その目に見られながら唇を奪われていると、まるで唾液と一緒に魂まで吸われていくような気がする。
 血と風と砂の世界を、何億年も過ごしてきた猫のような、その瞳――……
 呼吸をしようとすればするほど相手の舌と自分のそれが深く絡み合ってしまい、髪にかけられた指は逃がすことを許さないとばかりに強く掴んでくる。やがて、蜘蛛の糸のような唾液の線を残して、重なっていた身体が離れる。
 炎のようなキスの後に、美雷は言った。
「どうしてそんなに苦しいか知ってる?」
 燎は、返事もできずに喉を押さえていた。荒い息のまま、視線だけで疑問符を放つ。美雷は白衣の中のアイスピースをガチャガチャと右手でまさぐりながら、転送座に収まる燎を見下ろしていた。
「これじゃあどっちが片端だか分からない」
「うる……せえな……!!」
「確かに最後の切り返しはよかったよ。褒めてもいい。でも、結局は優位な状況を生かしきれず、相手に反撃させてしまった」
「その代わり」ぺっと燎は転送座の下へ白濁した唾液を吐き捨てた。
「ヤツのエレキカウントは、ゼロにしてやった」
 美雷は首を振った。
「はあ……? ふざけんな、あいつはビルから逃げる時に二発、ナックルシフトで一発、その後のあの――あのクロスカウンターみたいなヤツで二発。1Rの一発と合わせて六発。これでゼロだろうが」
「枕木涼虎が七発撃てるアイスピースを作り上げていなければ、ね」
「ぶっ殺すぞ。いつだったか忘れたが、お前が言ったんだろうが。七発撃てるアイスピースは自分に作れないなら他の誰にも作れない……って。前提が違うぞ」
「そうだね――だから、黒鉄鋼はエレキを撃ってないんだよ。あのビルから出る時に、彼はただの黒を撃ってナックルシフトをかけたんだ。ビルに追い込まれたことを逆手に取って、時間のかかる方法でパンチの威力を上げた。たとえば、零距離で拳を振り回して砲丸投げみたいにぶっ放したとかね」
「……ふざけやがって。それじゃあいつは不調の黒でそんな自爆しかねない荒業をやったっていうのか? 俺にあの技を仕掛けてくるために? ただそれだけのために……」
「でも、そのせいで君は追い詰められた。白まで一つ失った」
「それは……!!」
 美雷は、ぞっとするような手つきで燎の頬を指先で撫でた。
「君は、助かろうとしている。黒鉄鋼の上をいくには、前提から違っているんだ。パズルだってそうでしょ? 最初は絶対ここからしかないっていう手順を見つけたら、あとはその繰り返し。それで答えに辿り着ける」
 でも――と美雷は囁く。
「でも、死と仲良しな人間の手順は、普通の人間とはその最初の一手から違うんだ。だから君には彼の心が読めない、分からない。黒鉄鋼は元ボクサー。ただ生きていくには最も不向きな世界からやってきた人間の心は、君みたいな普通人のそれとは最小単位から別物なんだ。でも、私には分かる」
 燎の頬骨のあたりに、美雷の指先が食い込む。罪を告白するように、美雷は言った。
「私は、彼と同じだから。こんな地の底でしか生きていける場所のない私は、死んでいるのと同じだから、分かる。彼の気持ちが。彼だけの苦しみが」
「美雷……」
「ねえ、教えてあげようか」
 美雷は、燎に身体を預け、彼の髪を慈しむように撫でさすりながら、言った。
「黒鉄鋼の弱点を――……」


 ○


 水をぶっかけてくれ、と言い出した鋼の頭に、殊村は並々と水の注がれたバケツの中身をぶちまけた。一瞬で豪雨の中を駆け抜けてきたようになった鋼の髪を涼虎の両手がかき上げる。額を晒す形になった鋼の顔は、リングに魂を置いてきたように覇気がない。サンキュ、と言いかけたその唇を涼虎が奪った。
 鋼の肩にかかった涼虎の指に力が篭る。
 やっとその唇が離れても、涼虎は目を逸らさなかった。
「黒鉄さん……」
「……悪ィ。ノックアウトには、ならなかった……」
「いいんです。それに……あなたが謝ることなんてないんです」
 涼虎が俯き、長い前髪がその表情を隠した。
「私にはもう、あなた達の闘いは高度すぎて、何も言えません。ついていくだけで、精一杯です。だから……」
 涼虎はその場に膝を着いて、鋼の左腕を手に取った。両手でそれをぎゅっと握り締め、傷一つない額に当てる。
 鋼が、眩しいものを見るような目になった。
 呪文のように、涼虎の口が言の葉を紡ぎ出す。




 おまへがたべるこのふたわんのゆきに
 わたくしはいまこころからいのる
 どうかこれが兜率の天の食に変つて
 やがてはおまへとみんなとに
 聖い資糧をもたらすことを
 わたくしのすべてのさいはいをかけてねがう




 涼虎が、顔を上げた。
 風邪を引いたように、頬が赤い。
「み、宮沢賢治です。知っていますか?」
 鋼は何も言えずに首を振った。涼虎は、しくじった、と言いたげな顔を少しだけ見せたが、軽く唇を噛んで焦燥のような恥辱のような何かに堪えた。鋼の左手を掴んでいた手を離す。
 アイスピースとミストが一揃い、鋼の手に残された。
「……本当は、セコンドの私がちゃんと指示を出してあげないといけないのに……私は殊村くんにも教えられてばかりで、今こうして帰ってきたあなたにも、何も役に立てることが、なくて……」
 膝の上で白衣を掴む手に力が入り、白衣がくしゃくしゃになる。
 揺れる瞳が、男を見上げる。
「ごめんなさい、黒鉄さん。祈ることしか、できなくて――……」
 鋼は、何も言わなかった。
 ようやく、ぼそり、と何か言った。
「……この世には、多すぎるんだよ」
「え?」
「それだけで充分なんだってことを、分かってないやつらがさ」
 鋼は、一本指を立てて見せた。
「一発だ。一発エレキがあれば、俺はどんな相手にも勝ってみせる。……さすがにゼロじゃどうにもならないけどな?」
「黒鉄さん……」
「二発もあれば充分だ。そうだろ真琴くん」
 ニヤニヤ笑っていた殊村が我が事のように頷く。
「君に勝てるやつがいたら、そいつは天使か悪魔だな」
「そいつらにだって負ける気がしねえよ。俺には、お前らがいるからな。枕木、真琴くん、ルイちゃん、八洲……」
 そして、ここまで自分を押し上げてきてくれた、かつての仲間たち。
 そのすべてに、いま、感謝する。
 鋼は、アイスとミストを口に含み、噛み砕いた。舌を貫く稲妻の味が迸り、火が点く酒を飲んだ時のような衝撃が身体中を駆け巡る。眼球の毛細血管の一つ一つまで、今なら意識できる気がする。
『クロガネくん、そろそろいく?』
「ああ、いいぜ」
「黒鉄さん、あの」
 何か言いかけた涼虎の頭をくしゃくしゃと撫でて、その手が夢のように掻き消える。
 殊村が、ふっとため息をついて、天井を見上げた。
「勝てねえなァ、やっぱ」
 空になった転送座を見つめる涼虎の横顔を、殊村は、見ていることができなかった。