Neetel Inside ニートノベル
表紙

見開き   最大化      




 一発で脳震盪を起こした。
 極値の振動が脳髄を駆け抜け、白みがかった神経細胞を黒過ぎる衝撃が塗り替えていく。現実を修正しようとするホワイトと空想を書き尽くそうとするブラックが形而の上で激突し、連結したシナプスの導火線が異能の感覚を起爆した。凍りついていた脳の不可侵領域が解凍されていき無限の空想が溢れ出す。透明な光の爆発が視覚野を埋め尽くし、玉虫色の星雲が一鎖り流れた。いつか黒鉄鋼と呼ばれていたことのある男は、それを掴もうと左手をありもしない場所へ向かって伸ばした。粉々になった見当識そのものを真紅の手形が掴もうとする。暴風のような睡魔に襲われるが、反逆しないわけがなかった。だが掌は光に触れることなく、その歪な模造品に届いただけだった。絶対零度を結晶化させたような切れのある冷たく透明な壁にぺたりと左手が当たった。そこには何もないはずだった、だが、確かに感じた。それがそこにあるのだと。
 それが全てだった。
 かつて黒鉄鋼と思われていた男は、ぐっと存在しない壁に掌を押しつけた。狂気に彩られた真紅の手形は異なる宇宙にしかない物質のように極立っていて、瞼のように赤く、ザラつき、濃やかで、起伏があった。神経に繋がったままの肉片のように、それは生命の鮮烈さを刻んでいた。赤く、赤く、赤い、そしてどこか透き通った黒さを綯い混ぜにしたそのシルエットは――

 そもそも、手形に右手も左手もない。
 それはただの勝手な決めつけ。名前をつけることによって潰された可能性の芽。
 脳震盪を起こした人間には、それが分からない。
 ただ手形だと思う、その純粋な視線こそが、
 最終手段の攻撃行為。
 真紅の手形から、ずるりと湿った音を残して、生身の手が抜き取られる。脱皮された抜け殻のようにそこに残された手形は、その向かおうとする指向性を逆方向へ転換させていた。
 それはもはや左手ではなかった。
 空隙は、満たされた。
 拳を握る。
 赤みがかった、その黒を。
 現実色の水滴が眼球に注し込まれたように、視界が一気に晴れ渡る。コンマ二秒進むのに万物が力を貸さなくてはならないような濃密な時間の中で、取るべきモーションはボクシング・パンチ以外に存在しなかった。そして拳があるべき位置に収斂した瞬間、脳髄の中で第二の衝撃波が奔流した。呼吸が止まる、拍動が痛む、そして理解する。産まれた時には隠されていた、生命の箱の中の緑がかった潜在能力を。その全てを。
 まず、外殻が創られた。拳を表にして下がった黒、その手首から吐息のように細かな白銀の粒子が零れ出し、何もかもを氷結させていく未知の溶岩のように肩鎖関節の傷痕へと逆流した。冷気が肩口から伝導し、それは痛覚に似ていたが、本番はこれからだった。腕の輪郭を取り戻した氷殻の中に、小さく細かく速く瞬く何かが生まれ始めていた。青白い怒りの破片のような何か、それは空想から変換された電漿(プラズマ)だった。電離されているものは何もなく、それでいて全てが電離されていた。イオンが焼ける甘い匂いが嗅覚神経そのものから発生して止まらなかった。
 発狂が継続する。完全に透明なグリッドを共鳴加熱されて推進力を得た双振りの先駆雷(ステップトリーダ)が突き進み、二重に絡みつき巻き合いながら透明な容器に充満し、瞬雷の紋章で織り上げられた神経樹として、毀れて逆剥けた電子の骨としての役割を兼ねた。それらが『肘関節』に当たる部分で完全に融合した。氷殻から構成される、結晶化されたプラズマシェル・ブリットが一極眩く輝き唯一無二の太陽を転写する。あとは一直線だった。擬似神経を構成する光のシャワーが腕殻を乱反射しながら肩鎖関節を直撃した。七色の激痛が爆発し脆弱な神経を灼熱させ、有難い、おかげで腹部の貫通孔も鳴りを潜め、虹色の意識が完璧に覚醒した。今なら分かる。この腕が誰の腕かが。
 氷に包まれた巨人の拳が落ちてくる、それを視ながら、測っていた。
 すべてのパンチはリズムと振動。
 その基本法則に変わりはない。
 取り戻したものは、究極の正距離(アルトラ・レンクス)。
 氷の檻に阻まれて、最後まで得られなかった本物の位置関係。
 それが今、この手にある。
 正直に言う。
 腕が鳴る。


 そして、
 そして、自分の脳で測り取った運命の砂時計の残り時間がゼロに落ちた時、黒鉄鋼は、その一撃を放った。何もかも読み切って、何もかも賭け切って、全てのガッツを右足に注ぎ込む。倒れるような超低空姿勢でアスファルトから反発力を齧り取る。そしてある一瞬、特異の一点に拳の軌道がカチリと嵌め込まれた瞬間、直撃が確定した。


 その姿は、ありし日の影。
 不滅の王者の自慢の拳。
 正真正銘、混じりっけなしの。
 オープンガードから撃ち上げる、スリークウォーターのそのショートアッパーは、彼にこそ相応しい名前で呼ばれるべきだろう。


 黄金の黒、と。




















 しかし。
 ボクシングにラッキーパンチは存在しない。

       

表紙
Tweet

Neetsha