Neetel Inside ニートノベル
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SCP-173
第二章

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第十二話

 はあ……はあ……はあ……

 はあ……は…っあ、はあ……はあ……

 静まり返った廊下に、自分の足音と呼吸音だけが響く。
 今のところ、俺の事を追いかけて来ているヤツはいないようだ。
 しかし……、何て狭い廊下なのだろう。両手を真っ直ぐ横に伸ばす事も出来ない。それにくねくねと折れ曲がっていて、視界も悪いし走り難い。
 あれから、どれくらい走ったのだろう。
 途中、何回か扉を見かけたが、どれも鍵がかかっていて入る事が出来なかった。博士は他に職員がいるというような事を言っていたが、未だ誰とも会っていない。俺はただひたすらに、迷宮の様なこの廊下をひた走るのみだ。
 肺が、心臓が悲鳴をあげ始めている。
 元より運動が得意な方では無い。こんなに走ったのは、いったい何年ぶりだろうか。
 膝も痛くなってきた。足がもつれる。何度も転びそうになる。
 今の俺を支えているのは「死にたくない」という本能と、『イチナナサン』への恐怖だけだ。

 ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ……

 突然、あの音が聞こえた気がして思わず立ちすくむ。疲れ切った足は急な停止に耐えきれず、俺は廊下に膝から倒れ込んでしまった。四つん這いの姿勢で、無機質な白い床に零れる自分の汗を見た。
 喉が、胸が焼けるように痛い。
 頭を過ぎるのは──、死のイメージ。
 ああ、倒れる時、俺はまばたきをしただろうか?
 今はもう、音は聞こえてこない。
 幻聴か?
 ありえる。
 だが、もし幻聴でなかったら?
 ヤツは、今俺を見下ろしているのだろうか?
 ……何故、俺を殺さない?
 いっそ……。
 博士の声を思い出す。
《どうやら君は、『イチナナサン』の視界にいながら、攻撃対象にはならないようなんだ》
 こんな事も言っていた。
《さらに、『イチナナサン』は君を追いかけているようにも考えられる》
 何故だ。
 何故俺なんだ。
 何故……。
 はっとして、目を開けた。
 いつの間にか、考えに夢中になって目を閉じてしまっていたようだ。
 それなのに──、
(生きてる……)
 ゆっくりと立ち上がり、再び走ろうとする。
 だめだ、足が動かない。
 さっきまで走れていたのに、今は棒のようになってしまっている。
 だけど、ここにはいたくない。
 一歩、一歩、這いずるように歩き出す。
 ゴールは、未だわからないまま。

 しばらく歩くと、不意に少し広い空間に出た。右手の壁を見ると、大きな両開きの重そうな扉がある。
 どうしようか……。
 少しだけ悩んでから、扉に手をかける。
 危険だとしても、闇雲に走り回るよりはいくらかましだ。
 力を込め、扉を押した。
 ……動かない。
 押してだめなら、と引いてみる。
 すると、扉はゆっくりとこちらに向かって開き始めた。
 今更ながら緊張してきたが、開く手は止められない。
 ──扉の向こうは、思ったよりも狭い空間だった。中に入り、扉を閉める。とりあえず、ここに『イチナナサン』はいないようだ。
 広さは、突き当たりの壁までが五歩、左右に十歩といったところか。突き当たりの壁には、大きくはないがやたら頑丈そうな扉が一枚。「鍵がかけられている」というよりは「封印してある」といった方が良さそうな程、その表面には鉄骨や溶接部分が縦横に走っている。
 ひとまず、ここにいればしばらくは安全そうだ。
 安心するとともに、体から一気に力が抜けていった。
 その場にへたり込む。
 同時に、目蓋が重くなる。
 眠い。無理も無い。
 寝てしまおうか?
 博士の言う事が本当なら、例え眠ってしまっても『イチナナサン』に殺される事は無いはずだ。いや、そもそも逃げる必要だって──。
 睡魔は容赦なく襲いかかってくる。
 その時、ふと視界の隅に何か光るものを見つけた。俺から見て左斜め前の壁だ。閉じかけた目蓋を無理矢理こじ開け、目を凝らす。何か、モニタのようだ。何のための、モニタなのだろう。
 ──そうか。
 俺は正面の扉を見た。頑丈な扉、厳重な封印。この向こうに何かがいると考えない方がおかしいでは無いか。
 では、何が?
『イチナナサン』を収容しておくには厳重過ぎる気がする。ならば、他の何かだろうか。
 子鹿のように震える膝を両手で押さえながら立ち上がる。何がいるのか、それだけでも確認しなくては。もし俺が『イチナナサン』に対して無敵だとしても、他の何かに対しても無敵とは限らない。ここは財団の施設。一番怖いのは『イチナナサン』以外のSCPだ。
 ずるずると、足を引きずるように歩く。1メートル移動するのも容易では無い。
 ようやくモニタの前に辿り着く。モニタの電源は落ちていて、今は何も映されていない。
 モニタの周りには何やら英語で沢山の注意書きが書かれていた。英語は得意では無い。何かわかる単語は無いかと探すと、一番見たくなかった言葉を見つけてしまった。
『SCP─096』
 それは、つまり、この中にいるのは『ゼロキュウロク』という事なのか。
 不意にわき起こる恐怖。思わず震えた手が、モニタのスイッチに触れた。
 すると──、
 反射的にモニタから目を背けた。
 見てはいけない。直感がそう言っている。
 そのまま床に倒れ込み、匍匐前進の要領で、部屋の反対端へと進む。モニタが見えない位置に逃げよう。体が重い。誰かに足を引っ張られているかのようだ。つるつるとした床を必死に這い、壁際まで逃げ切った。安心──、いや、安心は出来ない。出来ないが……。
 睡魔は容赦なく襲いかかってくる。俺は、気絶するかのように、眠りに落ちた。

 ──これは夢だ、とすぐにわかった。
 俺は自分の家にいた。
 リビングでは食卓を囲んで、父と母、ユタカ、カシマやタロー、リナまでいる。
 みんな、笑顔だ。話は頭に入ってこないが、きっと他愛の無い話題で盛り上がっているのだ。
 俺は、それを一歩離れたところから眺めている。ぼんやりと立ち尽くした姿勢のまま、食卓に近付く気持ちさえわき上がらない。
 ああ、良かった。
 と、何となく思った。
 皆が死んでしまった事は、わかっている。
 日常が元通りになる事がないのも、わかっている。
 だけど、俺がいないその場所でも、皆が笑っているのならそれで良い。
「ユキオ」
 誰かが呼んだ。
「ユキオ」
 また。
 誰だろう。
 誰も、俺の方を見ていない。
 少し、寂しいと思った。

 ──目を覚ますと、俺は俯せの状態で床に倒れていた。
 腕の力だけで、上半身を起こす。体のあちこちが痛い。痛いという事は、どうやらまだ生きているらしい。
 どれくらい寝てしまっていたのだろう。部屋の中に時計は無いし、腕時計は付けていない。
 そういえば、今日は何月何日なのだろう。この施設で目覚めるまで、俺はどれくらいの間気を失っていたのだろうか。博士は幾つか検査をしたというような事を言っていたから、少なくとも昨日今日では無いのだろうが──。

 ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ……

 壁の向こうから例の音が聞こえてきた。
 やばい。
 耳を澄ます。
 音はまだ聞こえる。
 幻聴では、無い。
 あいつが、この向こうに。
 どうする。
 このままやり過ごすか。
 それとも思い切って……。
 いやだ。
 こんな状況でも、死ぬのは嫌だった。
 一か八かで飛び出す気にはなれない。
 ならばここでやり過ごすしか無いか……。
 この、何がいるともわからない部屋で。

 ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ……

 音はまだ聞こえている。
 廊下を覗く窓は無いから、相手の様子はうかがえない。
 ……もしかして、あのモニタは部屋の外を見る事は出来ないだろうか。部屋の中を見るためだけのものと思い込んでいたが、窓の無い部屋だ、部屋の外を見るための切り替えスイッチがあるかも知れない。スイッチは、俺が押してしまったもの以外にも幾つかあった。英語は苦手だが、よく読めばわかるだろう。少し眠ったお陰で、さっきよりは多少頭もはっきりしている。
 壁に手をつき立ち上がり、俺は、ふらつく足でゆっくりとモニタの方へと向かった。

       

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