間がふと横を見たら大型トラックがクラクションを鳴らしながら突っ込んできた時の恐怖をそっくりそのまま感じた。悲鳴を上げて両腕で顔面を庇うのが精一杯だった。そして、幻想の衝撃に今度こそ身体が浮く。あっと思った時にはもう男を支える地面はなかった。螺旋階段の淵だった。世界が一回転して、金属同士がぶつかるような固い音を男は確かに聞いた。それきり、真っ暗になった。



 階段の柵にアタマを打ちつけて伸びている男を確かめると、鋼は振り返って、少女のそばに歩を進めた。一歩一歩、噛み締めるように。自分の戦果に甘い痺れを感じながら。
 ちょろいものだった。
 片膝をついて、少女の顔を覗きこむ。
「大丈夫か?」
 その顔には、誰にも見せたことがないような優しい微笑みが浮かんでいる。
 言い訳をさせてやろう。
 鋼は一滴の酒も飲んでいない。
 が、この時、ほとんど酔っていた。

(カット)
 というのも鋼は瞬息の世界に生きてきた男だ。素人とは違う。拳の届くか届かないかの距離で相手と視線を交わし、その色彩の微細な変化から次の一手を読み奪る。でなければ知覚するよりも速く飛んでくるパンチはかわせない。だから、鋼は人ごみが苦手なのだ。雑多な人間に揉まれているとその瞬息が暴走を始めてしまう。あらゆる人間の『次』を探し求めてしまう鋼は怒涛のような共感覚に飲み込まれて、意識はなかば朦朧としてくる。人間の瞳は天賦の才があろうとなかろうとそれだけで一種の魔性なのだ。でなければどうして、わざわざ他人と視線を合わせたりするものか。
(/カット)

 この黄金のホールと、喧嘩の名残と、そして自分の力に酔っていた。
 少女が、鋼を見上げる。その桜色の薄い唇が言葉を作る。
「くろがね・はがね……」
 べつに、不思議な話ではない。
 あの事故から一ヶ月あまり、そのニュースは鋼の現役時代の映像と絡めて放送されていたから、見知らぬ他人が鋼のことを知っていても少しも不思議ではない。
 今日は、昔の自分を知っている人間によく会う日らしい。
「三月十二日……後楽園ホール……」
 熱に浮かされて見る夢を語るように、黒いドレスの少女は言った。鋼を見ながら。
 少女が何を言おうとしているのか、鋼はすぐに理解した。
「10R……右のクロスカウンター」
 そうだ。
「ダウンをもらって……」
 立ち上がって。
「そして……」
 そこから先はもう言わなくてもよかった。
 とっくに脳の中の映写機には、「あの日」が映し出されていた。
 手で触れられそうなくらいに、覚えている。
「チャンピオンの」
 左のジャブ。
「ほんの一瞬だけ乗った体重(ウェート)に」
 合わせた。
「カウンターで当てた右の……右の……」
 俺の、
「右の、スマッシュ――」



 懐かしい、夢だった。



 絡み合った視線の中に、二人は同じ世界(もの)を見ていた。
「なんで……」
 痛いくらいに冷たい満天の星空を見上げた時に、思わずこぼれる感嘆のように、陶然と、少女は言った。
 まっすぐな言葉で。


「なんで、死んでくれなかったんですか? あんなに素敵な、腕だったのに」


 その言葉は、一撃で、
 鋼の心を撃ち砕いた。
 少女は、堰を切ったように喋り出した。挨拶もせず。名乗りもせず。そんなものは必要ないのだと信じているかのように。自分の中にこの溢れる気持ちだけが世界のすべてであると、本気で思っているかのように、ひたむきに喋り続けた。
「私は、あなたのことが好きだった。誰にも負けず、決して退かず、ただ我武者羅に身体を振って、フックを回して、相手を壊しにいくあなたの背中が好きだった」
 少女が、立ち上がる。
 責めるように、鋼を見上げる。
「勝った後、相手をマットに沈めたあとの、天国みたいなリングの上で、両腕を、そう、演奏を終えた指揮者みたいに両腕を高々と掲げるあなたのことが好きだった。でも、あなたはもうボクサーじゃない。なのに、どうして――どうして――?」
 鋼には、答えられなかった。
 少女は顔を伏せて、鋼の視界から、狭く不動の舞台から退場する。役者のいなくなった壁を、鋼の両目が凝視している。
 あまり知られていないことかもしれないが、心には暗証番号というものがある。
 それは、ほとんど決して解かれることのない言葉の数字。
 アングル・タイミング・パワー・スピード。
 どれが欠けてもその番号は通らない。
 だが、今通った。
 空気を震わせ鼓膜を通じ、神経細胞のレールに乗って一直線に、その言葉は鋼の側頭葉を撃ち抜き、その心を解き明かした。
 言い訳するのは、簡単だ。
 じゃあ、あの部屋にずっといればよかったのか?
 そう言えば、相手は何も言えなくなるだろう。
 そうとも。
 悠里のように言ってくれるやつは、きっと探せばいくらでもいるはずだ。何も間違っていない。俺はあの部屋から飛び出して、ここへ来た。この地の底に。あそこにいるよりはよっぽどマシ。誰が見たってそう言ってくれるだろう。
 でも、ここは俺が愛した拳闘の世界じゃない。
 それはどうにもならない真実だ。目を切ってはいけない条件だ。俺は取り戻したんじゃない。昔に戻ったんじゃない。
 捨てたんだ、すべて。
 右腕ごと、あの頃を。
 そうとも。
 俺は負けた。
 負けたんだ。
 その事実は、変わらなかったはずなのに。
 気取って浮かれて、俺はいったい、何をした?
 こんなところで素人相手に力を見せつけるのが俺のボクシングか?
 練りに練った俺の技は、あんなやつを突っ転がすために鍛え上げたのか?
 こんな地の果てで、ボクシングの真似事をするために、俺は、俺はあんなに練習したっていうのか――?

 違う。
 違ったはずだ。
 絶対に――……

 ――なんで、死んでくれなかったんですか。

 鋼は思う。
 きっとそれは、本当に、
 自分が言われたかった言葉だったのだろう。
 虚ろな目で腕時計をチラリと見やる。
 ああ、もういい時間だ。
 あれから何秒経ったのだろう。



 俺が死ななきゃいけなかった、あの瞬間から。

       

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