Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 もし最後に生命を使うとしたら、何に費やすだろう。
 もうここで死んでしまう、自分には未来(さき)がない。そう理解して覚悟を決めた人間がどう行動するのか、シンは想像する。ハンドルを握りアクセルを踏む自分、隣にはシヴがいる。アクセルペダルを踏む足は常に残りのガソリンについて考えていて、シヴの話もどこか上の空。それでも彼女の言う『楽園』という単語は確かに聞き取れた。聞き返す。
『……楽園?』
『そう、そこはね、もう誰も苦しまなくていい、この氷の国のどこかにある桃源郷なの。いつもあったかい太陽が輝いていて、どこへも沈んで消えたりしない。朝陽を待ち望んだりしなくていい、なぜってそれはずっと、そこにあるから――ずっとね、ずっと』
 シヴは窓ガラスの向こう、どこまでも続く白夜を見つめる。それは太陽の沈まない世界ではなく、太陽と出会い損ねる世界だ。あるはずなのに。
『氷に怯えて、氷に包まれて、氷に守られて生きていると、そんな世界があったらいいなって思うの。ありえないってわかってるんだけどね。でも、消せない。この氷の大地のどこかに、オアシスみたいな場所があるって、つらければつらいほど、泣きたくなればなるほど、強く、硬く信じられる。心の奥で消えない炎になって、ずっとずっと燃え続ける――」
『……マッチ売りの少女みたいだね』
『ああ、そう、それね』シヴは笑った。『言えてる。でも、やめてよね。あれって悲しい結末じゃない』
『そうかな? わからないよ』
『……死ぬのが救い、なんて言わないよね? フィフティ。あたし怒るよ』
『い、言わない。だいじょうぶ。ちがうって。にらむなよ。俺はただ――』
 フィフティはちょっとだけ、崩れるように微笑んだ。
『……何千回も、何万回も、同じ物語を繰り返してたら、いつかどこかのマッチ売りの少女が幸せになる番が来たりしたらいいなって、そう――』
 そう思った。
 そして、自分にはその『力』がある。
 ステージ9まで進行したブラックボクサーはもう助からない。その代わり、最後の希望を手にする。ステージ10。死の瞬間。その段階へ踏み込んだ時、脳の中のブラックボックスが与える六つの異能――ハンド、パイロ、エアロ、シフト、エレキ、アイス――に次ぐ『七番目のサイキック』の扉が開かれる。暴走する脳が見た最後の幻覚が、奇跡を起こす。
 左手で己の胸を掴む。
 粗く掠れた鼓動。
 仲間を皆殺しにした時に、もうほとんど自分は死んでいた。
 だから構わない。
 この少女を、なんの罪もない彼女を幸せにできるのなら――



 ――シンは決断の時にいた。海は北、空港は西、南は荒地、そして東にはどこまでも続く氷の世界。スタンドすらない、吹き荒ぶ突発的な嵐によって、ほとんどの生き物はその清浄な空間に残れない。
 だからこそ、追跡者を振り切るには絶好の方角。
 アイドリングするチェーンバイクの上でシンは思う。冷静に考えれば、フィフティたちが東へ行くはずがない。嵐に巻き込まれて視界を奪われたら遭難だ。逆走して追跡者と遭遇してしまう可能性もある。それよりも急ぎ北海へ到達し、シヴの終わらないスプレイダッシュで完全に逃げ切ってしまうことだけが、あの二人の手の中にある唯一の生存戦略。ほかにはない。
 だが、追跡者はシンだった。ほかの誰でもなく、シンだった。
 おとなしくなりかけていたエンジンをアクセルでふかし直し、白夜にバイクの排気音が鳴り響く。シンはクラッチレバーを握り込み、西を見ず、北を捨て、サイドスタンドを跳ね上げて、東を見た。白夜の夕暮れの太陽が、シンの背中を見ていた。
 どうするんだい、と。
 シンのバイクは流星のように、白の世界へ向かって急進した。嵐の前触れの弱い風が、何かを嘆くように木霊している。
 シンは理解している。
 死の直前にいる人間が何を考えるのか。
 生命をどうしようとするのか。
 生きるというのは、自分を何に費やすかという難問だ。
 死ぬとわかっていて、生命を備蓄しておいてどうする?
 死に楽園はない。最期に思うのは『無駄死にだけはしたくない』という願いだけだ。
 フィフティ、おまえは死ぬ。俺も死ぬだろう。だからわかる。俺達はブラックボクサーだから。俺にはわかる。
 おまえは、楽園を創ろうとしている。

 ○

 フィフティが左手をかざすと、わずかに寄せ集めた枯れ木の束がぼうっと燃え上がった。ぱちぱちぱち、とシヴが嬉しそうに拍手する。だからフィフティも嬉しかった。手袋を嵌めた左手で鼻をこする。血がついているが、どうでもよかった。あれからアイスピースはノッキングしていない。なのに魔法の5分間を超えても、フィフティのパイロキネシスはわずかに残っていた。それが何を意味するのか理解しているフィフティは、氷山の洞窟の中に腰を下ろして、シヴに微笑んだ。
「ツイてたね、嵐が来たと思ったら、こんなに都合よく隠れ家が見つかるなんて」
「そうだね」シヴも冷たい岩の上に座った。手でバランスを取って、足をぶらぶらさせている。
「きっと神様が『逃げ切れ』って応援してくれてるんだよ」
「そうかもしれない」フィフティは捕まえたユキウサギを解体して、生肉をナイフごと焚き火で炙った。シヴに差し出し、自分は小さく切り取った別の欠片を焼く。
「神様なんていないってずっと思ってたけど、間違ってたかな」
「間違ってたんだよ」シヴはゆっくり頷く。「こうしていま、ここにいられるんだからさ」
「……そうだね」
 洞窟の外からは竜の息吹のような轟音が響いてくる。焚き火のぱちぱちぱちと爆ぜる音と、その真紅の幻が創り上げる揺らめく影の舞踏に包まれるように、フィフティとシヴは底のない安寧を感じていた。
「ねぇ、フィフティ」
「ん?」
「どうして、助けてくれたの……?」
「もう何度も言ったじゃないか」笑いながらフィフティは、枯れ枝で焚き火を突いた。
「ほっとくなんてできないよ。ひどい実験のサンプルにされちゃうのに」
「でもさ……わたしたち、その、見ず知らずだしさ。べつに前世で結婚していたわけでもないし」
 なんでそんな話になるんだ、とフィフティは脱力して、言葉のパズルを組み立てようとあくせくしているシヴを眺めた。目を離している時間が、惜しかった。
「その……やっぱり、一目惚れ?」
 シヴはすぐそういう方向に話を持っていきたがる。この旅の間、もう何度「違うよ」と否定してきたかわからない。
 確かにシヴは可愛い女の子だ。最初に彼女の顔を見た時、呼吸を盗まれたように身動きできなくなった。
 それを恋だというならそうかもしれない。
 ただ、シヴがもし、男の子であっても、あるいは何人か子供を産んだ誰かの妻だったとしても、フィフティはエギルたちを皆殺しにしてシヴを助けただろう。
 そう確信させる、言葉の網では掬い切れない何かがあった。
「きみはすぐそうやって色恋沙汰にしたがるんだよな。女の子ってそういうものなの?」
「り、理由を知りたいだけ。中途半端は落ち着かないから。そわそわする」
「べつにいいじゃないか。五分五分も悪くないもんだよ。でもま、きみがそう思うんだったら、やっぱりそうなのかもね。もしかするとだけど」
「フィフ――」
「手、出して」
 何か言いかけたシヴを遮ってフィフティが言った。シヴはおそるおそる、なぜかひどく緊張しながら桃色の防寒手袋に包まれた左手を差し出す。期待と動揺が綯い交ぜになったシヴの視線を感じながら、フィフティは彼女の手袋を脱がしてそっと岩の上に置いた。そして、自分の掌で彼女のあかぎれだらけの手を包んだ。
「……ごめんね。ちゃんと守ってあげられなくて」
「そんなことない! フィフティは、わたしを助けてくれた……」怒ったようにシヴが言う。
「こんなの、こんなのね、どうってことないよ。ここじゃ普通のことだもん」
「でも、僕は君を守るって言った。そしたら、全部ひっくるめて守らないと嘘だ。どんな小さな傷もきみにはつけたくなかった」
「……フィフティ」
「うん?」
 シヴは呆れていた。
「カッコつけすぎ」
 二人はしばらく大声で笑ってから、それぞれに笑いすぎてこぼれた涙を拭った。あー面白かった、とシヴはご機嫌。それはどうも、とフィフティは肩をすくめて苦笑する。女の子には勝てない。
「あーあ、魔法が使えたらよかったのにな」
「使えるじゃない」
「違くてさ、たとえばここにポンと薬とかを出せたらいいのにって」
「それじゃ魔法じゃなくて手品じゃない?」
「ああ、手品でもいいね。願いが叶うならどっちだっていいや」フィフティは適当なことを言った。
 シヴがぐっと前のめりに身を乗り出す。
「ねぇ、楽園に着いたらさ、マジシャンになりなよ。きっとすごく儲かるよ。だってタネも仕掛けも本当にないんだもんね。村を作ってさ、井戸掘って畑作って、フィフティが創ってくれたおっきな太陽の下に村をつくるんだよ」シヴは両手を広げて、満開の笑顔になった。
「フィフティはそこの村長で、たったひとりのマジシャンなの」
「きみはどうするの? 好戦的な自警団のボス?」
「なんでよ。ぶちのめすわよ? ――わたしは、まあ、村長夫人かな。いやほら、村長が独身じゃカッコがつかないじゃない。ね、とりあえず、形だけ整えてさ。旅人を油断させるの」
「発想が狩人だなあ。流石だよ。恐れ入る」
「ちょっとバカにしないでよ。わたし本気なんだからね」
「わかったわかった。きっといい村になるよ。シヴ村だ」
「……やっぱりバカにしてる」
 頬を膨らませたシヴがそっぽを向く。ちょっとからかいすぎたかな、とフィフティは怖くなる。顔は笑っていても、嫌われるのが怖かった。彼女が自分をバケモノだと思っていたらどうしよう、と。実際に、逃避行の最初ではシヴは怯えていたから。その時の、彼女の絶望した表情を思い出すと、脳を取り出して薬液に突っ込みすべての記憶を洗浄したくなる。忘れてしまいたくなる――何もかもが大切な宝物の彼女との記憶の中で、それだけは、どうしても消してしまいたかった。
「フィフティ」
「…………」
「ねぇ、フィフティ」
「え?」
「……ありがとね」
 彼女は微笑んでいる。すべてをわかってくれているような安らいだ表情で。
 フィフティにはそれがすべてだった。
 ほかのなにもいらなかった。
 残りの生命をすべて彼女に注ぎ込んでしまっても構わないと思った。
 フィフティは、シヴの創る村には辿り着けない。
 彼女の夢の続きを一緒に歩んでいくことはできない。
 それでもいい。
 彼女が生きていてくれるなら、それで。

 そう感じた次の瞬間、フィフティの左目が洞窟の入り口側、少し曲がりくねった角を見た。
 白い手袋をした死神の左手が、
 岩壁を掴んでいた。

 ○

 ブリザードがチェーンバイクを殺してしまった。圧倒的なまでの風圧と叩きつけられ続ける雪片が、わずかな隙間からでもバイクのシーリングを破り、堤防が決壊するようになだれ込んだ雪で電気と燃料の系統が破壊された。時が千年進んだかのように、バイクから降りたシンが振り返ると、すでにそのフレームは雪に埋もれて沈んでいこうとしていた。イリーナに怒られるな、とシンは思った。見捨てて進む。
 嵐はどこまでも、背を猫にしたシンの行く手を阻んだ。視界はほぼ無いに等しく、方角もすべて失われた。踏み出す足も重く、シンは眼前に吹き荒ぶ真白な死をゆっくりと噛み締め始めた。『死なない男(アンデッド)』とあだ名された自分の最期が凍死とは面白い。あの二人も喜ぶだろう。間抜けな追跡者がハッピーエンドをプレゼントだ。それも悪くない。神が本気だというのなら、そのバカ騒ぎに乗ってやってもいい。
 だが、それではあの二人は助からないだろう。
 シンが死亡したくらいでは追跡は終わらない。大佐は時間をかけてゆっくりとスペアのブラックボクサーを各地から召集するだけだ。また孤児をさらってきて訓練し直しては、この氷の大地に若い猟犬として解き放つ。
 エギルたちを殺し、シンをも返り討ちにできたとしても――楽園を完成させたとしても、フィフティとシヴに待っているのは終わらない悪夢だけだ。永遠の逃避行。
 フィフティもそれはわかっているのだろう。だが、すでにステージ9まで進行した脳は熱に浮かされた夢を見るのをやめようとはしない。希望があるからエギルたちを殺したのだ。
 あの少年は最期まで、それを手放そうとはしないだろう。どんな結末になろうとも。 
(そろそろ本気で死ぬな)
 シンは腰にセットしてあるピースバッグからアイスピースを抜き取ろうとした。できればこの周囲一帯を吹き飛ばして暖を取るなんて真似はしたくなかった。それに一度、ピースで脳を覚醒(ノック)させてから、5分以降にフィフティと鉢合わせすると不味い。連続使用は負担が大きすぎる。ESPドランカーになりかけの自分は、なんの予兆もなく、おそらく線が切れたようにプツリと絶命するだろう。大佐に尽くすほどの義理はないが、任務は果たす。
 悪魔か俺は? とシンが自嘲した時、風向きが変わった。
 雪片の舞い上がる先が移る。そして視界を覆っていた白が、焦点の合ったレンズのようにわずかな角度の景色をクリアにした。20歩も進まなくてもいい距離に、塔のような氷山がそびえ立っている。神は悪魔を殺さない。生かして地獄を見せる気らしい、とシンは愛想の尽きたようなため息をついてから、休息するべく洞窟の入り口に向かった。誰かの足跡などは、たとえあったとしても降り続ける雪に消されていた。そして焚き火の灯りにすぐ気づき、だがなんの戦闘準備をすることもなく(なぜだろう、とシンは心のどこかで疑問を覚えていた)、白い手袋で覆われた左手で壁をめくるようにして、洞窟の開けた空間に顔を覗かせた。
 フィフティと会うのは、3年ぶりだった。

       

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