Neetel Inside ニートノベル
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 天城燎は、第4ラウンドの初めに断行された、黒鉄鋼の《ゴールドブラッド》のダブルショットに気がついていなかった。つまり、この段階――生身の鋼と氷殻の燎が睨み合っているこの状況――で、まだ『第5ラウンド』があると思っていた。しかしそれでも、何の確証などなくとも、警戒していたし、恐れてもいた。
 黒鉄鋼の『七発目のエレキキネシス』を。
 皮肉な話だった。鋼の彗星落しは、そのあまりの威力の無さから、『ただのキスショット』として燎に認識されていた。本来は推進力として追加補填されるはずだったスプレイ・フルブラストが完全に欠損していたのも痛い。粉塵の巨雲の中で、燎にエレキキネシスの稲光は届かず、氷殻に炸裂した衝撃はせいぜい風の代わりに拳を推進力にしたあのキスショット――その角度を少々気を利かした方向から放った程度。そのため燎は、黒鉄鋼がすでに七発目を撃ったことを知らない。ゆえに、恐れる。
 可笑しなことに、この時点で両者とも、ここで白か黒かを着けなければ危ういのは自分だと思っていたことになる。


 燎は、すぐには攻めなかった。
 眼下の黒鉄鋼は、腹腔から血を流し、グローブホルダーを失い、アイスキネシスも構築せず、空手で跪いている。すでにシフトカウントもゼロで緊急離脱することもできない。スプレイダッシュも使用不能になっていることは確認済み。
 それでも、全てが巧妙なブラフでないとは言い切れない。
 この一瞬のために――膨大な布石の果てに積み上げたこの土壇場で、あの男が決して切り返して来ないと誰に言い切れる? こちらに白は二つ残っている、それでパイロの雨を降らせてやれば、もし本当に黒鉄鋼がすでに戦闘不能なのだとしたら、……ケリが着く。今度は右腕だけでなく、黒鉄鋼に残された四体(したい)はまとめて爆裂四散するだろう。
 だが、もし氷殻はいまだ健在で、スプレイダッシュさえ使えるとしたら? 爆煙に乗じてこちらの不意を――分かっていても突かれてしまう不意を――狙って、最後のキスショットを仕掛けられれば、今度こそ燎のアイスは耐え切れず倒れるようにクラッシュアウトするだろう。いや、それだけで済めばまだ僥倖だ。
 キスショットなどかなぐり捨てて、粉塵に紛れ、あのサンダーボルトを捻じ込まれでもしたら、きっとブレインの鈍磨な強制転送など間に合わない。アイスを砕かれ、その衝撃で脳神経を末端まで焼か焦がされ、天城燎の肉体は粉々に吹っ飛ぶだろう。
 燎は、動けなかった。

 この状況、
 甘く動けば、必死の泥沼になりかねない。

 視線で威圧し、少しでも時間を稼ぐしかなかった。
 攻め手に移れるだけの自信をかき集めるだけの時間と思考が必要だった。
 燎の深々とした視野が冥府の底のような無人の都市を飲み込む。もし、サンダーボルトを撃ってくるなら、空手のままでは不可能だ。手袋を隠し持っているという線は薄い。なぜなら、恐らくグローブホルダーを失ったのは偶発的な事故だからだ。鋼が貫通した傾いだビルの七階の床、まるで捧げられたように、燎から丁度見える位置に鋼が紛失した二個のグローブホルダーが打ち捨てられ、フックされた黒の手袋を花のように散らしていた。燎は容赦なくパイロのジャブを二連射してそのビルを轟音と共に爆砕した。影のように静まり返った黒鉄鋼が、それを見ている気配がした。
 これで全てのグローブは焼き尽くされた。
 残る可能性は、グローブホルダーの紛失などとは無関係に、あらかじめ黒鉄鋼が野戦ズボンのポケットに非常用のグローブを隠し持っていた場合だが、その真偽の簡単な確かめ方がひとつある。これだ。
 燎は、自分の黒に向かってパイロを撃った。
 爆裂。
 粉々になった黒が風に舞って散っていく。これで燎には黒をひとつ再充填できるストックが出来たことになる。そして、その枠を使ってハンドキネシスの波動を、鋼の左ポケットに集中して解き放った。氷殻を喪失する隠されたデメリットのひとつだ。相手のハンドキネシスが、アイスキネシスによる精神波堤に防がれず、自身のグローブホルダーにフックされている手袋に距離次第ではかかってしまう。そしてこれは、届く距離だった。
 黒鉄鋼のポケットは、膨らまなかった。
 燎は注意深く、その周囲にも、風の悪戯で流れ飛んできた手袋が埋もれていないかどうかハンドキネシスをかけて精査した。よく眼を凝らした。見逃したでは済まされない、目視することは必須ではないが、ある程度の『確信』を注ぎ込まなければ、手袋は充填されない。そして燎は判定を下した。
 無い。
 黒鉄鋼は、手袋を所持していない。
 サンダーボルトが撃てるとしても、出来るのは同一カウント消費のシフトキネシスまで。あの死に体の男がたかが九〇メートル移動したところで、燎は高空から一八〇メートル範囲のフレイムチャージで全てを一層焦土らしくしてやるだけだ。生身の身体で凌ぎ切れるほど天城燎の焔(ひだり)はぬるくない。たとえ氷殻を再展開できたとしても、依然として優位はこちらだ。
 問題ない。
 攻めていい。
 攻めていいのだ。
 あとは、必要なのは、そう、本当に、
 勇気だけ――


 最終最後の攻撃手段は、もう心に留めてある。
 キスショットだ。
 黒鉄鋼が何をして来ようとも、その全てを覚悟して、キスショットを叩き込む。パイロによる爆煙の充満を極限まで嫌った結論。眼は逸らさない、最後まで標的を見据え続ける。恐らく何らかのダメージは受けるだろう、だがそれを覚悟できないようでは黒鉄鋼は倒せない。肉を切らせる程度ではまだ足りない、骨を砕かせ鋼鉄の魂を撃破する。それこそが、この膠着状態を突破して、第4ラウンドを最終回にする最強の一手。
 そうとも。
 美雷なら、きっとここで――
 その時だった。

『マスター』

 燎のブレインが思念波を飛ばしてきた。燎の心臓が跳ねた。
 そして、ただ次の思念を待った。

『美雷様からの、メッセージです』

 凄い奴だと思う。
 ここ以外にない、という絶好のタイミングだった。そうだ、その通りだ。
 天城燎が氷坂美雷の言葉を死ぬほど欲していたのは、この瞬間を除いて他になかった。
 燎は祈った。
 頼む。
 キスショットだと言ってくれ。
 俺は正しいと言ってくれ――

 その願いは、通じた。


『スタイル・キスショット』


 その言葉一枚で、快感物質が燎の頭蓋を紫色に染め上げた。全ての恐怖と焦燥が融解して消滅した。拳のように硬く重たい視線が、歪むことなく光の経路を辿って、揺るぎなく、黒鉄鋼へと接続した。燎は笑う、心の底から。
 俺は油断しない。少しも安心などしない。
 捨身で闘い続けてきたお前は、きっと指一本でも動く限り抵抗するのだろうから。
 だから、甘んじてその最後の一撃を受けようと思う。
 それを凌いで、耐え切って、今度こそ、この長かった二人だけの戦争に終止符を打ってやる。
 燎は軽くアッパースプレイをかけて上昇した。眼下の、豆粒のような黒鉄鋼の首がわずかに動いた。
 これが最後だ。
 俺のアイスは砕けない。
 砕けるものか。


 咆哮搏撃、
 燎は最後のスプレイダッシュをかける前に、右手でホルダーから手袋を一枚千切り取った。当たり前のようにそれを背後に放り捨てる。今まさにスプレイダッシュをフルブラストするという一瞬――念のためだと言わんばかりの、黒の充填のモーション。
 それこそがトラップ。
 黒鉄鋼が何を考えていようと、エレキがあろうと無かろうと、黒が欲しいのは変化しない条件だ。
 ならば、いっそくれてやればいい。
 充填せずに黒の手袋を背後に打ち捨てておく。自殺行為のような、敵に塩を送る行為、しかしそれこそが最後の布石。
 黒鉄鋼が何を思案していようと、この虚空に漂流する空(から)の手袋を見れば、絶対に全てのプランをかなぐり捨てて充填させるはずだ。そしてその時に気づくのだ。
 拳と燎を結ぶ射線の果てに自分の身体があることを。
 エレキを撃てようが撃てまいが、撃とうが撃つまいが、その一瞬、どう足掻こうとも黒鉄鋼の行動は完全に停止する。思考も回転せずに凍結する。その時にはもう遅い。破れかぶれの反撃が出来ようが出来まいが、あらゆる全てに先んじてこの俺のキスショットが奴の身体を木端微塵に破壊する。
 結局は、勝負というものは、
 バカみたいに強い奴が、
 バカみたいに押して、
 バカみたいに勝つ。
 それだけのこと。
 だから、
 勝つのは俺だ、この一発を耐え切って、その向こう、見えているぜ――
 ――俺の勝利と栄光が!!

       

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