Neetel Inside ニートノベル
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 涼虎は、憔悴していた。
 空席になった転送座の傍らに添え木のように立ち、肘掛に手を乗せて、心の炎に焼かれた顔が苦しげに歪んでいる。その瞳は、映像を流し続けるモニターを捉えたまま凍りついている。無理もない、と殊村は思う。自分のボクサーの前では気丈に振舞っているだけ、立派なものだ。自分が拾ってきた運命が、今まさにこの瞬間の中で翻弄されているのだ。普通の人間ならば、底なしの罪悪感に責め苛まれる。そして涼虎は、普通の人間だった。
 自分のせいで人が死ぬのだ。
 恐怖と悪寒の見えない糸が、彼女の身体をがんじがらめにして、根が生えたようにその場から微動だにさせない。その姿は、端から見ている殊村の目からは、罰を受けているようにも思える。
 風か雲の研究でもしていれば、こんな目に遭わずに済んだものを。


「――『ビルの森』に追い込まれましたね」
 か細い涼虎の囁きに、そうだね、と殊村は言葉を返した。
 画面の中で、氷殻に鎧われた黒鉄鋼が、小刻みなスプレイダッシュをかけて『森』から抜け出そうとしているが、その度に密偵のような敵の白がパイロを撃って鋼の進路を妨害し、炎の塵が舞った。鋼も果敢にカウンターを狙って相手の白を撃ち落さんと攻めるが、相手は白を物陰の奥へとあっさりと引っ込め、大進撃を目指さない。そのために鋼は翻弄され、悪戯に時間と体力と無為に潰れる拳ばかりを費やした。
「まるで、モグラ叩きみたい。……相手は、なぜ一気呵成に攻め込んで来ないのでしょう」
「……涼虎ちゃんはさ」
 と、殊村はそれに答えずに、逆に聞き返した。
「ボクシングにおける『最強のパンチ』ってなんだと思う?」
 涼虎はモニターから視線を切って、殊村に向かって小首を傾げた。
「最強の、パンチ?」
「そ。最強の、パンチ。有名な話だよ」
 見えない糸に瞳を引かれたように、涼虎の視線が宙を泳いだ。
「えっと……ストレート、ですか?」
 殊村は首を振った。
「違う。……僕はつくづく思うんだ。このブラックボクシングは、悪い冗談みたいになぜだか、本当の拳闘に似ている部分がありすぎる。ひょっとして、誰かが雲の上から仕組んでるのかとさえ思える」
「……どういうことですか?」
 殊村はミラーグラスを掌ではめ込むように押し上げた。
「ボクシングにおいて、最強のパンチは『見えないパンチ』なんだ。どんなパンチも、それがストレートだろうとフックだろうと敵に読まれれば、ガードすることができる。かわし切れなくても、来ると分かっていれば耐えられる。でも『見えないパンチ』は、それが出来ない。貰えば、絶対に倒れる。人間の耐久力を超えたパンチを読めないタイミングで顎に喰らうんだから当然だ」
「それが、相手の戦法と繋がっていると?」
「そうさ。極端に言えば、この状況自体が黒鉄くんにとっては『見えない』んだ。向こうのセコンドは、この『モグラ叩き』じみた状況から、黒鉄くんが読めない攻撃を出してきている。突然現れた白による極端なヒットアンドアウェイ、セオリーから外れた動きによる心象霍乱。涼虎ちゃん、相手は――氷坂美雷と天城燎は、ボクシングをして来ているんだよ。黒鉄くんの脳に確実な『ダメージ』を与えるために……」
 モニターの中で、相手の白を追った鋼の黒が大振りのスウィングブローでビルの一つを瓦解させ、倒壊した瓦礫の中から粉塵が巻き上がっていた。鋼のアイスは立ち昇った破壊の煙を幾条も浴びて、まるで灰色の植物の根に、きつく絡み取られているようにも見える――殊村は喉仏を晒すように顔を上げ、それを見ていた。
「たかが六つの異能を振り回してくれているだけなら、相手がどれほどハイスペックでも怖くない。……怖いのは、相手がしっかり考えてきているということ。対策を練り、こちらの嫌がる状況へ持っていき、なおかつ『見えないパンチ』に繋がるカードを執拗に切り続けてくること。どんな正論も言い訳にせず、どんな忍従をも厭わずに、確実にこちらを殺しにかかって来ている。氷坂美雷は、この2Rを黒鉄くんの『心/メンタル』を崩すことに決めたんだ。たとえそれが、どんなにもどかしく、一見すれば好機を手放しているようにしか見えなくても……」
 涼虎は、息をするのも憚って、殊村の話に耳を傾けていた。
「シフトで離脱するのは、駄目なんでしょうか」
「百人いたら百人そう考えるから、駄目だね。氷坂は罠を張ってる。……なぜさっきから、モグラ叩きに稀少価値の高い白ばかり振ってくると思う? べつに黒だっていいんだぜ、天城の黒はこっちみたいに照準が狂ってるワケじゃないんだ。黒が出てこないってことは……」
 涼虎が、白く小さな顎に手をやり、おずおずとその先を引き取った。
「振ってこない黒は、べつのところで使っている……?」
 殊村は頷いた。
「だろうね。使い道はたとえば、……黒鉄くんがシフトで逃げたらすぐに『森』に潜ませてある黒を撃発して、黒鉄くんのアイスのドテッ腹を狙い撃ちにする、とかね。サンダーボルトライトの隠し砲台さ。ハズレりゃいいけど、当たれば死ぬよ。シフトの射程は平均九〇メートル。それに対してハンドは平均一八〇メートルもあるんだ。視界が限られている『森』の底で、逃げ道なんてありはしない」
「でも、シフトの射程距離なら、一八〇メートルまで延長できるナックルシフトを使えば……!」
「この状況でどうやって自分の黒を天城の白の包囲網から出せる? 撃ち落されておしまいさ。わかってる? 涼虎ちゃん」
 殊村はまるで今そこに涼虎がいることに初めて気がついたかのように、ミラーグラスの向こうから透明な眼差しを送った。モニターの中では、六車線のストリートの中央にいる鋼がスプレイもかけずに、その場に留まっている。天城の姿は、影も形もそこにはない。
 殊村は、言った。
「今って、スゴくピンチなんだぜ」


       

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