最初は、小さな炎だった。
 炎。
 炎は、常に餓えている。
 何に餓えているか。
 酸素に餓えている。
 酸素は何によってもたらされるか。
 風によってもたらされる。
 ブラックボクサーの風(あし)がかき回した都市の気流は、彼らの左/ジャブが残した小さな火種を大喰らいにし、柱の森は炎の海に覆われた。
 その光景はまさに地獄。
 云われのない罪で堕とされた苦悶の亡者の手のような、背の高い炎が風を求め、その先にある極上の生贄を欲している。死者の感情を代弁するように。
 あまりにも深すぎる苦しみは、新たな犠牲者を生み出すことでしか癒せない。
 そんな地獄を足蹴にして、男達は闘う。
 闘い続ける。



 めきぃっ……



 派手な音を立てて、眼前のアイスに深々と亀裂が入った。いいストレートだった。蜘蛛の巣状のヒビ割れの向こうに敵の黒がめり込んでいるのが見える。相手の黒を氷に引っかけたまま、鋼の身体に骨が砕けるような重力がかかる。無理に堪えてはいけない。下手にきついブレーキをかけてその場に残ろうとするより、かえって風/スプレイを抜いて、流されてしまった方がダメージは少ない。虚空のレーンを滑り落ちていく鋼の氷殻から、千切れた敵の黒手袋の断片がパラパラと剥がれ落ちていく。衝撃が完全に氷殻をすり抜けたあたりで、鋼はアッパースプレイをかけて体勢を整えなおした。見えた、と思った時にはもう直撃して爆発を起こすは紅蓮の弾丸。氷殻がビリビリと震える。これぐらいのジャブは二、三発ほどもらってしまうのはどうしても仕方がない。それよりもパイロの影に紛れて切り込んでくる黒を一つ一つ丁寧にこちらのジャブで応戦し撃墜する方が重要だった。なぎ払うようなラインでパイロを撃ち放ち、敵の黒が炎華に飲み込まれて炸裂し、氷殻が爆炎で濡れたように輝いた。
 左手をかざして氷殻に刻み込まれた傷跡を消しながら、鋼は一人、熱い吐息を漏らした。
 第3ラウンド。
 天城燎は、白を一つ失った状態で、距離を取らずに攻めてきていた。いつでもキスショットにいけそうな距離を狂った雀蜂のように飛び回っている。氷殻を透かして見える少年の瞳は糸で結ばれたように鋼を捉えて揺るがない。
 双球の狭間には、捨身の陣形が折り重なっている。背後はどちらも捨てている。燎からすればエレキ/シフトカウントが残り二つしかない鋼がキスショットをしてくる確率は低い。逆に鋼からすれば、燎はさきほどの奇襲の幻影がまだ目に焼きついていて、鋼の射程距離には迂闊に入ってこないだろう。もう一度あの『ギロチン・ストレート』を喰らって凌げる保証はどこにもない。この近距離なら、パイロフィストをわざとしくじるなんて味な真似をする前にエレキを喰らう可能性が高い。
 自然、どちらもキスショットを捨てた形になり、戦況は拳と炎による乱戦の相を見せ始めていた。
 どちらも下がらず、相手を轢殺するかのような苛烈な、それでいて最後の一線をどうしても越えられずにいる、そんな際どい接近戦。
 一発もらえば、一発返す。燎の黒が氷を撃てば、不調の黒が強烈なスウィングパンチを振り回して、たまたま当たったどちらのものかも曖昧な黒が敵の氷に直撃し、銀色の欠片が幾粒も砕け散った。どちらも氷を削られ、足下の炎上する都市に雪華が舞った。
 この第3ラウンド、鋼と燎はハッキリと競い合っていた。
 どちらが強いか、を。
 どちらのパンチが、どちらのボクシングが上なのかを――
(その鍵を握るのは――)
 鋼は考える。それは、炎、つまりジャブだと。どちらがより炎を扱えるかが、相手に黒を当てられるかの鍵になる。
 その点で言えば、ここまで全ての白を温存してきている鋼の優位は大きい。燎はエレキ/シフトカウントこそ五発も残しているが、拳は白を一つ失い、W3B2で最終ラウンドまで闘わなくてはならない。拳一つの差は大きい。これまでパイロの撃ち合いでは遅れを取っていた鋼だったが、このラウンドではほとんど互角だった。もう燎は、火力の差をぶつけてラクな試合運びをすることが出来なくなっていた。
 だからこそ、ここではお互いがどれほど効果的なジャブを撃てるかが重要になってくる。炎の裏に忍ばせた黒の一撃、すなわち『ストレート』へと繋げるために。
 そのための、『ワン・ツー・パンチ』だ。
 エレキを使わずとも、黒のスウィングブローは積み重ねていけば氷を砕く――
 そして、それを活かすための白。
 そのための、剣崎八洲との『W1B5』によるスパーリングだった。
(八洲――)
 竜巻のような乱戦を潜り抜けてきた燎の黒を白でパリングし、そのまま握り潰し、鋼は笑った。
(俺はアイツを倒してみせる――)
 冷たい氷殻の中で、鋼の情熱だけが燃えていた。
 魔王の複眼のようなパイロの嵐、それを黒の拳で殴り抜け、弾幕を切り裂き、そこから突破。不調の黒を使うなら、被弾を恐れてはならない。
 爆発の轟音で、とっくに何も聞こえない。
 負けじと鋼も白の拳から火球を撒いた。その裏側に黒の拳を潜ませる。自分のガードも意識しなければならないとはいえ、W3B3の鋼はW3B2の天城燎よりも相手の喉元ギリギリ一杯まで攻め込める。
 第3ラウンドが始まるまで、エレキ/シフトカウントでは明らかな劣勢、ハンドカウントでは一つ優勢というこの状況が果たして自分と相手どちらに利するものか、鋼自身にも判断がつかなかった。だが、今は言える。
 ――俺が優勢だ、と。
 タイムラグのあるエレキは連発したところで当たりはしない。つまり、結局残弾がいくらあろうと肝心要の土壇場では一発で決着になる可能性が高い。そしてそこへ至るまでの砲台が、W4B2から始めた燎と、W3B3である鋼では致命的な一発の差がある。
 活かすしかなかった。
 垂涎の一撃で奪い取った、この一発分の拳の差を。
 スナッピィな拳から火球をリズミカルに繰り出す。燎はそれを踊るような小刻みなスプレイダッシュで避け、かわし、ムチのようにしなやかな鋼のジャブの隙間を縫ってチャンスを狙う。
 二人の間に、濃厚な時間と確実なダメージが積み重ねられた。
 撃たれたら撃ち返す。すでにアドレナリンに支配された神経がそういう風に出来上がっていた。甘美な回避などは姿を消した。そこにはただ我武者羅に攻撃を受けたことを無視し続ける二人だけがいた。氷/ボディに黒を一発もらった鋼が幻想の激痛を脳にぶち込まれた衝撃で胃酸を吐き戻し、ジャブの集中砲火を喰らった燎の鼻から初めて一滴の血が垂れた。
 鋼は、相手のダメージの模様をしっかりと見つつ、砕けるほどに歯を噛み締めた。
(仮にもボクサーが、腹を撃たれてダウンなんかできるかよ……!!)
 双球の高度が下がっていることに、鋼は気づかない。ふと下を見れば、まるでビルの森が燃えながら二人を飲み込もうと競り上がって来たようにも見えただろう。
 酸素を噛み砕きながら燃え盛る炎と、エネルギーそのもののような拳の衝撃が数え切れないほど交錯する。
(――チッ)
 鋼のスプレイが、喘ぐように失速し始めた。
 風(あし)にキていた。
 もし完全に失速すれば、風の支えを失った氷殻は真っ逆さまにビルの森へと落下する。アスファルトに激突すれば、手元から滑り落ちたタマゴのように氷殻は粉々に砕けるだろう。
 ブレインによるブラックボクサーのノックアウト時のサルベージ回収率は、それほど高くない。ボクサーがダメージを受ければ受けるほど、ブレインとのリンクは乱れるからだ。つまり、時間が経過すればするほど、ラウンドを重ねれば重ねるほど、死傷率は天井知らずに上がっていく。
 鋼の目が、チラッと足元の都市を盗み見た。その網膜に枯れた噴水が映っていた。第1ラウンドで鋼がエレキキネシスでつけた傷跡が、凶兆のように深々と刻まれている。
 生唾を飲み込み、そしてすぐ敵へと視線を戻した時、そこには誰もいなかった。
(シフ――)
 ――トかと思ったが、違った。燎は、すぐ真上にいた。
 わずかに、鋼のパイロが甘かった。弾幕にいくつかの死角ができるのは仕方が無いこととはいえ、その穴に黒や抑えのパイロを伏せて置くのがブラックボクシングのセオリーだったが、かすかな隙が鋼の連射の上方に空いていた。たまたま目を切った瞬間に燎がそこを駆け上がったのも痛い。いや、むしろこれは燎のボクサーとしての目の良さを褒めるべきかも知れない。たった一瞬でそこを駆け上がれるために必要な判断能力は、どれほどの稀才がセコンドについていても指示できるものではない。
 とにかく、燎は鋼の頭上を取った。
 スタイルは、フレイムチャージ。
 一斉射撃の構え。
 距離を稼ぐために下がろうとして、鋼は気づく。
 どこへ逃げるというのか。
 鋼の背中には、燃え盛る都市が広がっていた。
 全身から冷や汗がぶわあっと滲み出た。
 雲海を背負った氷殻の中の天城燎が、持ち上げた左手を、笑いながら振り下ろした。
 滝のような炎の魔弾が、黒鉄鋼に降り注ぐ。

「――――ッ!!」

 ロープ際の攻防だった。

 ○

 鋼は逆に炎の雨に突っ込んだ。三点から収束しながら鋼を撃つ炎の流星の中へあえて飛び込んだ方が、収束前にできている隙間から抜け切れると判断した。手痛いダメージを被りながらも真紅の第一陣を突破する。当然のように第二陣が落ちてくる。アタマの狂ったプログラマーが作り出した攻略不能のシューティングゲームのようなその絶望。その中に紫電を帯びた黒が混じっていたことに鋼は一撃で気がついた。
 かわせないタイミングだった。
 考えている時間はなかった。
 死に物狂いのスプレイを真横にかけて氷殻を大スピンさせる。せめてもの努力でなんとかエレキが真芯を捉えるラインから氷殻をズラす。出来ることはそこまでだった。一発の電撃の化身と成った天城燎の黒が鋼の氷殻をギリギリまで削ぎ取りながら都市へと落ちた。幾本ものビルが倒壊する轟音が響き渡り、砂塵が大気を黄色く染めた。鋼はいよいよ死ぬかと思った。が、
 切り抜けた。
 またしても。
(――へっ、ツイてるぜ)
 思っていたよりも近い距離に燎の氷があった。燎は底の読めない無表情のまま、バックスプレイをかけた。焦っていたように鋼には見えた。距離を稼ぐために生贄に出された燎の黒を鋼から一番近くにいた白がパリングして握り潰した。
 反撃開始だ、と突っ走りかけた鋼の前に何か黒いものがひらりと舞った。
 黒塗りのバンダナのように見えた。
 違った。
 マウントされていない、手袋だった。
 その中身が、満たされる。
 充填される。
 紫電を帯びた。
 何を恨もうにも、その手袋を握った拳の中に隠して運んだ敵の黒は、すでに鋼によって潰されている。
 回避するのは不可能だった。
 あまりにも、その拳と鋼の氷殻は近すぎた。ガードの拳の内側でマウントされたのだ。いきなり顎の下に拳が出現したようなもの。
 残弾は二発だったが、迷わなかった。かえって鋼は冷静でさえあった。
 空気が弾ける音だけを残して、鋼の氷殻と護衛の拳が虚空に消えた。
 シフトキネシス。

 ○

 天城燎のサンダーボルト・ライトがどこかへ落ちる轟音を、鋼は氷の振動と己の耳で感じ取った。
 飛ぶなら、ビルの森しかなかった。
 だが、そのほとんどはもはや炎の海に包まれ、飛べばダメージは避けられない。
 しかし一箇所だけ、まだ炎の悪舌に飲み込まれていない地点があった。
 枯れた噴水のそばだ。
 あの周囲は広場になっていて、開けている。仮に飛んでも炎はなく、かつ障害物が少ないため上空への復帰が容易だ。飛ぶなら絶好のポイントだった。
 鋼は静かに氷殻を床に着地させ、ビルの中で安堵の吐息をついた。第2ラウンドで見せた秘蔵の奇策『ギロチン・ストレート』が、どうやら敵にエレキ二連撃のアイディアを与えてしまったらしい。しかしそれも、傷は受けたが、捌き切った――これで相手はエレキ/シフトカウント残り三。こちらは残り一だが、関係ない。
 一発あれば俺は勝つ、と鋼は本気で思っている。
 ――さァ、今度こそ反撃開始だ。
 しかし、スプレイをかけて邪魔な壁をぶち破ろうとしたところで、鋼はふと思った。
 なぜ、自分はビルの中にいるのだろう……

 ○

 転送座に白衣姿の氷坂美雷が座っている。
 頬杖を突き、足を組み、傍らにはコーヒーとクッキーを乗せたミニテーブルが置かれている。まるでそこが自分の場所だと思っているかのようだ。いや、実際、そう思っているのかもしれない。
 マス目模様の綺麗なクッキーを噛み砕きながら、美雷は、モニターの中の戦場を見上げている。
 枯れた噴水のある位置には、倒壊したビルが横たわっていた。
 天城燎のサンダーボルトライトでへし折られたビルの一つの成れの果てだ。
 黒鉄鋼は今、その中にいる。
「弱点……」
 美雷は熱に浮かされたように、第2ラウンド終了時のインターバルで燎に囁いた言葉を繰り返した。
「黒鉄鋼の弱点、それは、――『蛮勇』」
 白魚のような指先で、コインサイズのクッキーを摘み、食べた。
「勇敢であるがゆえに、たとえ残り少ない垂涎のカウントでも使うべきだと決断すれば確実に使ってくる。そしてその経験が、彼に的確な判断能力を与えてもいるけれど――ゆえに、そこが付け目。強気の姿勢も、もはや虚勢」
 両手を組んで、丹精こめて描き上げた絵画を見る画家のように、美雷はモニターを見上げる目を細めた。
「ボディを撃って火の海を意識させたのは、黒鉄鋼の視界の中に不燃地帯の枯れた噴水の画(え)をハッキリと挿入させるため。必ずそこへ飛んでくるなら、どんな必殺の罠でも張れる。……咄嗟のアレンジはあれど、彼のスタイルの骨子には、揺らぐことのない彼自身の『魂の理屈』が通っている。私には、それが分かる。だから……それを、切って落とす」
 モニターの中で、ビルの壁面がアップにされている。
 そこには、白の拳が三つ並んで張りついていた。中にいる黒鉄鋼が姿の見えない白を寄せようとして、壁に阻まれたのだ。
 そしてその拳を一直線で繋いだ先に、天城燎の漆黒の拳が控えていた。
 紫電を帯びている。
「残念だよ」
 美雷は言った。
「科学(わたし)と暴力(あなた)が手を組めば、もっと上にいけたのに」
 その口元が、ニィッと歪んだ。
「今度は、左腕だったね」


 解き放たれた雷撃の閃光が、モニターのチャチな画素数を真っ白に塗り潰した。
 稀才異能が織り成すは致命の一撃。
 ――左腕殺し。