頭上のハッチが重々しい音を立てて開いた。見上げる鋼の気は重い。
 どうせ怒られるに決まっているのだ。
 吊ったビニール袋からノッカーを取り出して口に放り込む。ノッカーは耐性に弱く、一日に何度も服用すると効果が激減する。現在、鋼の脳の中のブラックボックスは綺麗さっぱり弾切れ状態で、いま噛んだ分では三十秒ほどのスプレイを回復させることしかできない。また元通りの能力を取り戻すには二十四時間近く待たねばならない。が、いまは三十秒でも充分だ。
 スプレイに残った神経を割き、青色の尾を引きながら上昇。積層になった防御隔壁のクロワッサンを潜り抜け、ハンガーに吊るされたような格好で鋼はモニタールームに出た。
 涼虎は激怒している。
 下で計測された実験の内容が大画面のモニターに表示されているが、ひとつも鋼には理解できない。それを熱心に見上げているフリをして殊村が我関せずを貫き、ほかの研究員たちもそれに従っている。
 鋼は閉じたハッチの上に降り立つと研究員の一人からタオルを受け取り、汗を拭きつつ何食わぬ顔で出て行こうとした。
 アンダーウェアの右袖をつかまれた。
「さっきのは、どういうつもりですか」
 空っぽの袖を掴まれていい気はしない。
 鋼は肩を振って涼虎の手を振り払った。
 涼虎は鋼を睨む。
「あそこまで無理をしろとは指示していません。なぜ、あんな危険な真似をしたんですか」
 鋼は笑った。
「笑ってないで答えてください」
「そんなことよりルイちゃんに会わせてくれよ。一方的にアタマの中に話しかけられるだけってのはあんまり気分がよくない」
「言われなくてもじきに会わせます。話をはぐらかさないで下さい。私はあなたに聞いてるんです、黒鉄鋼さん」
 涼虎はどうしても退く気がないらしい。目を見ればわかる。鋼は観念した。
「できると思ったから」
 嘘ではない。
「やれるところまでやってみたかった。それが、そんなに気に喰わねえか」
 涼虎は深く息を吸って、押しつぶすように吐き出した。
「二度とやめてください。あなたは、自分を軽視しすぎている」
「悪かったな、勝手をするモルモットはいらないか?」
「ええ」
 涼虎は即答した。
「その通りです。――誰もあなたにそこまで求めていません」
 鋼の呼吸が、止まった。
 けもののように血走った目で振り返り、頭ひとつ下にある涼虎の顔を睨みつける。本当にそう思っているのか? この俺をモルモットだと? 換えの効く誰かだと? そうなのか?
 硬く握られた左がギリギリと軋んだが、それを見ても涼虎は汗ひとつかかなかった。周囲では研究員たちが固唾を飲んで状況を見守っている。
 拳が、緩む。
 何も言わずに背を向けて、かけられていた上着を剥ぎ取り羽織り、部屋を出た。
 その背中を見送って、殊村は深々とため息をつく。
「心臓に悪いなあ、涼虎ちゃん。ちょっとは言葉を選んだ方がいいんじゃないかな」
「なぜ?」
「なぜって……そういうもんだよ? 人間関係って。細かいとこでも大事にしていかないと」
 涼虎はモニターの青い光を横顔に受けながら、ミラーグラスに覆われた殊村の目を見やった。
「私は、あなたほど人生経験が豊富ではありませんが、もしあなたの言うことが正しいのなら、外の世界なんて見たくもありません」
 取りつく島もない。
 殊村は肩をすくめて降参した。
 涼虎が研究員の一人から印刷されたばかりのまだ暖かい紙片を受け取る。
「私のことより、彼のことです。――どう思います」
「それは僕よりルイちゃんに聞いた方がいいんじゃないかな」
『呼んだー?』
 モニターの左端に虹色の波形が浮かび上がり、スピーカーから少女の声が響き渡った。涼虎はスピーカーを見上げながら、言った。
「データはたった今、受け取りました。率直に聞きます。……彼は使い物になると思いますか、ルイ?」
 少女の声はさらりと答えた。
『ならないんじゃないかなー、データ上では』
 引っかかる言い回しである。
「では、データを排して、あなたの感覚ではどう受け取れましたか? これまでの彼の戦闘は」
『カッコよかった』
 少女の声は楽しそうだ。
『白の散らし方も黒の振り方もひどいもんだけど、でもそれを補って余りある魅力が彼にはあるとあたしは思うな。なんていうか、自分の背負ったハンデを理解した上でどうしたらいいのかってのをずっと探してるような動き方をしてる。見てる分には楽しいよ』
「命運を預ける身としては楽しくありません」
『あたしはそんなの知らないもんねー。リョーコちゃん、あの人をクビにしたりしたらあたし怒っちゃうからね。もうカンカンになるから。ハイパーボイコットタイム』
「クビにはしませんし、したくありません」
『お? そうなの?』
 涼虎はふう、と息をついて、コンソールの縁に腰を預けた。
「したくない、というよりも、できません。他の被験者を探している余裕も育てる時間もない。できることなら今すぐ実験(ファイト)を組んで彼には我々の食い扶持を稼いで来て欲しいくらいなんです」
 スピーカーがおどけた悲鳴を上げた。
『うっわー「食い扶持を稼いできて」、だってぇ? やあんもう大っ胆発言! ったくもうノロケてくれちゃってまあ新妻は大変だねぇ』
「……薄気味悪い冗談はやめてください」
 涼虎は力なく首を振った。
「ルイ」
『なに?』
「彼は本番に間に合うと思いますか?」
『それは』
 少女の声が答える。
『……ヤシマ次第、なんじゃない?』


 ○




 部屋に戻った鋼は、着替えもせずにベッドに寝転がった。
 全身が鉛になったように重い。まだ心臓の動悸が鎮まらない。熱が熱を呼んで暑苦しかった。

 ――誰もあなたにそこまで求めていません。

 蛍光灯の味気ない光を嫌って、鋼は両目を瞑った。
 まぶたの裏が涙で溢れかえっているのが、わかる。だが湿って溢れているのは、なにも眼球の表面だけではなかった。その胸の中も、たった二時間の間に黒い何かでべたべたに成り果てていた。
 こんなはずではなかったのに。
 その感情を何と呼べばいいのか、鋼にはわからない。ただ喉の奥の奥で息苦しさが絡まっていて、目の前は暗く、次の瞬間にはもう息継ぎを忘れて二度と思い出せないんじゃないかという冷たい不安が溢れている。
 塞いだ両目から涙が滲む。
 こんなことで泣くなんて馬鹿じゃないのかと自分でも思うが、それでも、鋼にはどうしようもなく恐ろしかった。自分が認められないかもしれないということが。これしかできない自分が、それを奪われてしまったら、そう思うと鋼はいつも、震えるほどに怯えてしまう。
 女々しいことこの上ない。
 自分がいらない人間なんじゃないかという疑いは、どんな敵よりも恐ろしい敵だった。自分が、誰のことも幸福にできず、ただ災厄をばら撒くだけの存在ではないといったい誰に言い切れる? 自分の歩いてきた道を振り返れば、そこに散らばっているのは輝かしい勝ち星の航跡などではなく、大なり小なりの苦痛の石塊ばかりじゃないか?
「畜生……」
 思わず漏れる得体の知れない、敵さえハッキリしてこない呪詛がまた一層と鋼の誇りを傷つける。
 何が王者だ。何がボクサーだ。
 自分は『最初のあの日』から、何一つとして変わっていない。
 空っぽの右袖を左手で掴み、握り締める。まだそこに腕があって、痛みを発しているかのように。
 本当に、痛かったのかもしれない。
 疲れ切っていた鋼は、そのまま自分でも気づかぬまま、眠ってしまった。
 掴まれた右袖のシワが、少しずつ広がっていく。




 ボクサーになったその日に借りたあのアパートの一室から黒鉄鋼がいなくなって、もう二週間が経っていた。
 ポストには頼んでもいないダイレクトメールの森が茂り始め、誰も閉めることのないカーテンから差し込む日差しがホコリまみれの六畳間の畳を少しずつ焦がしていき、誰が何度チャイムを押してももう誰も応答することはない。
 その部屋にはすぐにも他の誰かが住み始め、なにもなかったかのように、世間に流れる日常は過ぎていくのだろう。
 百万円で人生が買えないように、義手をつけたボクサーがリングに上がれないように、超能力者になったところで何かが劇的に変わってくれなどしなかった。