第九話
夕食を食べ終わった俺は、母とユタカと三人で、リビングでテレビを見ていた。父の帰りはいつも九時過ぎで、夕飯は別々だ。普段なら、俺は食事が終わるとすぐに部屋に戻ってしまうのだが、今日は特別だった。
字幕が画面の半分を占める、下らないバラエティ。芸の無い芸能人が大きな声を上げて笑っている。時々俺も、笑い声のSEにつられて笑う。
俺がみた『夢』の話は、一切していない。
もちろん、あれが夢だなどとはこれっぽっちも思っていない。
しかし、進んでこの平穏を崩す勇気は俺には無かった。
心の中は大嵐。テレビの内容なんて本当は全く頭に入ってこない。それでも、俺は日常にしがみついた。『こちら』が夢か幻想では無いかと、どこかで思いながら……。
「俺、部屋行くわ」
番組が終わると、ユタカは部屋へと戻って行った。
弟の姿が見えなくなると、母が何気ない口調で俺に言った。
「もう、落ち着いた?」
「……うん」
もちろん嘘だったが、説明のしようも無い。母が心配してくれているというだけで、俺には充分だった。
「そう……」
母が少しだけ安心したように、テレビのチャンネルを変えた。
「……俺も、部屋行くね」
二人きりでいるのも、何となく不自然な気がして、俺は席を立った。母は小さく「うん」と言っただけで、こちらは見なかった。それはとても自然で、上手くいえないけれど、嬉しかった。
部屋に戻ると、ユタカが窓を開け放して、床にごろんと寝転がって漫画を読んでいた。
「窓、閉めろよ」
弟を飛び越え、慌てて窓を閉めた。鍵を掛け、カーテンを引く。
「暑いって。開けっ放しは謝るけどさあ……、網戸くらい開けといてよ」
「……暑くねえよ」
不満げなユタカを無視して、俺は机に向かった。特にする事があるわけでは無い。適当に小説を手に取り、呼んでいるふりをした。
これは『現実逃避』だろうか。それとも『幻想逃避』だろうか。
正直、今の状態が現実なのか、それとも何者かにより作られた『現実』なのかはわからないが、どちらにせよ、俺が『イチナナサン』に遭遇したという事実は、この世界から綺麗に消え失せている。
「……あ、兄貴」
ユタカが俺を呼ぶ。
「何だよ」
振り向かずに俺は言った。
「早く……、こっち……、見て」
「……ユタカ?」
ただならぬ雰囲気を感じ、俺はゆっくりと振り向いた。
そこに、ヤツはいた。
『イチナナサン』
閉めたはずの窓の前。俺の弟を──、ユタカを見下ろすように佇んでいる。
「ユタカ……」
「あ、兄貴ぃ……。俺、ちょっとまばたきして良い?」
ユタカの言葉に、少しだけほっとする。弟が『イチナナサン』を知っていて良かった。
「お、おう。大丈夫。俺が見てるから。い、一応かけ声いる?」
「うん、うん。早く……、いくよ? いち、に、さん……」
「……したか?」
「うん」
「交代でな」
「うん。兄貴もするなら、早く」
「うん。いち、に……良いか?」
「早く!」
「いち、に、さん……」
「した?」
「おう」
「いち、に……」
そんな俺達兄弟のやり取りを、ヤツはじっと見つめている。
俺との距離は1メートルも無い。
……でかい。
改めて見ると、本当に大きく感じる。
寝転んだ弟との距離は、足先が触れそうな程に近い。床から見上げる『イチナナサン』は、どれだけ恐ろしいだろうか。
「ユタカ」
俺は、ゆっくりと、ゆっくりと席を立つ。
「あ、兄貴……?」
「逃げよう」
「無理だよ! 無理、だ、よぉ……」
「俺、まばたきするからな! いち、に、さん……」
「……俺も。……いち、に、さん」
音を立てないように立ち上がり、俺は少しずつ、少しずつ、後ずさりしながらドアへ近づいた。上手く部屋を出て、扉を閉めれば、逃げ出せる可能性も無くは無い。
じりじりと後ずさり、そのまま後ろ手に、扉を開く。
「いち、に、さん……」
「……いち、に、さん」
今のところ、俺もユタカも冷静に対処出来ている。問題はユタカが起き上がる時、無意識にまばたきしてしまわないかだ。他の動作に気を取られた瞬間が、危ない。
「ユタカ」
「な、に?」
「俺、部屋から、出たから。お前も──」
「無理無理無理。無理だって。やばいよ。何とかしてって……」
「落ち着け。今の感じで、ちゃんと二人で交互にまばたきすれば逃げれるから」
「う、うん……」
ゆっくりと、ゆっくりと、ユタカは這いずるように立ち上がる。もちろん、視線はヤツから離さず、かけ声をしながらのまばたきも忘れない。
ドアノブにかけた手に、汗が滲む。
そうだ。このまま、このままなら逃げられる。
「良いぞ、そのまま……」
しかし、その時──、
─ゴキッ。
反射的に、扉を閉めた。
「ゆた……か?」
扉を閉めた時点で手遅れだとわかりながらも、声を掛けた。
もちろん、何の返事も無い。
手が、足が震え出す。
俺が……、俺が、ユタカを……、見捨てた。
思わず叫び出しそうになる。
ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ……
扉の向こうからは例の、あの、厭な音が聞こえ始めている。
ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ……
早く……、早く逃げないと。
「ただいまあ」
その時、玄関から父の声が聞こえた。
「とう──」
──ゴキッ。
俺が振り向くより早く、鈍い音が、鼓膜を震わせた。
「おかえ──」
──ゴキッ。
今度は母だ。
母が、死んだ、音が……。
階段の下、俺の視線の直線上、玄関の前に、ヤツは、いる。
いる。
いる。
いる。
──どうしよう。まば、たき……。
瞬間──、ヤツの姿が、消えた。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
考えるより早く、走り出していた。
玄関を開け、裸足のまま外に飛び出す。
心臓が痛い。
まだ叫んでいる? 喉も痛い。
頭も、見開いたままの目も痛い。
痛い。
痛い、痛い。
痛い痛い痛い。
怖い怖い怖い、痛い痛い痛い。
「──っ!」
その時、誰かに正面からぶつかり、俺は道路に倒れた。
「──あ。──う、う!」
自分でも何を言おうとしたのかわからないが、意味不明の叫び声が自分の口から飛び出した。
「ああ……、キシダさん。良かった。思った通り、無事だったようで」
「あなたは……」
それは、刑事のシバサキだった。その後ろには、作業着のような服装で、無表情な、不気味な男が三名立っていた。皆、日本人では無いようだ。
「あなた、は……?」
「はいはいはい。取りあえず、こいつらが来たから『イチナナサン』の心配はしないで良いよ。こいつらは、プロだから」
「プロ?」
「で、君は、まあ……、思った通りだからね。来てもらうよ」
「思った……?」
ふいに、耳元で聞いた事の無いような奇妙な音が鳴り響いた。
瞬間、視界が色を失い、闇が支配していく。
「すまんなあ……、SCP……***……」
シバサキが俺に向かって何か言った。
しかし、何と言ったのか考えるよりも早く、俺の意識は暗黒へと飲み込まれていった。