Neetel Inside 文芸新都
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【 とある絵描きと夏の少女 】


父さんから画材を受け取った後で屋上に向かったため、
俺がそこについたのはいつもより遅い、検診前ぎりぎりの時間だった。

屋上に上がるといつもと変わらない、同じ光景がそこにあった。

夕暮れの空の下、ひまわりの花を手に持ちながら海をただまっすぐに見つめる、
夏の少女の姿。

だが、俺がその場に加わることで見慣れてきたその光景は、少しだけ変化をみせる。

そう、いつも空っぽだったその手に真っ白なキャンバスと木炭のケースを持っている、

俺が加わることで。



「...藤崎さん、ですか?」

千夏が俺に向かって遠くから問いかける。

「ああ。ここに来る男なんて、千夏以外に俺しかいないだろ」

「...もう、来ないのかと思ってしまいました...今日は。
 ...あ、昨日の事は気にしないでください。一時の気の迷いというか何というか。
 とにかく、絵の事はもう気にしないで大丈夫ですから」

千夏は俺に向かって昨日と同じように微笑んだ。悲しい笑顔だった。



なら悪いけどそうさせてもらうよ。絵を描いていたことで今このざまなんだ。

なのに何でまた絵を描かなくちゃいけないんだ。なぜまた苦しい道を選ばなくちゃならない。

そう俺は答えるだろう。



「 描くよ 」



昨日までの俺なら。

「描くよ、千夏の自画像。千夏の好きなこの屋上と一緒に。
 俺がこのキャンバスに描いてやる」

俺は手に持っていたキャンバスを千夏の目の前に突き出した。

「え...い、いいですよ!私もなんとなくで言っちゃっただけですから!
 第一、藤崎さんの負担になっちゃいますし!]

「負担?俺がこれまでどんだけの数の絵を描いてきたと思ってるんだ」

「でも...藤崎さん、絵を描くことに関して何か複雑な事情をお持ちみたいですし...」

やはり、心の中というのは表情以上に相手に見透かされてしまうものだ。

「...確かに絵を描くことはここ最近の俺にとって、正直苦でしかなかったよ」

俺はキャンバスを一度地面に置いてから、ゆっくりとしゃがんで
千夏の目をまっすぐに見つめた。

「でもそれは描いていたんじゃなくて、"描かされていた"からだ。
 好きでもないものを無理やり描かされていたからだ。
 誰だって自分のやりたくないことを無理やりやれって言われたら嫌な気持ちになるだろ」

千夏は反論もせず、俺の話を静かに聞いていた。

「だから、俺はこれからまた、昔みたいに絵を"描こう"と思う。
 俺が自分で描きたいと思ったもの、俺が美しいと感じたものを。この手で」

我ながらなんと臭い言葉だ。言い終わって顔から火が出そうになった。

そんな心の中も読み取られたのか、千夏は顔をふいと外にそらした。

射しこむ夕日が千夏の頬を赤く染めていた。



しばらくして、落ち着いたのか千夏はゆっくりと俺の方に向き直った


「藤崎さんには...私が...どう映っていますか?」


昨日冷たく返してしまったその質問に俺は似つかわしくない笑顔で答えた。


「それは、出来上がってからのお楽しみだ」






次の日から毎日、俺は屋上で千夏の絵を描いた。

昔使っていた油絵の道具で、千夏の自画像を描いた。

その分日数はかかってしまうが、俺はこの絵に決して手を抜きたくはなかった。

それが新たに"描き"始めた絵であるからか、千夏のための絵であるからかは
自分でもよくわからなかった。

それと、俺が絵を描き始めたこと以外にもちょっとした変化があった。

千夏がいつも以上に多くのひまわりを、描いてくれているお礼として俺に
渡してくれるようになった。

加藤が苦労する姿が目に見えたが、ひまわりを嬉しそうに手渡す千夏の姿を見ると
俺はいつも素直にそれを受け取るのであった。

そのため、俺の病室は溢れんばかりの"夏"でいっぱいになった。

さすがに全ては部屋に飾りきれないので、俺はときどき見舞いに来る父さんに
少しおすそ分けをした。

いつももらっているなら全部家に持って帰ってやってもいいんだよと度々父さんに言われたが

窓辺の花瓶には必ず数本残してもらった。

夜の間でもひまわりを見ることができるように。






それから数日たって、絵はもうすぐ完成というところまで出来上がっていた。


「うん。かなり出来上がってきたな。後はちょっと細かいところを仕上げるだけだ」

「本当ですか!早く藤崎さんの絵、見てみたいです!」

「だめだ。完成までは絶対に見せない」



絵を描くにあたって俺は千夏と一つの約束をしていた。


『 完成するまでは絶対に絵を見せない 』


描きあげるまでの工程を見られてしまっては感動が半減すると思ったので、
俺はこの約束を絶対条件とした。




「ごめん、千夏。足元にある青色取ってくれる?」


海の仕上げをしている時だった。


「はい。わかりました」


その違和感にはじめて気づいたのは。


絵具箱は千夏のすぐ足元にあった。それは目と鼻の先の距離程だった。

しかし、千夏はそれを見つけるために手探りをした。

僅かな時間だったが、手探りをして絵具箱を見つけ出したのだ。




まるで暗闇の中で、落したものを探すかのように。




胸が静かにざわついていくのを憶えた。



「すみません、ちょっと車椅子で隠れて見えなくて。どうぞ」



千夏はそう言うと探し当てた絵具箱から、一本の絵具を俺に手渡した。







その色は、赤だった。







完成まで残り一つの仕上げだけを残し、その日は切り上げた。







帰り際、加藤に千夏を預けると俺はいつもよりゆっくりと病室に戻った。

その間も俺の胸のざわめきは収まらなかった。


病室についてしばらく茫然としていると、部屋の扉がゆっくりと開いた。

そこには、いつものような明るさのない、とても真剣な表情をした加藤が立っていた。




「ちょっと話がある。今、いいか?」




左腕の傷は、もう痛むことはなかった。



退院の時が、刻々と近づいていた。










...続く

       

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