Neetel Inside ニートノベル
表紙

黄金の黒
第四部 『FORCE ROUND』

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 攻撃方法など限られていた。
 スタイル・『リベリオン』。
 都市を貪る炎が飢(かつ)えに負けて、ついに光をも吸い尽くしてしまったかのように、やけに薄暗くなった小さな天地を黒鉄鋼は駆け抜けた。全力全開のスプレイをかけっ放しにして、雑に書き流した線のように突っ走る。
 すぐそこに、敵がいる。
 気障ったらしい策などない。張り詰めた緊張の糸が少しでも解れれば、その瞬間に意識がブラックアウトするのは目に見えていた。冷え切った汗が飽きもせずに額から流れっぱなしになっている。振り払う暇も惜しい。
 すでに敵の射程距離に入っていた。
 天城燎に残された二つの白から、火球の散弾が横殴りに降り注ぐ。十三方向。かわせない。充填してある三つの拳をすべて犠牲にしても九発はもらう。鋼の眼が引きつりながら見開かれ、その処理能力を総動員して、火球の弾道の中に隠された、九発貰うところを七発で済むコースを見抜き出した。躊躇わずに突っ込む。
 閃光。
 立ち込めた爆煙を充填し直した黒で振り払って切り裂き、視界を回復させた時にはもう、天城燎は充分なバックスプレイをかけて悠々と距離を取った後だった。鋼の胸に悪酒のような苦味が残った。これだ、と思う。
 これぞ、ホワイトゼロ・ブラックスリーの殺し方……。
 左手/ジャブが死んだ鋼には、距離を取られれば撃つ手がない。下手に押し引きの駆け引きを仕掛けたところで絡め取られて撃滅される。仮に弾幕を切り開いても敵は常にバックスプレイをかけて一定の距離を保ち続ける。
 この単純明快な負け方をどうにかできない限り、黒鉄鋼に生き残りはない。
 天城燎の白が、炎をチャージし始めた。撃った。
 鋼には何もできない。
 再び、自分の拳を犠牲にして、弾幕の中でもっとも被弾率の少ないエリアに突っ込んだ。衝撃と轟音が何重にも積層された。最善の道を選んだところで被害は決して軽くない。まるで性質の悪いイカサマだった。くそっ、と呻く。
 天城燎のジャブは、ショットガンの弾道のように、散らばり、不規則だった。しかし、一見すると不明瞭な意味の裏に必殺の意図が徹底的に隠蔽されているのが鋼には分かる。いっそ集中砲火してくれた方がまだやりやすかった。天城燎のジャブは確実なダメージのみを視野に入れていた。全弾必中などさせる必要はない。たとえ一発でもヒットさえすればそれで充分。
 もうすでに、半ば勝負は決まっているのだから。

(……くそっ!)

 少なくとも嬲り殺しではない戦闘の態を為すためには、まず距離を潰さなければならないのに、それすらもままならない。ひたすらトライ&エラーを繰り返し、敵がケアレスミスをして弾幕に小さな風穴が開くのを待ったところで、あの天城燎がそんなヘマを打つとは思えないし、それに何より、この体調――長期戦などこちらから願い下げだった。
 一体、どういう按配なのだろう、と鋼は思う。
 一発ももらいたくないジャブを、自分から七発も喰らいにいかなければならないとは。ガッツやスピリットでどうにかできるレベルを超えている。顔が粟立つ。もう何年も眠っていないような気がする。限界など、第3ラウンドのどこかに置いてきた。
 それでも、天城燎のパイロを五発も六発も喰らっても、鋼の氷は砕けなかった。
 砕けなかったのだ。

(――まだ、やれる)

 これはもう、こう考えるしかない。
 つまり、いるのかどうかも分かりはしない神様が、こう言っているのだ。
 お前が勝て、と。
 いいぜ、と思う。すべてのパンチはリズムと振動。その基本原則に変わりはない。
 チラリ、と鋼の眼が、すぐそばにそびえているモニュメントのスパイラルを見やった。そして次に、自分の左腕に巻かれた腕時計を見た。気持ちが乗って、あまりにも強く視線を注いでしまい、ハンドキネシスの余波が時計の文字盤とベルトを弾き飛ばした。しかし、砕け散った時計は最後の役目だけは果たしてから落ちていった。
 残り時間は――ジャスト五分。
 それだけあれば、充分だった。
 天城燎の白が拒絶の炎を虚空に布陣する。酸素を噛み殺しながら迫り来る炎の流星群を、しかし、鋼は回避もしなければガードもしなかった。鋼の黒は、すべてどこかへ消え失せていた。殉教者のように、鋼が眼を閉じる。
 爆発。
 虚空に浮かんだ燎の白の指先が、神経質そうにピクついた。黒煙が晴れた時、そこに誰もいなければ、勝負は終わりだ。
 この、あまりにも長かった三十分間に、決着がつく――ひょっとすると二人のボクサーだけでなく、一発一発の拳やパンチだって、それを待ち望んでいるのかもしれない。
 黒煙がかき消すようにふっと晴れた。鋼は、そこにいなかった。だから天城燎の白は、追撃を加えなかった。ただ戸惑ったように虚空に漂っていた。そこには、見慣れないものがあったから。
 何かの滑走路に似ている。銃身を半分に切って割ったもののようにも見えたし、異国の小屋の屋根にも見えた。それは、モニュメントのスパイラルの切れっぱしだった。
 言うまでもないが、シールドだった。
 緩やかなカーブを描いたスパイラルの表面から、黒い指先が壁の節穴のようにいくつもいくつもチラリと見えていた。何らかの象徴/シンボルというものは、特に核シェルターのように『耐久性』を売りにしている場合、そう簡単には壊れないように出来ている。引っぺがすのに少し時間がかかったが、周囲に煙の残滓が充満していたおかげで助かった。
 さて、このシールド。
 どうやら天城燎のパイロキネシスにも『耐久』できるようだった。
 ありがたいことに。
 鋼が笑い、
 左手が発狂した。
 弾幕の布陣などお構いなしに集中砲火でシールドめがけてパイロを豪雨のように連射した。が、そのすべてをスパイラルの盾は弾き返し、そして鋼は突撃を決断した。全力全開のスプレイダッシュ。光り輝く風の軌跡を残して、一直線に鋼は燎との距離を殺した。スパイラルのくぼみに恐ろしいほどの偶然を伴って、鋼の氷殻がはまり込んだ。天城燎自身は、まだ反射的にパイロを撃ち放っただけで、回避するところまで意識が回っていなかった。氷坂美雷の舌打ちが聞こえる。
 盾が砕け散るほどの一撃が、凍てついた双球の間で炸裂した。さすがにスプレイ・フルブラストでのキスショットにはスパイラルも耐え切れず、甲高い音を立てながら即席のジグソーパズルへと成り果てて、その衝撃の余波を無数に散らばる破片でもって知らしめた。キスショットは成功した。だが、鋼はそのまま衝撃だけを相手に伝わせたまま自分の氷殻は離脱させるような『撃ちっぱなし』にはしなかった。続行だ、と思った。
 脳味噌が軋む音が聞こえてくるような過集中をスプレイダッシュにぶち込んで、ダムを決壊させるほどの濁流のように風の暴力が鋼を再加速させた。二人の氷殻はいまだ接触状態にあり、どちらも一層のアイスが完全に亀裂に覆われて白裂化/フラッシュホワイトしていた。そのまま緩い角度で無人の都市へ流星のように落下していき、高層ビルの何本かを続けて貫きへし折りながら駆け抜けていった。そのまま突っ走っていればやがて地面へ激突していただろう、しかし、燎はこの土壇場でなんとかスプレイを自分と相手の隙間の中にねじ込み隙間を作り、氷殻をスリッピングさせて弾けるように鋼のキスショットの軌道から逃れた。サードフライのように打ち上げられた燎の氷殻は都市の上空スレスレまで上昇したところで逆スプレイをかけてその回転を止めた。さっと水を一滴、パレットに垂らしたように燎の氷殻から亀裂が消え去り、透明さを取り戻した。ようやく露見したその表情は焦燥と恐怖で醜く歪んでいた。視線の先では、勢いを止めきれなかった鋼のアイスが残していった破壊の痕跡が舞い上がる粉塵となって立ち昇っていた。ごくり、と燎は生唾を飲み込んだ。
 一体どこの誰だ。
 アイツがもう、立ち上がれないなんて言ってたヤツは。


 なぜだ、と燎は思う。
 なぜ闘える。
 なぜ倒れない。
 致命傷だったはずなのだ、第3ラウンドのあの一撃は。絶対に立ち上がれるはずがないのだ。氷殻越しに言語野を迸った衝撃がブラックボクサーを即死させていて然るべきだった。美雷のすべては杞憂で終わらなければならなかった。ヤツは、ヤツは俺に殺されるべきだった。なのに。それとも、知っているのか?
 ――俺の名前を?
 実名報道はされていないはずだ。事故の関係者にも父親が金を配って口止めさせた。それにヤツは事故直後から腑抜けになって自分のアパートに閉じこもっていたと何かの噂で聞いたことがある。向こうのセコンドから俺の名前を聞いていたとしても、それが、『右腕の仇』とすぐに繋がるはずはない。それとも、セコンドが気を利かせて教えたのか? いや、俺の名前以上のことは、たとえピースメイカー級であっても余所のラボの人間には伝わらないはずだ。あるいは、右腕のことは知らなくても、ヤツのスパーリングパートナーを痛めつけてやったことがネックになっているのか。たかだ他人が傷ついたくらいで、本当にあそこまで力を発揮できるものなのか? そんな御伽噺みたいなことが?
 いずれにしても、
「……こんなやり方してたら、あいつも死ぬぞ」
 気がつくと、毒づいていた。
「……死んでもいい、ってことか? ……クソが、どういう神経してたら『自分が死んでもいい』なんてことになるんだよ!!」
 動揺を沈静させることを提案、という毒にも薬にもならないブレインの精神波に苛立ち、同じ波長で怒鳴り返した。
『そんなことより、美雷はなんて言ってる!? 俺はこのままフレイムチャージしてていいのかよ!!』
『氷坂様からは、作戦行動の新しい価値基準は提示されていません』
『このままでいい、ってことか?』
『はい』
 このままでいい。
 このままで?
 本当にこれでいいのか、と燎は焦りを覚えた。結局、フレイムチャージは破られてしまったではないか。モニュメントのスパイラルを引っぺがしてシールドにあてがう、などという奇策に頼った戦法とはいえ、事実、燎は決して軽くないダメージを受けた。それなのに、『このままでいい』とは、一体全体どういうことだ? 氷坂美雷らしくない。あの女なら、一度下手を打った戦術はどれほど精緻であろうとゴミのように破棄して振り返らない気がする。そう思考回路が巡った瞬間、燎の意識は飛躍した。笑えない想像が胸を満たした。
 氷坂美雷は、使えないものは簡単に廃棄する。
 それが物体だろうと戦術だろうと、……人間だろうと。
 まさか。

(……呆れられたのか、俺は?)
(何度指示を与えても、必殺のチャンスを逃し続け、第4ラウンドまでズルズルともつれ込んでしまったブラックボクサーには『新しい指示』など出しても、無意味だと?)
(どうせ、失敗するから?)
(期待にそぐわないから?)

 燎は、噛み千切れるほどに唇に歯を立てた。

(舐めやがって……!!)

 これほどの屈辱は、無かった。
 涙さえ溢れた。あわてて右袖でごしごしと顔を擦った。
 悔しくて泣くなんて、生まれて初めてのことだった。しゃくりあげそうになるのを意地で堪える。
 だが、一滴の屈辱を流すごとに、切歯の覚悟が決まっていった。
 見せてやる。殺してやる。そう思った。
 あの男を倒せば、認めてくれるんだろう。いくら氷坂美雷が狂気の天才であろうと、実際に闘っているのはあの女じゃない。自分だ。自分がヤツの首を獲って帰れば何も言えないはずだ。そこからさらにゴチャゴチャ抜かすようなら、今度こそ許さない。飼犬のように惨めに屈服させてやる。泣いても喚いても逃がしはしない。その傷つきやすい身体に教えてやる、誰が一番強いのかを。
 そのために、あの男を倒す。
 倒さなければならない。
 絶対に。


 黒鉄鋼が、炎上する都市から一筋の紺碧の線を引いて、上昇してきた。二〇〇メートル差で睨み合う。燎は思う。パイロじゃ駄目だ、と。
 有効な戦術であることは百も承知。二度とスパイラルのシールドになど誤魔化されるつもりもない。それでも、フレイムチャージには限界がある。理由は二つ。一、シンプルに一度突破されていること。別のやり方で二度目がないとは言い切れない。二、もし突破されてしまった場合、ノックアウトされる危険性が高い。黒鉄鋼はどう思っているのか知らないが、少なくともフレイムチャージをしている間、燎は決して湯船に浸かったような気持ちでいられたわけではない。
 強すぎるのだ。
 黒鉄鋼のパンチが。
 第4ラウンドになって、あろうことか、ヤツの強打はさらに威力を増していた。一体どんな魔法を使ったのか知らないが、火球を処理する動きを遠目に見ても、それは明らかだった。ただ、相変わらずの大振りではある。そのせいでパリングし切れなかったジャブも多い。だが、もしヤツが単騎で突破してくれば、そんなものは関係ない、ノックアウトされかねない強打が自分の周囲を怒り狂ったスズメバチのように縦横無尽に飛び回るのだ。懐に潜り込まれた時のことを考えると、白を比較的遠距離に配置するフレイムチャージは決して頼りっぱなしに出来るスタイルではない。元々、左利きでもない限り素のパンチ力は白より黒の方が威力はある。純粋な攻撃力だけなら、下手に白が残っているよりも黒がある方が優れているのだ。
 不安要素はそれだけではない。
 燎にも蓄積されているダメージ、それはセンスや素材とは無関係な物理的な問題だった。
 ――栄養失調。
 頭脳を酷使するこのブラックボクシングでは、補給された栄養分を餓えたシナプス群が簡単に喰い尽くしてしまう。インターバルごとに氷器に封入された栄養剤を使用することは出来るが、その燃費の悪さを補い切れるほどではなかった。
 脳が、喘ぎ始めていた。
 燎が、鼻を擦った。袖がほんのり、赤く染まった。
 必ずしも、長期戦はこちらが望む通りの結果を生まないかもしれない。
 ならば。
 懲りずに『リベリオン』のスタイルを取って接近してくる黒鉄鋼のプレッシャーを氷殻の全周で感じながら、燎は、思い切ったスタイルを構えた。嫌な汗が、不思議と心地いい。
 白を前線へと配置させず、氷殻のそばに付き従えた。そしてそのまま、炎を纏わせる。パイロフィストだった。
 それも二発とも。
 斜め後方の左右に控えさせておいた黒を燃え盛る白のそばへ置き直す。背後と左右はこれでガラ空き、むしろ望むところ。
 スタイル・『リベリオン・チャージ』。
 黒鉄鋼のさらに上を行く、薄装捨身の攻性陣形。
 これで距離は自然に死ぬ。動けば当たるような接近戦。だが、それでいい。がら空きの懐に潜り込まれる心配はこれで無くなった。身じろぎしただけでアイスを突き合わせるほどの近距離ならば、双方共に被弾しかねない。その代わり、現状は変わった。黒鉄鋼の顔色も変わった。燎の口元が引き攣った微笑を浮かべる。
 確かに、凄いハードパンチャーだ。
 だが、勇気さえあれば、あの強打は怖くない。誰がどう見たって、あの男に出来ることなんて実質的にはもう残ってはいないのだ。不調の黒は空振るばかり、頼みのエレキもシフトも使い果たし、白もすべて潰された。何が出来る? あの男に。冷静に考えてみれば分かる。
 手負いの獣の最期の咆哮は、負け犬の遠吠えと同じ残響なのだ。誤魔化しだ。ハッタリだ。
 オリてたまるか。
 四拳を構える。その指先を、ちょちょいと曲げる。
 鋼は迷わなかった。
 三発の拳を取り巻きにして、一直線にキスショットで構わないとスプレイダッシュをかけてきた。反撃を喰らっても距離が今より詰まればいいという突撃だった。燎は素直に反撃した。
 その一発が問題だった。
 ばキャッ……と、鋼の氷殻が撃たれた。軽く弾けた氷の球は、よろめくように後ろに下がった。その過透明な氷の中で、まるで自分の顔を撃たれたように黒鉄鋼が呆然としていた。パンチを撃った燎すらも戸惑っていた。なぜならその一発は、黒鉄鋼をよろめかせたパンチは、

 完璧な、『ジャブ』だった。



(ジャブ? ジャブだと?)
 燃える拳をスウェーバック・スプレイを小刻みにかけて直撃スレスレの回避を見せながら、鋼のアタマの中はさっきもらった一発のことで塗り潰されていた。今までの、どこか素人くさいパンチもどきとはわけが違った。パイロキネシスで作られた贋物などでは断じてなく、それは、本物のボクシング技術に裏打ちされた、正真正銘のジャブだった。
 効きが違う。返しが速い。
 ついに回避し切れず、突き刺すようなジャブが命中するたびにピシリ、ピシリと鋼の氷殻に深々と亀裂が刻み込まれた。破れかぶれで手持ちの黒を振り回し、白を叩き潰そうとしても、しっかりと引き手を取られたパイロフィストはあっという間に鋼の拳のリーチから逃れ去っていった。重たく残るダメージだけを置き土産にして。
 そのジャブは、元日本王者・黒鉄鋼の眼から見ても、速く、重く、そして痛かった。切れるパンチと言っていい。
 そして、

(ジャブ、ジャブと来て、返す刀の――
 ……ストレートか!!)

 振り抜かれた天城燎の黒を一発、貰った。木こりが斧で大樹を切り倒したような嫌な音がして、氷殻から冷たい破片が飛び散り、鋼自身も弾き飛ばされた。直撃した拳から相手の気持ちが伝わってきた。
 拳は、楽しい、と語った。
 気持ちは分かる。いい手応えの残るパンチを初めて撃った時、嬉しくないヤツなんていない。鋼は吹き荒ぶビル風に逆らわないように弱くスプレイをかけて、高層ビルの一柱に鈍角で接地し、コンクリートの表面に逆剥けたカサブタを残してようやく停止した。虚空に居残っている天城燎と、その氷殻を取り巻く四拳を見上げる。
 脳裏に、拳の幻影が乱舞していた。

(……まさかヤツは、俺の白(ひだり)がこれまでのラウンドで見せてきた動きをトレースしたのか? こんな、こんな短期間で、あっという間に俺の『パンチ』をコピーしたって?)

 ふざけるな、と思う。黒鉄鋼のパンチはジャブだろうがストレートだろうが、たかが見聞きしただけで盗まれるほど安っぽくはない。だが、これは――……
 滴りっ放しになっている鼻血を何度も素手で拭いながら、鋼は唇を噛んだ。
 マイナス要因は、急激なレベルアップを遂げた天城燎のボクシング技術だけではなかった。背後を捨てた天城燎のW2B2を睨みつける。
 一番恐れていたことだった。
 『リベリオン』を『リベリオン』で返されることは。
 逃げ腰の相手を追うのは、ある意味では簡単だし、シンプルだ。しかし、開き直って攻め気を攻め気で返されれば、後はもう純粋な力の差が勝敗を分ける。ここから先はより一層の地獄になる。黒鉄鋼の対戦相手はそういう選択をした。正真正銘の我慢比べだ。お互いに髪を掴み合って引き抜きまくっていくようなもの。手傷を負いながら、我武者羅に闘い続けるしかない。最後の一本、どちらかの魂の緒が引き千切られるまで――そんな醜い世界でも、
 俺は全然構わない、と鋼は思った。
 天城燎のパイロフィストがピク、と動きかけた瞬間、驚いた猫のように鋼は再びスプレイをかけて飛翔した。針で突くような正確さで撃ち出されたパイロフィストのジャブを二つ揃えた拳のガードのミートの広さを利用してパリングし、そのまま相手のフォローの黒/ストレートも氷殻をスリッピングさせて間髪の差で切り抜け、燎とキスショットする寸前に残った最後の手持ちの黒をショートアッパーでその氷殻めがけて撃ち上げた。弾かれた。衛星/サテライト・ポジションに着いていた燎の黒が綺麗な右フックで鋼の黒を横から弾き飛ばしていた。鋼の隻腕がグローブホルダーに伸びる。ジャブのパリングに使った二つの黒は片方が消し飛んでいた。充填できる、だが遅かった。児戯のような単純さで、双球の間に待ち構えていた燎のパイロフィストが、素晴らしいジャブを鋼の氷殻に突き刺した。衝撃で細かく割れた氷の中の鋼の姿が五十にも百にも増えた。ようやく充填された鋼の黒を横目にパイロフィストはくどいほどのジャブの連打を相手の氷の球に見舞った。稼げる内にダメージを稼ぐつもりだった。鋼の黒がパイロフィストと氷殻の間に割り込んできて、そのジャブを受け止められてやっと、燎は白を引いた。
 引き手を取りながら、燎は思った。
 やばい。
 楽しい。
 こんなに楽しいことがあったのかと思う。
 闘いながら自分が強くなっていくのがわかる。
 それは、どんな官能より甘く、鋭い、喜びだった。
 もうすぐだ。もうすぐそこに匂い始めている。
 対戦相手の死の匂いが――……
 産毛を総毛立たせながら、燎は、次のジャブを撃とうとした、しかし、
 白は、動かなかった。

「――――?」

 訝しげに、自分の燃える拳を見やった。何か焦げ臭くもあった。死の匂いよりも、もっと俗悪で、下劣なその匂いは、特殊繊維で織り上げられた手袋が少しずつ燃えていく匂いだった。
 黒鉄鋼の黒だった。
 燎の白をがっしりと掴まえている。
 ジャブが、撃てない。
 それは、単純明快な、パンチのメカニズムだった。
 氷像の中の細かく砕けた鋼が笑うのが、見えた。その唇が無声で囁く。

(確かに筋は悪くねえよ)
(けどな、)
(……お前、いったい誰に『パンチ』を撃ってんだ?)

 プライドがある。
 鋼の黒が、掴み取った炎の塊をさらに握り締めた。そのまま掌を返し、ムチのようにしならせて、手中の白手袋を燎の氷殻めがけて投擲した。
 外れるような距離ではなかった。
 自分の白手袋の裏拳をまともに喰らった燎の氷殻は一発で白裂化して弾き飛ばされた。カウント・ゼロのW0B3まで追い詰められたブラックボクサーが叩き出せる最高峰のダメージだったはずだが、鋼はその結果を見て舌打ちしていた。
 しくじった、と思う。
 視線が、投げつけた燎の白に釘付けになっている。モロに当たりこそしたものの、白は破裂せずに残っていた。これならその場で握り潰してしまった方がよかったかもしれない。そうすれば敵をW1B2にまで追い込めた――与えたダメージと相談すればどちらが良手だったかは、判断が難しいところだったかもしれないが、少なくとも黒鉄鋼のボクサーとしての直感は今の一手を『悪手』と断じたようだった。
 そして、それは正しかった。


 白裂化した氷殻を持ち前のタフネスで一瞬にして掃き払った燎は、思った。
 まだか、と。
 まだ足りないのか、と。
 フレイムチャージという消極的戦法を捨て、リベリオンを張るほどに自分を追い詰め負い込み、それでもなお、届かないのか。
 あの男には。
 ゲホゲホと、珍しく咳き込みながら、燎はアタマの中に問いかけた。
『……ブレイン、指示をよこせ』
『新しい戦闘指標は、提示されていません』凍てついた声が答えた。
『このくそったれ、バラバラにして豚か牛にでも喰わすぞ。今の状況が見えてないのか? 「フレイムチャージ」も、「リベリオン・チャージ」も、撃ち破られた。俺に何かかける言葉があるはずだ。かけなきゃいけない言葉が……』
『ありません』
『お前じゃねえ、美雷に聞いてるんだッ!!』
『ですから、氷坂様の言葉をそのままリアルタイムで、お伝えしているのです。……「あなたにかける言葉などない」、という言葉を……』
 すうっと、心の中で何かが冷えた。耳の奥で轟、と血液が圧力を増して通り過ぎていくのが聞こえた。顔が引き攣る、
 腹が据わった。
 無事だった四拳を揃い集めて、周囲をサークリングさせる。
 それ以外は何もしない。燎は、ただその場に沈んでいかない程度のポップ・スプレイだけをかけて、漂流していた。
 遠目に見ている鋼が、気味が悪くなるほどの沈黙の果てに、燎の四拳が動いた。恋人のように、鏡合わせのように、白と黒が手を組み、ダイヤモンドよりも硬く結びつく。
 燎は、スタイルを変えた。
 第3ラウンドで見せた、双拳の構え。それが二つ。
 重ね合わされた拳の輪郭は、もはや『メイス』。
 単純計算で二倍になった拳の質量は、外せば恐怖を、当たれば破壊を発散する歪な死の球形。それが緩く回転しながら、燎の左右でとびきりの使い魔のように控え、付き従う。
 エレキなどかけなくとも、そのコンビネーションはすでに最悪の凶器。
 スタイル・『ダイヤモンド・アイズ』。
 柔らかな眼球からスクイズされた涙滴が、傷跡のように燎の顔を何度もなぞる。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。理解されない苦しみが、共感されない激情が、青年になりかけたこの少年の身体を揺るがせ、這いずり、絡め取った。細く震える息が長く、唇から吹き漏れた。本物の拳を充血するほど握り締め、それでも埋まらない怒りを小さな太陽と化した二発の拳眼に注ぎ込む。どうして分かってくれないのか、どうして認めてくれないのか、原始的な絶望が熱波となって、極光のプロミネンスを少年の拳に宿らせる。もっと、もっとだ。
 もっと炎を、
 あの男を焼き尽くせるくらいの、
 眩い炎を――…………


 天上に輝く二粒の煌球。
 それを見て、眼を細めて、鋼は笑った。
 いよいよ死ぬかもしれない。
 そんな鋼のすぐそばで、欠けた腕の幻を補う影のように、三つの黒手袋が拳の座を作り、漂う、その中の一つが、
 ぱリッ、
 と。
 細かく小さく瞬烈な、紫電の緒を放った。

       

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Neetsha