第十六話
──気を失っていたらしい。
目を開けると、見知らぬ天井が見えた。
どうやらベッドの上に寝かされているようだが、体が動かせない。視界も妙に色味がかっている。頭痛。まだ体は回復していないようだ。
ここは、何処だろうか。
「目覚めたかい?」
また、誰かの声が聞こえた。顔を見たいが、少し頭を動かしただけでも首に激痛が走り、そちらを向くことは難しい。眼球のみを必死に動かす。誰だ? よく、見えない。
「目覚めたかい?」
繰り返し問いかけられる。返事をしようとしたが、かわりに出たのは乾いた咳だけだった。
「良かった。無事だったようだね」
無事なものか。
「173が大丈夫だったから『シャイガイ』……、096も大丈夫かと思ったんだが……」
「……あなたは、誰ですか?」
霞む眼で天井を見つめたまま聞いた。擦れた、か細い声だが、喋れる程度には回復しているようだ。
「誰? 誰という質問に答える事は容易ではないが……」
「名前、は?」
「名前? おお、それなら返答は容易い。私の名前はウィリアム。ウィリアム・ウッドワース。ひとは私を『教授』と呼ぶね」
外国人然とした名前に似合わず、流暢な日本語で男は言った。
博士の次は、教授か。やはり俺は実験動物のような扱いらしい。
「……『ゼロキュウロク』は?」
「大丈夫。ここは093の世界の中だ。ここまで追って来る事は不可能だ」
今度は『ゼロキュウサン』の登場だ。SCPのオンパレードである。
「今、博士が『シャイガイ』をいったん隔離中だ。それが終わったら、君にはまた研究所へ戻ってもらう」
「何で……、俺……?」
「それはいずれ話そう。今は余計な事を考えず、生き延びる事だけを考えなさい」
厳しいが、優しい口調で教授は言った。
「今は眠りなさい。ゲイリーから連絡が来たら起こしてあげよう」
また知らない名前だ。
もう、どうでも良い。
また、ひどく眠たくなってきた。
「起きているのかい?」
教授が声をかけてきた。
返事をしようとしたが、声が出ない。
抗う事も出来ず、目蓋が、閉じる。
「眠ったか……、それで良い」
まだ眠ってはいなかったが、俺が眠ったと思ったらしい、教授が独り言のように言った。
「『見た』という意識と、見た事で発生した感情とはやはり区別しているのだな……。少し手を加えたくらいじゃだめだったか……」
何の、話だろうか。
「しかし……、相変わらず財団は無能だな。まだ彼の居場所を探り当てていないようだ。今回はこれだけ手掛かりを与えてやったというのに……、おや?」
ガタッと椅子の動く音。教授は椅子に座っていたらしい。どうやら立ち上がったようだ。
足音が、こちらに近付いてくる。
「……寝たふりはいけないな」
手が体に触れる感触。
「おやすみ。良い夢を」
俺の意識は、闇に飲まれた。
──再び気が付くと、今度は薄暗い部屋の中にいた。
体に力を入れる。不思議な事に、何の痛みも感じなくなっている。
俺は、どれくらい眠っていたのだろう。
それに、ここは何処だ。
さっきまでは何処にいたんだ?
あの謎の男は『ゼロキュウサン』の世界の中と言っていたが……。
あれが、夢だったという可能性は無いだろうか?
……まあ良い。考えるだけ無駄だ。
上半身を起こし、辺りを見渡す。
明かりがほとんど消されているのでよくわからないが、医務室といった雰囲気の部屋だ。俺の体はベッドの上にあり、周囲は白いカーテンで仕切られている。カーテンの一部が開いており、そこから壁に並ぶ薬棚が見えている。
消毒薬の臭いが鼻につく。元々体は強い方で、病気といえばたまに風邪をひくくらいのものだ。今まで病院にお世話になった事はほとんど無い。だから──という事も無いのだろうが、病院の臭いは好きじゃ無い。
ベッドから足を下ろす。服はそのままだが、靴を履いていない。脱がされたのか。暗い中、目を凝らしてみるが靴は見当たらない。この後どんな展開が待っているかわからないが、靴下のままでは不安だ。いっそ裸足の方が走りやすいだろうか。ここがあの施設の中ならば、裸足で走って危ないという事もあるまい。足を手元に引き寄せ、靴下を脱ぐ。
その時、部屋の中に声が響いた。
《お目覚めかな?》
博士……、ギデオン博士の声だ。
何処からか、俺を監視しているのか。
《まずは礼を言わせてくれ。ありがとう。君のお陰で非常に貴重なデータを得る事が出来た。いやはや、ずいぶんと怖い思いをさせてしまったね。申し訳ない》
「……ざけんな」
大きな声は出なかったが、俺は憤りを口に出した。
《おお、怒るのももっともだ》
博士が言う。俺の声も聞こえているのか?
《何の説明もせずに君を実験に使ってしまった》
やはり、実験だったのか。
《知りたい事はたくさんあるだろうが、それはまたの機会にしてもらおう。さて、君の実験はもう少しで終わりだ。財団がようやく、君のいる場所を突き止めたようだからね》
財団が……。という事は、博士は財団の職員では無いのか?
《少し歩けば外に出る扉が見つかるだろう。大丈夫、『イチナナサン』も『ゼロキュウロク』も、もうそこにはいないからね》
それは、何よりだ。
《さあ、そろそろ行きなさい……。おっといけない……》
音声が途切れる。
「何か……、あったんですか?」
こんな仕打ちを受けてまで博士に敬語を使う必要など無いだろうが、博士相手には自然と敬語が出てしまう。不愉快だが、どうしようも無い。
《いや、済まない。君のところに今医者が向かっているようなんだ》
「医者?」
痛いところはもう無いが、医者が来てくれるならありがたい。
《そう、医者だ。しかし、普通の医者では無い》
「……SCP?」
《彼にとっては不本意だろうがね》
やはり、そういう事か……。
「わざとでしょう?」
《何がかね?》
博士はとぼけた口調で言った。
「わざと俺に仕向けたんでしょう? その、医者を」
《信じてくれとは言わないが、それは、違う。ああ、いけない。こんな押し問答をしている場合じゃ無い》
その時、部屋の外から小さな足音が聞こえて来た。
《部屋を出たら左に向かうんだ》
俺は声を聞きながらベッドを降りた。
足音が、止まる。
《しばらく行くと突き当たりに扉がある。少し重いが、思い切って引きなさい》
カーテンの隙間からすり抜け、出口を探す。裸足の足が、ぺたりという足音を立てる。
足音が、ゆっくりと近付いてくる。
《049には君は患者じゃ無いと言い聞かせてあるから、おそらく大丈夫だと思う》
049?
今近付いて来ているのは『ゼロヨンキュウ』なのか。
《049は英語しか話す事が出来ないから、君が会話するのは難しいだろう。何か言われても、何も答えない事をお勧めする》
元より会話する気など無い。
部屋の扉は開いていた。明るい廊下が見える。
その廊下の壁に──影。不気味な形の影が見える。
馬鹿でかい、ヒト型の影から、嘴のような巨大な三日月が生えている。
足に力を込める。よし、痛みは無い。
(カシマ……、力貸してくれよ)
足の速かった親友に祈る。あいつの分も、俺は生き延びるんだ。
影が動いたのを合図に、俺は一気に走り出した。
廊下に出て、左に曲がる。
曲がる時に、ちらっと右側を見た。
そこには、鳥を模したようなマスクを付けた、身長2メートル近い黒ずくめの男が立っていた。
心臓が飛び上がる。
いけない。焦っては、いけない。
出口へと向かって走り出す俺に、黒衣の医師が何か声をかけた。
「As I thought, he is not …. However, he is not my patient….」
何を言っているのかは、わからなかった。