Neetel Inside ニートノベル
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 氷坂美雷は、椅子にじっと座っていることが出来ない。こればかりはどう頑張っても直せなかった。両膝を揃えて両拳をきちんとその上に揃えておく。そんな簡単なことが、この天才には最後まで出来なかった。だから、この史上最大の戦闘実験が終結を迎えようとしている今も、痛むように左足を突っ張り、右足は駄々っ子のように転送座の縁(へり)に押しつけ、右手でかばうように自身の白衣とその身体を抱き、そして左手を左目の前で蜘蛛の巣にして張り巡らせていた。その奥で呼吸する紅焔のように明滅する眼が、一瞬たりとも逸らされずにプラズマディスプレイを見上げていた。
 身動きが出来ない。
 呼吸することさえ怖かった。
 いまにも、理不尽な何かが、逆らいがたい大きな力が、理解できない理屈で持って、美雷が積み重ねてきた全てを暴風のように吹っ飛ばしてしまうような、そんな気がしていた。毛穴からは汗が滲んで湿っぽく、左胸の奥で心臓が泣き叫んでいる。その全てがこう言っていた。早く決着とやらをつけて、この『ストレス』から自分を解放してくれと。お願いだと。後生だと。
 黙ってろ、肉体(ボディ)。
 お前なんかに、この一瞬の重さも価値も分かってたまるか。
 黒鉄鋼だ。
 あの黒鉄鋼と、いま自分は闘っているのだ。
 全てが終わるまで、誰にも口出しなどさせはしない。たとえそれが自分自身の悲鳴だろうと――関係ない。踏み潰す。
 最後の指示は出した。恐らくその必要はなかったが、せめて自分の意思がプラセボ偽薬になるならと。
 手駒はいい。よく動く。
 このままいけば、倒すだろう。
 天城燎――予想以上の掘り出し物だったことは認める。純粋な学者の眼から見れば、黒鉄鋼とは比較にならない喉から手が出る天然素材。EPSDになることはなく、そこにこの格闘性能が積み重なれば、理想的と言っていいブラックボクサーだった。
 おかげでイカサマも容易く出来た。
 美雷は右手の指先をじゃれつかせて、手中のアイスピースを弄ぶ。
 後々になって効果が増してくるから遅効性、と言えば、まァそうだろう。だが、あえてこう言いたい。
 これは恒常性のあるアイスピースだ、と。
 一度服用すれば、常にブラックボックスがノックされた状態で『固定』されるアイスピース――それはまだまだ研究段階、今のところ致死率絶対(デッドエンド)の欠陥品。効果も薄く、正規のピースの百分の二しかブラックボックスが励起しない。不老不死を得るために水銀を飲んで死ぬような連中以外は眼もくれない、だがそれこそ、そういう危険な薬こそ、決してESPDにならない素材に服用させたい代物だった。だからわざわざ大勢の人間がいるところに放り込めば絶対に揉め事を起こす人間にアイスピースを『お守り』などと飾り立ててくれてやったのだ。そして燎は案の定、あのパーティ会場でアイスを使って七研のブラックボクサーを再起不能同然にした。
 あれから、天城燎のブラックボックス野は覚醒したまま、眠っていない。
 そして彼は砂糖一粒ほどもそれを負担にしていない。通常人ならすでに死んでいる。
 この恒常性のあるアイスピースを服用した天城燎は、正規のアイスピースを併用して、その異能のポテンシャルを2%ほど向上させた。

 2%

 たったそれだけのわずかな駄目押しがなければ、もっと簡単にこの実験は黒鉄鋼の勝利で終了していたかもしれない。攻防極まったシーンはいくつもあった。あの徹底的なまでの攻撃性から導き出される戦闘スタイルに美雷のボクサーは何度も何度も苦しめられた。第1ラウンドでエレキカウントを愛しまずに見せつけられたサンダーボルト・ライトで意気地を挫かれ、ビルの森へ叩き落として圧迫をかけても捨身のサイクロン・ストレートにシフトをかけて逃げられ、それどころか舌の根も乾かぬ内にサンダーボルトをダブルで消費して一撃必殺を決めにきた。たぶん神経がどうかしている。高空から火炙りにして地上へ追い込み、シフトの位置を読んで白を三つまとめて殺しても、あの男は闘うことをやめなかった。ギリギリまで追い詰めたはずだった。W0B3という絶望的な姿勢になってもあの男は考えるのをやめず、抗うことをやめず、拳を振り回し続けた。だから第3ラウンドの結末で、『黄金の炎(ノヴァ)』を直撃させた瞬間は絶対の勝利を確信した。しない奴はいないと思う。殺したはずだった。
 それでもあの男は、第4ラウンドにやってきた。
 撃てるかどうかも分からない、七発目の輝きを過信して。
 氷坂美雷は、遠い記憶を思い出すかのように、双眸を霞めた。
 ――本当に。
 本当に強い男だった。
 黒鉄鋼。
 ここまで、ここまでやって、ようやく追い詰めた。あの男が万全の体勢だったら、1ラウンドでこちらの負けだったはずだ。とてもESPD直後で半死半生の男には思えない。そういうところはあの頃とまったく変わらない――どれだけ減量しようとも、きっちり仕上げてリングに上がっていたあの頃と。
 嫌味なくらいだ。
 だからこそ――許しがたい。
 右腕を失って、ボクサーとしての誇りを剥奪されて、それでもなお、あの男が呼吸をし続けていることがどうしても我慢ならない。理解できない。死なねばならない。絶対に。
 偽物なんかに用はない。
 美雷は思う。
 他人を許す奴はいつか絶対に自分も許す。
 拳で口に糊した男が、よくも。
 よくも。
 ずいぶん回り道をしたのは知ってる、だからこそ、これで終わりにしてやる。
 無駄にはしない。
 この経験は、必ずいつかの糧になり、氷坂美雷が『上』へいく、確かな縁(よすが)となるはずだ。絶対になる。ならなくてもそうする。必ず叶える。迷わずに、真っ直ぐに。
 自分は、回り道などしない。
 美雷は息を呑んだ。その眼にスプレイ・フルブラストをかける天城燎の影が映り込んでいる。
 夢に追いつく。
 恋焦がれるほど憧れたあの男に。
 今が今じゃなくなる瞬間――もうあと少し、あの呪わしい、老いぼれた時の針がその手を軽く押すだけで、扉が開く。
 真実の扉が。
 その先にあるのは、美雷が焦がれた問いの答えだ。
 黒鉄鋼は、あの男は、

 まじりっけなしの黄金か?
 それともただの紛い物か?

 今に分かる。すぐ分かる。
 いずれにせよ――――
 壊れないのが不思議な密度で、美雷は自分の腕時計を見た。
 あと十秒。













 そして実際、
 決着は、その十秒で片がついた。

       

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