「涼虎ちゃん」
「…………」
「涼虎ちゃん!」
 珍しく語気を荒げた殊村の声が、ガラス細工になったように虚ろな身体をすり抜けていく気がした。磔にされた無垢な標本のように、涼虎は呆然として、転送座の前に立ち尽くしていた。透明な操り糸に眼球を刳り貫かれてしまった視線が、ある一点から外れてくれない。
 そこには悪夢が座っていたから。
 バケツに汲んだ水をアタマからぶち撒けられたはずなのに、そこに座っている男の顔を滴った水は、冷たい床に落ちて弾ける時にはもう赤かった。十数分前までは焼きたてのパンのように膨らんでいた頬がまるごとげっそり落ちていた。眼窩は過労の隈取に囲まれて暗く落ち込み、その中に浮いた眼球だけがまだ辛うじて生きていた。血と唾液でべっとりと汚れた顎は落ち、線が切れたようにだらりと下げられた左手の指先は小刻みに震え、鼓膜が破れた方の耳から流れた血がジャケットに小さな染みをゆっくりと広げていた。
 とても何かが出来る男の姿ではなかった。
 今すぐ投与されるべきなのは、第4ラウンド用のアイスピースなどではなく、きちんとした栄養剤と暖かい食餌のはずだった。
 それでも、黒鉄鋼の顔をタオルで拭く殊村のミラーグラス越しの視線は、涼虎にたったひとつの役目を要求していた。
 アイスピースを投与しなければ、ブラックボクサーは飛び立てない。
 必要なものはすべて、白衣のポケットに詰まっている。あとはそれを冷え切った手で渡すだけ。
 それが、
 それが、どうしても出来ない。
 見て見ぬフリにも限度があった。自分のボクサーがリングでパンチを貰うたび、自分自身が打ちのめされたかのように身体が震え、壊れそうなほどに回転数を上げた心臓が暴れて胸を痛めた。何かしなければならないのに、自分には、何もできない――その地獄の苦しみが、とうとう涼虎の最後の理性を吹っ飛ばした。
 堪え切れずに、言葉が溢れた。
「どうして……ですか……?」
 そう聞かれた黒鉄鋼は、答えの代わりに血を吐いた。
 涼虎の唇が、震えた。
「どうして、まだ、起きているんですか。眼を覚ましていられるわけ、ないのに」
「涼虎ちゃん」
「どうしてっ……!」
 伸ばしかけられた殊村の手を、そして自分を取り巻く世界そのものを拒絶するように涼虎は拳を固めて叫んだ。
 強烈な自己嫌悪で死にたくなる。
 これではまるで、五体満足で戻ってきたボクサーを罵倒しているようだ。いや、事実そうなのかもしれない。
 ……枕木涼虎は、黒鉄鋼に戻ってきてなど欲しくなかったのかもしれない。
 なぜなら、涼虎はまだ自分の眼の前で誰かが死ぬのを見たことがないから。
 モニターに映る都市に飲み込まれていったボクサーなら知っている。
 アイスピースの過剰摂取で再起不能になったボクサーなら聞いたことがある。
 けれど、こんな風に、眼の前でゆっくりと死に絡みつかれていく人間を直視したことは、涼虎にはなかった。
 今まで考えないようにしてきたことだった。
 アイスピースを投与し続けた人間がどうなるか。
 致命傷に近い一撃をもらったボクサーがどうなるか。
 汚いものはすべて殊村に拭かせて世話をさせ、自分は気障ったらしい真っ白な両手を頑なに守り続ける。
 無事を祈っている?
 そんなわけがない、自分はただ、瑕をつけられたくないだけだ。
 いつだってそうだ。何もせず、見ているだけの、最低な女。それが枕木涼虎という人間なのだ。
 何もかも嘘だ。
 何もかも。
 ぼやけていた眼に焦点が合う。
 黒鉄鋼が、涼虎を見上げていた。
 口から滴る鮮血に眼もくれず、ただ、静かに。
 涼虎は、小さく、首を振った。
「終わりです……実験を中止します」
 履行不能の宣言だった。そんなことを独断でやれば涼虎の生命はない。
 それでも、どうしても、涼虎にはもう信じることができないのだ。
 ――黒鉄鋼がこれ以上、闘えるなどという夢物語は。
 吐くように叫ぶ、
「あなたはもう、闘わなくていいんです。充分にデータは揃いましたから。……これでいいんです……もう、休んでいいんです……無理しなくていい、頑張らなくたっていいんです!! だって……」
 だって、これ以上、闘ったら。
 あなたは本当に死んでしまうから。
「枕木」
 涼虎は、鋼と目を合わせることが出来なかった。背けた頬に涙が伝った。唇を噛む。卑怯も愚劣もここまで来れば立派だ。この期に及んで最後の武器である『女』を引っ張り出してくるとは、もはや情状酌量の余地はない。このまま縊り殺されても文句は言えない。
 もういっそ嫌われた方がラクだった。殺したければ殺せばいいと思った。
 それでも、ポケットの中のアイスピースだけは渡さない。
 絶対に渡したくない。
「枕木、あのさ」
 言ってくれたろ、と鋼が色のない声で言った。涼虎の身体が小さく震えた。
「……なんの、はなし、ですか」
「最初に会った時にさ――」
 ゆっくりと、誰かに無理やり顎を掴まれたように、涼虎は恐る恐る鋼の方を向いた。
 乾いた血のこびりついた顔で、鋼はいつものように笑っていた。
「俺は、お前の『厳正な選定』ってヤツで、選ばれたボクサーなんだろ? だから、心配なんてするな。お前はこんなトンデモないクスリを作れるくらいにアタマがいいんだから、俺みたいにつまんないことで間違ったりしないだろ?」
 一瞬、なんのことを言っているのか分からなかった。
 理解した途端、可笑しくなった。
 ああ、なんだ。
 これはただの罰か。
「……違うんです」
 笑みと泣きの半ばで涼虎は言った。それを聞いた鋼が疑問符を顔に浮かべる。
「違う?」
 ふふっ、と終に笑ってしまった。
「厳正な選定なんて、して、ないんです。ブラックボクサーの被験者の条件は、身体能力でも、正常な脳を持っていることでもない。条件はたった一つ――社会的不適合者であること」
 鋼は、透明な眼差しを向けてきた。
「……それで?」
「ピースメイカーになって、上層部から下りてきた、被験者候補のリストを見て、私は途方に暮れました。いったい、いったい誰を死なせばいいんだろうか、と。か、考えても答えなんか出ませんでした。でも、誰かを選ばなきゃいけませんでした。選ばなきゃ、私が、殺されるから。だから、だから思ったんです。死んでもらうなら――最初から死にたい人がいいだろう、って」
 涼虎は、何度も何度もしゃくりあげて、ようやく言った。
「あ、あなたも、そうやって選びました。リストの中に書いてあったのは、事故で片腕を失った元ボクサー。それだけです。厳正な選定なんか、誰もしてないんです。私が勝手にあなたを選んだんです。だから、だから――」



 だから、私を信じたりしないで。



 どちらにとって、何が残酷だったのか、もう誰にも分からなかった。
 自分の膝にすがりついて泣きじゃくる涼虎を、鋼は何も言わずに見下ろしていた。殊村には、その横顔はあまりにも静かで、かえって底知れぬ怒りが見えたような気がした。
「枕木」
 びくっと肩を震わせて、叱られた子供のように少しずつ、涼虎が顔を上げた。
「俺さ、こう見えて結構、自分のことがキライでさ」
 鋼は言った。
 どこか、照れくさそうに。
 今日がなんでもない、ただの平凡な一日で終わると信じているかのような、いつもの口調で。
「現役引退してからはホントにひどかった。生きてんだか死んでんだか、分からなかった。近所の子供にゃふざけて蹴られるしよ。情けないったらありゃしねーよ。でもな」
 涼虎の頬を伝う涙を震える指先で拭い、
「あの日、お前が俺の部屋に来てくれて、救われたと思ってる。感謝してるよ、枕木。……お前は何も苦しまなくていいんだ。苦しむのは、どこかの別の、誰かでいい」
 そんな甘い言葉を軽々と、了承できるはずがなかった。
 でも、と勢い込んで言いかけた涼虎の胸倉を鋼が乱暴に掴んで、ぐっと引き寄せた。
 そのまま、唇を奪った。
 無意味なキスだった。第4ラウンドは終わっていない。ミストを作る必要はない。
 それでも。
 涼虎は、その一撃で完全にノックアウトされた。接触した皮膚から迸った神経言語が脳を焼き尽くして一瞬でショートさせた。思考中断、抵抗終了。ただ、強張っていた小さな身体から力が抜けていくのを遠い意識の中で感じるだけだった。だから、黒鉄鋼の左手が自分の胸元から滑るように離れ、白衣のポケットの中に差し込まれたのも、知覚できなかった。できたとしても、そのまま為されるがままにしただろう。
 残酷な盗人の左手が白衣から抜き取られる。やはり、アイスピースを指で摘んでいた。
 『二つ』ほど。
 三本の指で器用に挟み取ったその氷菓を、手首を翻して拳の中に握り締めた。
 優しいキスが、続いた。
 そして、ふいに消えた感触を追って、眼を開けた涼虎の前には、誰もいなかった。煙のように、夢のように、男は消えた。
 涼虎は思う。
 夢を見るなら、醒めない夢がいい、と。


 ○


 風が吹いている。
 片膝を突き、左手一本で身体を支える鋼の姿が、ニュートラル・ピラーの屋上にあった。熱に魘されたように呼吸は荒く、脂汗が浮かんだ顔は苦悶に歪んでいる。それでも、顔を上げた。
 炎の赤が雲海を黒く染め上げている。火の粉が逆上がりの雪片のように舞い上がっては、消えていく。眼下の都市では崩れた瓦礫が猛り狂う禍炎を押し潰し、熱量だけが熾火となって、砕けた建材を幽かに喘がせている。
 両足に力をこめて、やっとの思いで立ち上がった。
 左手には、氷菓が二枚、握り締められている。
 炎の影を宿した双眸が、揺れる。
『――クロガネくん、止めても無駄だって分かってるけど、言うよ』
 科学の泉から産まれた妖精が、戦士の耳元で囁く。
『アイスピースをダブルで服用しても、たぶん、望んだ効果は得られない。それでいいんなら、最初から二つ使っているはずだし、無意味で危険ばかりが高いから、誰もそれをやらない。それは、分かっているよね』
 頷く。
『白(ひだり)を再充填できるわけでもない。エレキカウントを回復させられるわけでもない。それでも、使うの?』
 二度、頷く。
『――そっか。そうだよね。ずっと、そうして来たんだもんね。いまさら止められない、よね』
『……悪ィ』
『いいよ。いいんだよ。あなたは、あなたのままで。ありのままのあなたが、きっと一番、強いから。……さあ、行って。もうすぐ、ゴングが鳴るから』
 三度、頷き、手の中の氷菓を見つめる。アイスに包まれた赤と黒を融かし合わせたその液体は、微細な手の動きに合わせて揺らめいている。それを口の中に押し込んだ。霜の下りた冷たさが、鋼の舌を焼いた。

(俺は、自分のことが嫌いだった)
(その言葉の責任を、今、果たす――)

 最後に、声がした。
『――でもねクロガネくん、あたしが人間の女の子だったら、君のこと、絶対に放っておかなかったんだからね』
 眼を閉じて、その言葉の余韻を痛みと共に味わって。
 重ねられた二枚のアイスピースを、躊躇なく噛み砕いた。
 がちゃりと粉々になった氷器から中身が溢れ出す。
 それは、
 それは、『振動』という味だった。『轟音』という味だった。
 脳を誰かに鷲づかみにされたような衝撃と恍惚が神経細胞を駆け抜けて、シナプスに微細なさざなみを引き起こし、不可侵であったはずの原形質の鉱脈から奇跡の原石を採掘する。感覚のより糸がどこまでも細くなり、煌き移ろうプラズマがミラーニューロンの迷宮をデタラメに乱反射する。ルビーの歯に噛みつかれた言語野は絶叫し、連なるように代謝され循環していく妄想が、紺碧の頭脳をどこまでもどこまでも拡散していった。弾けて混ざった空想に現実は改竄され、神話の世界が蘇生する。灰色の屋上に滴っている雫が自分の汗と唾液だと気づいて、鋼は自身が跪いていたことを知った。立ち上がり、ぺっと唾を吐き、ジャケットを左腕一本で脱ぎ取って、吹きすさぶ風にくれてやった。鳥のように羽ばたいていくジャケットが彼方へと流れ去っていく。青みがかった、ショートスリーブのアンダーウェア一枚になった鋼は、ぐいっと口元を左腕で拭った。視線の先で、二重螺旋に取り囲まれた馬上槍のようなモニュメントに今にも稲妻が落ちそうだった。
 やけに落ち着いていた。
 怖いくらいだった。
 ただ、鋭敏になりすぎた神経だけが、鼓膜が破れた瞬間のように甲高く研ぎ澄まされている。どこかの脳地図が壊れてしまったのか、ルイとのリンクは途切れて終わっていた。

 もう誰の声も聞こえない。
 もう誰の声も届かない。
 それでも俺は覚えている。
 忘れることができずにいる。
 自分の名前を、呼ぶ声を。

 左手で引き千切った三枚のグローブを握り締め、黒鉄鋼は爆風を喰らったように駆け出して、ニュートラル・ピラーの屋上から生身のままで飛び降りた。風を喰らって落ちながら、握っていた手袋をばら撒き、充填させた。視界に迫ってくる地獄が産毛を焼き、それを防ぐ氷の盾が獰猛な細菌が繁殖していくように真円をなぞって展開していく。どこかで雷鳴が聞こえ、風王の息吹を氷殻に与え、鋼は螺旋の塔へと飛翔していった。
 最強を目指して。