Neetel Inside 文芸新都
表紙

ぼっち企画
そういう趣味はないです。/しろいぬ

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1、
 高木千夏は隣のクラスの女子生徒。無口で居眠りがちな十六歳。おとなしくて消極的。他人と関わることに自ら進もうとしないので非常に目立たない。言うまでもなく女子ヒエラルキーのはみ出し者で、しかしながら彼女の名前がときどき生徒たちの話題に上がるのは、ひとえに彼女の眉目清げなるところによるもので、端的に言えば美人だということ。
 着飾らず、気取らず、黙っていても美人は評判を呼ぶものであり、それこそが美人の美人たるゆえんである。逆に不細工で後ろめたい輩であるほど見栄を張って、そんなものは見え透いているので結果おのずから風聞を悪くする、という仕組みなんだ。世の中はそういうふうにできている。
 私の同級生の月島遥は、高木千夏のその美貌を見込んで、自ら主催したという他校の男子生徒との合コンに彼女を誘い出した。相手側の幹事が不手際でその企画はずるずると順延され続けていたんだけど、このほどようやく折合いがついたということで今週末に開催される運びとなった。
 月島は高木千夏に二、三週間も以前から声をかけていた。ところが月島はそれを高木千夏に伝言すると、今度は彼女の口から驚くべき宣言を耳にすることになる。

「なんて言ったと思う?」

 月島は窓際の私の机に両手を突いて、その化粧品くさい顔面を私にぐいと詰め寄って鼻息も荒くまくしたてた。

「『私、やっぱり、いかない』だって。なによそれって思わない? おもうでしょ。だいたいあの子ちょっと顔が可愛いからってろくに友達もいないしいつもひとりで寂しそうだからこっちもかわいそうに思って誘ってあげたのに。直前でドタキャンとかもうほんとしんじらんないって!」

 憤懣やる方ない月島だったけど、思いのたけをぶちまけるとひと段落したとみえて、腕を組んでひと息、ようやっと落ち着いた。ちなみに彼女もそれなりの美形であるから、天真爛漫に腹を立てたり、容貌のわりに幼稚な語彙をもって懸命に、ぷりぷりとひとを罵るそぶりはなんだか可愛げがあって、眺めているとなんだかもぞもぞとこう、私は胸の内をくすぐられているような感覚に身悶えてしまう。そういう趣味はないはずなんだけど。



 性癖が暴露しかけたついでと言っては難だけれど、私の自己紹介がわりに、ちょっとだけ趣味について話してみても良いですかね。趣味っていうか、処世術レベルで誰だって実践してることだと思うけれど、まあ私なんか無趣味が手足を生やして歩いているような女子高生で、そんなことをわざわざ趣味なんかいう文言で括ってしまうのもおこがましいというわけだけれど、あれです。人間観察ってやつ。
 自分だけのルールは必ずしも他人に通用しうるものではないことを知らない子供は子供としてもやっていけないし、それを押し通すことが出来るきわめてまれな種類の人々は、なにかしらの優位性を保ってこの人間社会に成り立っているはずですよね。
 たとえば我々思春期の学生として顕著なアドバンテージの例を挙げるとすると、当然第一に、容貌。第二には、肉体的な造詣か。これらの類がより一般受けするように出来ていることが優位性の各要素として独立するように思えます。
 基本的な人間観察の方法としては、それら個人によってまばらな優位性を詳細に把握してカタログすることにその醍醐味があって。これってだから、誰でもやってることでしょう?
 人間観察なんてそう大それた遊びでもないし、我々は既存社会に迎合すべく家庭に学び幼稚園に学び、小学校で中学校ではっきり自覚して生きてきたわけである。ひとを見てものを言え、と。そういうこと。誰でも心得ている。
 私の座席はいちばん後ろの窓際という絶好のポジション。絶好の座席。席替えがあってから二ヶ月も過ぎたかな、特別な不満の声も上がらず喜ばしい限りでさ。級友諸君にはこのまま永久に席替えなんて思いつかないでいてほしい。私は教室を後ろから眺めるひとになって、そのままこの学校を卒業してしまってかまわない。無趣味だからね。

 と思っていたんだけど、どうにも私は相手を間違えちゃったみたいなんだよな。このとき。



 もうすぐ夏休みだ。
 足早に梅雨の時期は通り過ぎて、うんざりするほどに空が高い。
 私は窓際の席に座って、窓枠の額縁に切りとられた連山のみどりいろを眺めていた。
 束ねられることなく隅に寄せられただけのカーテンが微風を孕んでふくらみ、私の腕をくすぐる。カーテンレールがかちかちと音を立てる。
 グラウンドで制服のままサッカーに興じる男子生徒が視野に入る。掛け声とボールの弾む音が響いてくる。昼ごはんを食べ終わって生徒たちは暇をもてあましていた。教室では雑誌のページをめくる音、椅子を引く音、女子たちの話し声。寄り集まって黙々と携帯ゲーム機で遊ぶ男子の集団、その操作音。
 私はうたた寝しながらそういう穏やかな音に耳を澄ませているだけでいいんだけど。

 月島のような種類の女子高生は、私が見えない線で慎重に区画した境界を軽々と跨いで、一足飛びで乗り越えて、面と向かって瞳をのぞきこむように会話をしようとたくらむ。そしてしばしばとんでもない提案を持ち出して、私みたいな根暗の平穏をおびやかすんだ。

「それでさ、わかるでしょ。どうしてもあとひとり、あとひとり穴埋めしなきゃいけないのよう。あいや、穴埋めとか言っちゃってあれなんだけどそういうんじゃないからね! そうじゃないんだけどごめんね、あたしばかだからうまく言えないんだ。それで誰を誘おっかってみんなと色々話してたんだけど、それなりに見れてできれば歌がうまくて男とかにびびらなそうな子、ってことでさ。――」

 おかしいだろう。それで、どうして、

「山鹿ハルちゃん、どうかなってあたし言ったんだけど。ねえ、どうする?」

 どうしてそうなるんだよ。



 ってことが昨日、あった。
 しどろもどろになりながら断ったけどさ。だって月島もひと言で納得してくれたら良かったのに、なぜなにどうしてと幼稚園児の好奇心みたいに根掘り葉掘るものだから、この実に微妙な心情をどう説明したら良いものか、とにかく大変だったんだ。
 私はそんな上品じゃないとか歌は下手だとか言って。ものすごい食い下がってたけどさ、月島。あのこも大変だよね。悪いとは思ったけど、私には無理だ。そんな大役。
 私はその日、月島の誘いを断ったあと、しょぼくれた月島がじわじわ腹を立てているような気がしてきて気まずくなり、便所に行くふりをして教室を出ることにした。ついでに隣のクラスをひょいと覗いてみる。噂の孤高の美少女をひと目冷やかしてやろうと思ったからだ。
 高木千夏という女子生徒が隣のクラスに在籍して美人であるということは、実をいうと私は月島の口からはじめて聞かされた。知らなかったからね。
 ――。あぁ、
 これは、噂にもなろうね。そんな感想。


2、
 月島遥は私と同級生。学級女子ヒエラルキーの筆頭。おそらくこのクラスのボスであるということは学年でもそれなりの地位にあるとみて良いであろう。なんだか遠いひとだ。今どきの女子高生然として姦しく群れたがりである。洋服と鞄と化粧品と地方出版の地域情報誌に詳しい。高校生のミスコンやら成人式の会場の風景を撮影して掲載するようなあれ。周囲の女子からは件の雑誌に載るであろう未来のミスコンは彼女に違いないともてはやされている。そして本人もまんざらではなさそうである。
 なんというか、そういうところを含めて鑑みてもかわいい。自他共に認める、って言葉は彼女にぴったりだ。寝不足の白雪姫みたいな高木千夏もきれいだけど、あっちはいささかばかり身なりに無頓着だ。寝癖とかついてたし。月島は自分のことが他人にどう見えるのか良く分かっているらしい。化粧も服装も老若男女に媚びていると見えなくもないけど、なんというか歳相応だ。思うがままに振舞って、思慮が浅いのが見え透いている。でもそれはそれで魅力がある。
 念を押すようだけど私にそういう趣味はないよ。昨今世間では色々な妄想物語が流行しているというから釘を差しておくけどさ。
 それで、月島は思春期、花盛りの女子高生であるから、色事に対する興味関心が溢れんばかりである。だから合コンだなんだと必死になって駆けずりまわっている。学生社会における、己が天稟の優位性を遺憾なく発揮し、その食指の赴くまま年若の美少年を貪欲に弄ぶのである。一体愛とはなんなのだろう。
 昨日、合コンに対する彼女のハングリーな精神論を聞くところによると、彼女には少なからず、恋愛感情をないがしろにしているような節があるのがわかった。
 彼女は記録のあとに感情がついてくるタイプだ。とにかくデートだカラオケだと走り回って、一緒に過ごした過去の記憶が現在に残っていることで充実と安息を覚える。過去に遡ってその人を好きになる性向。それが彼女の恋愛感情。
 恋愛ってのはもっと、こう、ロマンスでアクシデンタルでバイオレントな突発的受動的な感情の突然変異ではないんだろうか。私が夢を見すぎているっていうんなら、そうかもしれないけれど。それとも逆に、私のほうこそ夢がないとでもいわれるんだろうか。
 そこのところがね、私には理解できない部分ではある。
 私のこんな考えを月島が知ったら、彼女は周囲に言い触れてまわるだろうか。まあ、彼女に言わせれば私みたいな奴は根暗で、うさんくさくて、色気のない屑野郎、ということになるんだろうな。野郎ではないけれど。

 教室の反対側で笑い声が起こった。月島の席を中心にして集まった数人の女子グループが震源だった。わざと笑っているみたいな引き伸ばしたような声。周囲に見せつけるように大げさな手振りで、あれも彼女らの結束を強くするための責務なんだろうと思うと同情の念を抱かずにはいられない。大変なんだよな、あんたたちも。
 月島もあの中で笑っていなきゃいけないんだろう。リーダーとして。それとも本心で腹の底から沸き起こる笑動を抑えきることができないっていうんなら本物だ。もしそうなら本当に私の理解の埒外の生命体ということになるけど。――

 ――しまった。目が合った。

 あーあ、後ろからジロジロこっちを見てきもちわるい、とか言われちゃうんだろうな。きっと。そりゃ気持ちも悪いだろうよ。私だって本当にそんなことをされていたなら気味が悪くなる思いでしょうね。でもね、そんな思いをさせるつもりはないんだよ。私は。いつもだ。
 彼女は、月島遥はそういう私の心情を汲もうと少しでもしてくれるだろうか。なるべくなら彼女はそうであってほしい。だって、それだけで世界は平和になるよ。きっと。これはもう地球規模の問題なんだ。貧困、飢餓、暴力、殺人、伝染病、人権や教育や宗教問題、戦争の終結、世界平和。それら全てを解決する足がかりになると私は思ってるよ。
 私はしばらく窓の向こうに視線をやって、連山の上に掛かる雲の足が速いことをぼんやりしながら確かめたあと、なんとなしに、再び月島たちのほうを、本当になんとなしに見やってみる。

 全員が口を一文字に結んで、私のほうを凝視していた。
 私がギョッとするよりも早く、長い長い爆竹みたいにけたたましい哄笑が耳に飛び込んでくる。

「見た! こっち見た!」
「きもい!」
「だはははははははははは!」
「仲間にしてほしそうにこちらを見ている!」
「どらくえ!」
「かわいそう! かわいそう!」
「みんないいすぎ! ひどすぎ!」
「きもい!」
「ぶははははははははは!」

「あ!」

「逃げた!」



 ――、


3、
 話はまた飛ぶんだけど。――、

 ニワトリ小屋があったんだ。
 親戚のおじさんの家に。祖母の七人姉弟の末弟で、果樹園やら造園業を生業としている。軍鶏や烏骨鶏もそこで見たことがある。おじさんは指を差して、あれがそうだこっちはそうだと教えてくれた。
 鶏小屋は鶏糞と飼料のにおいが生臭く、鶏たちは落ち着きなく首をキョロキョロと動かしていた。キャベツの葉を手に持って小屋の網目から差し出すと、想像もしない力強いくちばしでばりばりムシャムシャとそれを喰いちぎった。
 田畑へと引かれる用水路の谷が敷地の端に掘ってあって、ささやかな水の流れがいつでもちりちりと耳に届いてくるような家で。
 こー、こっこっこっこっこっこっこっこっこっ。
 落ち着いた鶏は公園のドバトみたいにしてさえずる。夜になるとキツネが出て鶏たちは弱肉強食の礎に沈むこともあるらしい。昼どきは庭を歩きまわり鮮やかなトサカをふるふると揺らし砂利をついばむ。たいていは泥に汚れている大ぶりの卵でつくるたまごかけごはんはとてもおいしい。目玉焼きにすると迫力ってものが違う。
 鶏小屋の狭い内にも社会があった。雄鶏と雌鳥の割合は当然雌鳥の方が多いもので、トサカをつけた真っ白な雄鶏は小屋の内に二羽、三羽くらいなものだった。ひときわ体の大きい雄鶏は小屋の真ん中でどっしりと落ち着いて数羽の雌鳥をはべらしている。隅っこの方にぽつねんと雄鶏がうずくまっている。申し訳なさそうな顔をして柵の向こう側を眺めている。記憶に残っている映像ではいつもその一羽だけが隅っこにうらぶれている。キャベツの葉を手向けてもそいつだけ近寄ってこないんだ。それに気付いたとき、私はむしょうに寂しいような、悲しいような思いをした。
 小学生の頃の記憶。キツネの被害が年々増して今では鶏小屋もすっからかんだという。息子夫婦が敷地内に家を新築するというので近々鶏小屋も取り潰される予定。



 昼休みはもうじき終わろうかとしているっていうのに、教室をあとにして行くあてなんてないんだけど。でもね、あの状況で腰を据えて反撃できるような根性は備わっていないからね。それに、不意打ちだったし。
 いわれのないあざけりかい。初体験ってわけじゃないけど、やっぱり声が出なくなっちゃうもんだね。言葉を吐く体力を根こそぎ奪われたみたいだ。
 あーあ気が重いよ。わたしゃこれからどうすりゃ良いっていうんだ。このまま家に帰って登校拒否を決めこみたいよ。
 人間観察とか気取っていたわりに、ブレイクスルーどころか思いきり裏目に出てやんの。格好悪い。予想はできていたはずなんだけどなあ。月島は、あんなにも私を引き止めたんだ。なんで、どうして、って。
 まあ、これは、流れだな。
 なるべくしてなった。言ってみりゃ自然界のおきてだ。弱肉強食の絶対方針において敗者として撰ばれたのだ。今後は鶏小屋の隅っこであの雄鶏の役を演じなければならんのだろう。うんざりだ。
 そういうのはさ、――そういうのは、外から見てやんなきゃわからないような難しい話なのかな。
 そうじゃないと私は思うんだけど。月島はどう思ってんだろう。
 月島。
 何気に、私がこの高校に入学してはじめて会話した相手が月島だったりするんだよね。なんつーかそんなくだらないことを後生大事に記憶しちゃってまぁ、女々しくて情けないんだけど。私女だけど。こんな可愛い子とキラキラした高校生活が送れちゃったりするのかしら。なんて妄想して浮かれてたりしたんだよ。入学式の帰り。
 ばかみたいだなあ。
 だってさあ、
 あいつらが私を笑ったとき、
 月島も私を見て笑ってたんだよ。
 なんだよそんなの。
 ばかみたいじゃないか。私が。
 おまえら一体なんなんだ。オセロやってんじゃないんだぞ。いきなりひっくり返りやがって。
 ううあ。


4、
 予鈴が鳴った。昼休みは残り五分だよと知らせてくれる親切なあれ。さすがの私も五限目の授業に出る気力はないよ。でも、言ったとおり行くあてはないんだ。だからといってこんな人目につくところでぼうっとしていられる時間は残り少ない。
 じゃあどうするかって言ったっていい考えなんて何も浮かばない。どうしよう。靴だけは手に持っているけど。教室を出てからすぐに下駄箱に向かって、上履きを脱いで靴を取り替えておいたんだ。何かのときのためにと思って。何かのときっていうとつまり、学校をさぼってしまおうという緊急事態のこと。
 白昼堂々、朝には出席していたはずの生徒が放課後のホームルームまでに姿を消してしまうというのは、やはり事件だよ。それは反抗の意思表示だ。私にはとてもできそうにない。今日みたいな日だったらもしかしてやってのけるんじゃないだろうか私でも、そんなことをどこか他人事に期待していたけれど、どうにもそれさえふいにしてしまいそうだ。
 じゃあどうする教室に戻るのか。だからそれは無理だって。だったら早いところ学校を抜け出さないとまずい。いつどこで誰の目が光っているかわかったものじゃない。でもそれも、すごく難しい。
 どうしようどうしようと悶えている間に時間ばかり過ぎていく。

 この学校には、
 ――今の私みたいに路頭に迷った可哀想な生徒のための避難場所、とでも呼ぶにふさわしい場所がいくつも隠されている。渡り廊下向こうの校舎の階段最上の踊り場であるとか、秘密の方法で閉ざされた窓を解錠できる空き教室とか、田舎町の公立校は大抵大昔からその場所にあるから、あちこち老朽している。先達の悪知恵の恩恵も与って、はだかる壁を通り抜ける色々な攻略法がある。隠れ場所として実際いくつか見繕えないこともなかった。
 だけど私が今望むものは、ニコチンが切れたのでこっそり煙草をふかしたいとか、昨日は徹カラで睡眠不足だとか、愛しい彼氏の煌めく眼差しを見つめていたらむらっ気が降って湧いてどうしようもなくなったとか、そういう類の授業放棄ではないってこと。
 だから校内ではなくて、外。敷地の外に逃げ出したいわけで。
 外に繋がる抜け道も先刻承知なわけでさ。
 さっきからそこをじっと見張っているんだけど。
 踏ん切りがつかないのさ。だったら本当に教室に戻るしかないぞ。グラウンドのサッカー少年たちもあらかた校舎に入っていってしまった。五限目の授業に出席するために。暑いだとかジュースじゃんけんだとか言いながら靴を履き替えているところだろう。
 不覚にもはらはらと涙を流した私の心は雨上がりの遠景のように澄み渡って、勢いに乗じて蒼穹をひと回りするともうすっかりどうでも良くなってしまった。私が気にかけているのはさっきまで手にしていた学校指定の革靴を、せっかくここまで持ってきたんだからどうしようかって話だよ。ただそれだけのこと。
 学級規模の女子ヒエラルキーのもつれ。心ない弾圧に為す術なく屈し、じめじめした校舎裏でまぶたを泣きはらしたってだけじゃあ、夏休み直前の五限目をサボるっていう大げさな反逆に釣合わないみたい。私はもう本当にヘタレなんだな。
 そんなことをだらだらと繰り返し考えているものだから、とうとう課業再開の鐘が鳴り響くのを聞いてしまうことになった。格好悪いぞ。最低最悪に。
 さて、どうするか。とりあえずよっこらせと重い腰を上げてみる。革靴を履いてみる。靴を履いたからには校舎をひと回りして正面昇降口をくぐり下駄箱にある上履きに履き替えるか、それとも校門なり何なりを通り抜けて家に帰り風呂に入り気だるいふてくされを抱き枕にしてふとんに潜り込んで寝てしまうかの二者択一であるというわけだ。選択肢は依然として二つ。それ以前と比較して減ったというわけでもない。
 ああ、なんという背徳感。教室に戻りたい。家に帰りたい。私の居場所はそのどちらかにしかないのだ。どこへ逃げてもゆくゆくはそのどちらかに戻らなければならない。わかりきったことだ。何が反逆だ意思表示だ。我々十六歳の高校生はあまりにも無力なちりあくただぞ。すれっからしだ。若年にして。夢も希望もない。夢も希望も、――。

 ざり、

 喉から心臓が飛び出るかと思った。どくんと一度高く拍を打つと大いなる焦燥に駆られた。足音だ。それもすぐ近くから。誰かがすぐそばにいる。
 もしかして私を探しにきたんだろうか、こんなに早く? それとも暇をもてあました生徒以外の誰かの気まぐれ? こんな辛気臭いところに根暗以外の誰が足を運ぶっていうんだこんちくしょー。ああもうせめて一匹狼のヤンキー少年とかそんな類のやさぐれニコチン中毒者でありますように。別にこの時間、世間ではもう常識の裏側だ。誰に見つかろうが言い逃れは出来ないし誰と顔を合わそうが奇妙な連帯感を目線だけで共有できたりするはずなんだ早いところ私を安心させてくれ。
 その足音の、

 ざり、

 あんたは一体だれなのさ。

 ざり、ざり、ざり、

「えっ」

 あ、声出しちゃった。

 ざ。

 足止まっちゃった。こっち向いちゃった。

「ええと、――高木千夏、さんじゃないですか」

 高木千夏が、昨日教室で見かけたときのような仏頂面で、こちらを顧みている。
 彼女は十六歳。隣のクラスの美貌の女子高生、高木千夏。とことん穿った見方で彼女をとらえるなら、私がいまこんなところでうじうじしている原因の、その一端を担う要注意人物。
 彼女の顔を見て口のなかで転がして舌先でもてあそんだ言葉がある。

 なんでやねん、だ。


5、
 高木千夏は、
「あんた誰?」
 って言っている。顔で。
 いやまあ、そうだろうあっちは美貌の名を馳せる有名人、しかしながらこちらはいじめられっ子の根暗だ。私の名前なんか知っているはずがない。
 ごめんなさいと言いたい。
 呼び止めたもののあれは衝動だったんだ。だからといって話したいことも聞いてみたいこともないのだと改めて気付かされる。どうしよう。
 せっかくだから「こんな時間になにしてるの」って訊いてみようか。「そっちこそ」って斬り返されたらたまったもんじゃないな、やめよう。じゃあ、あれだ。「あんたのせいでわたしゃ教室じゅうの笑い者だわさ、どうしてくれるのよ」って「そんなこと知ったこっちゃないわ」でお陀仏であるよ。もうどうしようもないな。素直に「呼び止めてごめんなさい」か。あーあ格好悪い。
「あのう、――」
「四組だったっけ」
 私の声に高木千夏の声が被さった。初めて聞いたその声は、それなりの距離を隔てても良く通る澄み切ったものだった。声自体が美少女然としている。天は二物を簡単に与えるものらしいよ。ていうかどうして知ってるんだ。私のクラス番号。私は昨日彼女のことを知ったばかりだっていうのに。
「えーと、はい」
 なんだこの、のらくらした返答は。我ながら幻滅だ。美人を前に卑屈になっている。なんという嫉妬心。モヤモヤする。それにどうして彼女が私のことを知ってるんだ。この調子じゃ私の名前から生年月日、スリーサイズに初恋の相手、小学校の卒業文集に寄稿した将来の夢(ジェットコースターになりたい)さえも先刻ご承知という段取りではあるまいな。ないか。
「どうして知ってるんですか」
 と訊き返すと彼女は笑った。あ、笑うんだこのひと。当たり前だよな人間だもの。おかしければ笑うさ。今の質問のどこがおかしかったのか私にはわからないけど、ちくしょうそんな仕草もサマになるよ。
「だって隣のクラスじゃない。知ってるとおかしいかな」
 困ったな、反論の余地がない。おかしいのはむしろ私のほうで、彼女の言い分は徹頭徹尾正論だ。私の常識の範囲内の言葉だ。
「山鹿ハル、さん」
 そうです私が山鹿ハルです。
 じゃなくてさ、
 あれ?
 おかしいな。
「はい」
 悲しいわけでもないのに、
 いや、嬉しいんだな、これ。
 なんだかもう、私は昨日その存在を知ったっていう、ろくに知らない女の子が私の名前を覚えてくれてたってだけでさ、こんなに嬉しいものかね。本当に私はいかれちまってるんじゃないか?
 情緒不安定なんだ。泣きやんだばかりだから。また泣いちまうぞ。早くどっかに消えてくれ。
「ありがとうございばす」
 早く向こうへ行け。
 私のほうを見るな。
 どうしてつっ立ってるんだよ。
 早く消えろ。
 離れろ。
 私から。
 うう。
 うああ。
 ふぐ、
 うううう。
「わああああん」
「わあああああ」
「ああああぁ」
「あああああうあああああ」

 高木千夏の声が聞こえる。

「どうして泣くの」

 私は反抗する。

「うるさい向こうに行けえ」

「そんなわけにはいかなくなった」

「おまえの都合なんか知るか」

「こっちこそあんたの都合なんか知らん」

「だったらほっとけよ、私がっ」

「私が泣こうが喚こうが勝手だろう」

「勝手に違いないが私には私の考えってものがある」

「ふざけるな」

「つきあってられるか」

「照れるな、照れるな」

「照れてなんか、いるかっ、ばか」

「だったらなんなんだ」

「私は泣いているこどもをほっとけないんだよ」

「子供あつかいするな」

「子供あつかいするなよ」

「照れてなんかないし」

「哀しくなんかもないし」

「嬉しいわけもあるか。嬉しかったら笑うもんなんだ」

「ふつうは」

「そうかな」

「そうだ」

「ばかやろうめ」

「私は女だ」

「うるさい」

「うるさいっての」

「ああもう」

「格好悪い、――」



 最後の方は寝言みたいになっていた。私は高木千夏にされるがままに腕を引かれて、グラウンドの西側の隅っこの茂みに連れ込まれた。ここはいわゆる秘密の抜け道、だ。正門も裏門も通らないで学校敷地外に出たいなら、ここの外柵フェンスを大雑把に切り取って作られた伝統の抜け穴を使うのが最適だ。高木千夏もこの抜け穴を使って五限目をサボり日常世界の裏側ワンダーランドでなにかしら宜しくしけ込もうと目論んでいたに違いないが。
「あのさ」
 私は醜態を晒した手前、申し訳ないやら恥ずかしいやらで彼女の顔を直視できない。
「もういいよ。ホント。私のことはほっとけ。あんた何か用があったんでしょ、五限目サボるくらいの大事な」
 高木千夏は私を乾いた草の上に座らせると、もと来た道すじを眺めて、誰かついて来ていないか確かめるように目を凝らした。ソルジャーかあんたは。そして私の質問に、あいまいな返事をした。
「まあ、そっちはどうとでもなるし」
「当ててやろうか」
「なにを?」
 彼女は背を屈めてつつじの群れに紛れて用心深くあたりの様子をうかがっている。だから、普通科歩兵隊員かなにかなのか、あんたは。
「五限目をサボるほどの大事な用」
「ふうん」
「男だ」
「当たり」
「えっ」
 当ててやるって言ったんじゃないの、こちらを振り返って、高木千夏はまた笑った。
「ここからはちょっと遠いんだけどね、F市の大学に通ってる私の知り合いが、今日の午後にわざわざこっちに顔を見に来るっていうから、それで」
「つきあってるの?」
「えーと、なんていうのかな」
「セフレだ」
 こんなときに、私は卑猥な言葉がぽいぽいと口をついて出てくるもんだな。
「まあ、言ってみればそうよ」
 高木千夏は少し困ったように言った。
 ああ、そうなんですか。すげえ。
 すげえとしか言いようがない。私には想像ができない世界だから。
 なんなんだよあんたもそっち側の人種なのか。
 幻滅だとかそういうのじゃなくてだな。
 なんというか。
「ねえ」
 なんですか。
「黙んないでよ。こーいう話題、あんまり得意じゃない」
 そうなの?
 高木千夏は隣のクラスの女子生徒で、無口で居眠りがちの十六歳。大人しく消極的で、――
「えーと、その」
 ほとんどそんなのでたらめじゃないか。
「――わ、わたしも。」
 また笑った。
「知らないってそんなの」
 高木千夏は隣のクラスの女子生徒で、笑うとそりゃもう無茶苦茶に可愛い。なに言われても許せる。

 以上。











<オワリ>

       

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