Neetel Inside 文芸新都
表紙

Sakiです、歌わせていただきました。
4.

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 咲子は頭を抱えていた。それはものの例えではなく、テーブルに肘をついてそんなポーズをしていた。そして目の前の、真っ白なノートの一ページ目を睨みつけながら、時おり苦しげに低いうなり声を漏らしている。
 かれこれ一時間、咲子はこの格好のまま動いていない。悩みすぎて疲れ切った思考はとっくに停止していたのだが、やめ時さえ判断できないまま今に至っている。
(あー、無理だー……)
 理性的な判断というよりは、体力あるいは精神力の限界が訪れたことで音を上げた。顔から手を離して天井を仰ぎ、一息つこうとしたもののコーヒーは冷めてしまって飲めたものじゃない。お茶請けのクッキーは買い置きを切らしてしまい、ネット回線はプロパイダーの障害でまったく繋がらない。
(あーあ、だめだめダーメ。ぜんぜんダメだ)
 咲子はゆっくりと背中から倒れ、冷たいフローリングを服越しに感じた。今日こそは書き出せる気がしていたのに、この体たらく。自分の不甲斐なさに腹を立てたこともあったが、今はそんな体力や気力も残っていない。
「河瀬さん、やっぱり難しいですよ……」
 心の中でつぶやいたはずの愚痴が無意識に口から漏れていたが、これは今に始まったことではない、最近はこうして独り言をつぶやくことが多く、そのあとは必ず恥ずかしくなってしまう。
(難しいよぉ……もう……)
 心の中で言い直し、咲子は目を閉じてほんの少しだけ眠気に身体を預けて、あの日彰人に言われたことを思い出していた。

★ ☆ ★ ☆

『作詞、してみない?』
 すでに時刻は夜中の三時。眠気の限界を超えて朦朧としていた咲子の意識は、彰人のその言葉で平常な状態に引き戻された。
「さく、作詞? ……歌詞を考える、あの作詞?」
『そうそう、その作詞』
「私が? ど、どうして……!」
『そんなに驚かなくても』
 とんでもない発言をした彰人はひとまず無視し、咲子は更新ボタンを押した。咲子が歌った『赤ずきんの幕間劇』はすでに四桁に到達していた。最初の勢いこそ落ち着いたものの、再生回数とコメントはまだ安定して伸びている。
『順番に説明していくと、まず今後のことだけど、この一回で辞めるなんてことはないだろう? せっかく鮮烈なデビューを飾ったんだ、ここからじゃないか。それに、もっと歌いたい、もっと多くの人に聴いてほしいと望んでいるはずだ』
「そんなこと、ありませんよ……」
『いいや違うな。明日は仕事、こんな時間なのにまだ起きて再生回数を気にしている。本当に興味がないのなら、もうとっくに寝ているはずだ』
「それは……」
『僕も同じだよ、投稿した夜はずっとパソコンに張りついて確認しているなぁ』
 否定したものの、彰人が言ったことは図星だった。鼓動はまだ早かったし、気分も高揚している。どれだけの人たちに聴いてもらえるのか気になり、寝ている時間さえもったいないと咲子は思っていた。今だって彰人とやり取りをしている間に二回も更新ボタンを押していて、累計すると凄まじい回数をクリックしていることになる。
『まあ何にせよ、僕としても稲枝さんには自由に活動してほしいと思う。渡したマイクとレコーダーで録音したら、投稿は僕がするよ』
「え、本当ですか?」
『もちろん編集もね』
「でも配線が……」
『機種ごとに配線の方法を説明したマニュアルを送るよ。それでもわからなかったら、またいっしょに行こう』
「本当ですか! ありがとうございます!」
 咲子の気持ちなんて彰人はすでに察している。このやりとりで、咲子の歌への積極性が高いことが確認できた。
『今回、稲枝さんの歌を聴いて改めて思ったよ。やっぱり僕の曲を歌ってほしい』
「えっと、ちょっと照れますね……それで、作詞の話に繋がるんですか?」
『そうそう。前にも言ったとおり、新曲を作ろうと思う。まずはボーカルシンセサイザーに歌わせてからだから、当分あとになるけど……ただ、僕は作詞が苦手なんだ。言葉選びが下手だから伝わりにくい歌詞になってしまう。それに時間がすごくかかる、良いことなしだ』
「それで私が、ですか?」
『読書が好きなんだろう? 今までに短編小説とか書いたことあるんじゃないの? その延長で書けたりしないかな?』
「小説とか、書いたことありません」
『でも詩は書いたことあるでしょ? 夜中の妙なテンションで一気に書いて、次の日の朝に読み返して顔を真っ赤にしたこと、あるでしょ?』
「……否定はしません」
『同じ感じじゃないのかなぁ』
「うーん……」
『まあ冗談みたいに言っているけど、本当に作詞をしてほしいと思う。せっかく歌うんだったら自分の考えた歌詞とかいいと思わない? 歌に加えて、歌詞でも自分を表現できるんだよ?』
 彰人の提案はとても魅力的であった。自分で作詞をするということは世界観を構築する手間が省ける、それ以上に、彰人が言うように自分が書いた歌詞、描いた物語を歌に乗せて表現できるのだ。そうしてできた曲を歌い、今回のように絶賛されたとしたら――と考えると、咲子はごくりと喉を鳴らしてしまう。どれだけの高揚感を得るのか想像できなかったし、何より歌うことから抜け出せなくなる気がした。
「そ、そうですね、少し考えてみましょうか……ですが、期待しないでくださいね? 作詞なんて初めてですし、最悪、不採用でも構いませんので」
『それはこちらも同じことだよ。僕が作った曲を却下するのも、稲枝さんの自由だ』
「うーん、それはさすがにないと思いますが……そう言えば、作詞か作曲、どっちを先にするものなんですか?」
『一般的には作曲が先らしいけど、正解はないみたいだよ。僕は作詞をしてから作曲もしたこともあるし、心配しないでいいよ』
「わかりました……やってみます」
 漠然とした不安が込み上げていた。声を褒められたようなアドバンテージもない、今回は正真正銘ゼロからのスタートだ。
『よし、なら一旦はゴールデンウィークの最終日を締め切りとしよう。もちろんできていなくてもいい、メリハリをつけるための一応の締め切りだ』
「わかりました。うう、できるでしょうか……」
 不安を紛らわすため、消音した状態で動画を再生してコメントを読むことにした。画面を埋め尽くすように流れるコメントをできる限り読もうと、目を細めて、時には再生を止めて凝視する。
 そこには、どうしても気になることがあった。
「うーん、河瀬さん」
『ん? なに?』
「私の声のこと、特に触れられていませんね……」
 彰人が「惚れた」とまで言った咲子の声は視聴者には無反応だった。むしろ『個性を感じない声』というコメントがついているぐらいだ。
『おかしいなぁ……僕だけなのかな』
「やっぱり、そういうフェチですか……」
『フェチって言うな、フェチって。そんなことより、もう寝たほうがいいんじゃない?』
「そうですね……て、明日は月曜日じゃないですか! もうこんな時間……! 起きられるかなー……」
『遅刻はどうすることもできないけど、仕事中に居眠りしていたら起こしてあげるよ。もちろんそのあとは小言を言うけどね』
 彰人の小言はマンツーマンのときに何度も聞いている。嫌らしい口調と皮肉な内容、けれど的確すぎて言い返すことができない、そんな小言。咲子はぜったいに居眠りするまいと決意して通話を切り、携帯電話のアラームの音量を最大に設定し、ロフトベットを駆け上がった。

★ ☆ ★ ☆

「んっ……」
 咲子は背中から伝わる痛みで目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしく、視界に入る照明に目をこらしながら時計を確認すると日付はとっくに変わっていた。
 数日前の、動画が投稿された日のことを夢で見ていたようだ。それは夢とは思えないほど鮮明で、つい先ほどの出来事のように感じていたが今日はすでに木曜日、もう三日も経っていた。
(うわ、早く寝ないと……またあくびが出ちゃう……いたっ)
 上半身を起こそうとしたとき、腹部に走った痛みに咲子は顔を歪ませた。苦悶の表情のまま鈍い動きで立ち上がり、まるでネジが切れかけた人形のように小刻みに震えながらロフトベッドを上がった。
(うぅ、ちょっと張り切り過ぎなのかなぁ……)
 きりきりと痛むお腹を両手で擦りながら、咲子はここ数日の行動を思い返した。
 咲子を苦しめる痛みは、作詞をすることになった次の日の夜、つまり月曜日の夜から歌唱力向上のため本格的に取りかかった腹筋による筋肉痛だった。手軽にでき、かつ費用のかからない方法を調べたとき、腹筋や背筋に効果があることを知った咲子はすぐにそれらを採用した。
 これまで運動らしい運動を何一つしたことがなかった咲子は、一日の目安の半分にも満たない回数で限界を迎え、しかも日常生活に支障が出てしまうほどの筋肉痛になってしまう。それでもまだ三日目ではあったが、毎日続けている咲子には並々ならぬ意欲が感じられた。
 他にも基礎体力の向上としてジョギング。肺活量を上げる方法を調べた結果、ジョギングが一番簡単だった。けれど出社する前、あるいは帰宅後にジョギングをするほどのモチベーションがない咲子は、ひとまず休日のみという目標を掲げた。
 そして知識のない咲子でも知っていた、腹式呼吸。喉を使わず、お腹から声を出すように意識し、鼻から息を吸い、口から吐き出す。疲れず、どこでもできて、しかも無料という夢のようなトレーニングではあったが、今ひとつ効果が見えないところが難点だった。そもそも自分のやり方が正しいかどうかも疑わしい、なんて思っているぐらいだ。
(痛いけど……でも、がんばらなくちゃ)
 筋肉痛という形で効果が見える腹筋と背筋が今のところ最も有力な歌唱力向上の方法だった。疲労や筋肉痛はつらかったが、それが歌唱力向上に結びついていると考えるようにして充実感を得ていた。
 これまで仕事を最優先していた生活が、少しずつ歌を中心にした生活になりつつあることに咲子はまだ気づいていない。

「ふぁ……」
 咲子は今日何度目かのあくびをした。口を抑えた手で目をごしごしと擦り、ちらり、ちらりと横目で周囲を確認し、誰にも見られていないことに安堵した。
 月曜日からテストを始めて四日目の木曜日。彰人が言っていた通り、慣れてしまえば思考が止まっていてもテストはできたので、それが余計に眠気を加速させた。彰人はというと、すでに咲子とのマンツーマンを解いて新入社員全員の指導をしていた。今は咲子の隣にいることはほとんどなく、テストや発生したバグの修正で手が止まっている新入社員を個別で教えている。
 テストを行うようになり、咲子は特に問題なく作業を進めていた。その途中でいくつかバグが発生したものの、すぐに原因を突き止めて修正することができた。
(きっとバグが出てもすぐに解決できる……河瀬さんの言う通りだ)
 どうやら自分が思っている以上に理解しているらしい。テストの消化も良い、もう一番遅れているなんてことはないはずだ。これまで危機感を持ちながら作業をしていた咲子に初めて余裕ができ、同時に慢心が生まれた。少しペースを落としても良いだろう、もっと遅れている人が他にいるのだからと悪魔の囁きが咲子を誘惑し、キーボードを叩く手を少し緩めて意識を別のこと――作詞に向けた。
 咲子は『赤ずきんの幕間劇』のような、ストーリー性の高い歌詞を書きたかった。となると主軸となるテーマ、あるいは構成が必要だと感じていた。
(コメディのような歌詞を作詞できる自信はない。悲しい歌は……歌いたくない、かも。うーん、どうしよう……)
 ボーカルシンセサイザーの曲はジャンルも様々だ。それを聴いた人が笑ったり、感動したり、悲痛な展開に涙したり、時には考えさせたり、とにかく幅広い。咲子は多くの動画を見て、そのレベルの高さを実感していた。『赤ずきんの幕間劇』なら、悪役であるオオカミを主役にして、赤ずきんとは結ばれないセンチメンタルな物語にまとめられている。赤ずきんとオオカミの性格にも意外性があり、改めて咲子は『赤ずきんの幕間劇』が好きになった。
(私も童話をモチーフに考えてみようかな……あーでも、影響受けたのが見え見えだしなぁ……)
 作詞したものを見せたとき、意味ありげな笑みをニヤリと浮かべる彰人の姿が容易に想像できた。
 カタカタとキーボードを叩きながら、あれこれと考える。消去法で絞っていくうちに咲子の頭の中にある一つのテーマが残り、気づけば手が止まっていた。
(……ラブソングにしたい)
 思い返せば恋愛物、特にボーイミーツガールな内容の小説を読むことが多い。それは憧れではあったが、咲子自身、恋愛経験がないというわけではない。恋人はこれまで一人もいなかったが、学生のころはずっと共学に通っていたし、異性と話したこともちゃんとある。胸に秘めたままではあったが、初恋だって経験はしている。ただ、人見知りの性格が災いして同年代の女性と比べると経験はずっと少ない。
 一度考え出せばどんどんと記憶がよみがえる。大学生のころ、講義でたびたび席が近くなる男性がいて、何度か会話をしたことがあった。ある日、その男性に昼食を誘われた。そのときの少し照れた様子の男性の姿を咲子は今でも覚えている。けれど驚きのあまり断ってしまい、以降は交流がなくなってしまった。他にも同じゼミの同期生に突然告白され、その場で断って気まずくなってしまったこともあった。
 今になって思うと、昼食を誘った相手はこちらに好意を寄せていたのかもしれない。たとえそうでなくても、何らかの感情があったはずだ。ゼミの同期生は罰ゲームだったのかもしれない。でなければ、まったく接触のない相手から告白なんてされるはずがない、と思いつつも、今さらながら淡い期待を抱いている自分がいた。
(あ、これはいいかもしれない)
 もしあのとき昼食のお誘いを受けていたら、もしあのとき告白を承諾していたらと想像が膨らむ。もっと前後のストーリーを考えれば歌詞になるかもしれない。ようやく光明が差したことで仕事中にもかかわらず意欲が上がってしまい、思い出した実体験を書き留めるためにテストの確認事項が書かれた紙の余白にペン先を当てる。
「稲枝さん」
 びくり。咲子の身体が大きく上下に揺れた。いつの間にか彰人がすぐ隣にいて、一言で現実に引き戻された。
「は、はい!」
「手が止まっているようだけど、困ってる?」
「いえ大丈夫です、順調に消化しています!」
「そう。なら、別にいいけど」
 慌てている様子を悟られないよう、平静を取り繕おうとする咲子。そんな咲子を見向きもせず、彰人はフロアの時計を見ていた。
「ところで稲枝さんはお弁当? それとも外食?」
「お昼ですか? いつもお弁当作っています」
「ふぅん。今日は昼休み、何時に入る予定?」
「特に決めていませんが……普段は十四時ぐらいです。どうしてですか?」
 次に言った彰人の言葉は、咲子を心から驚かせた。
「今日、いっしょにお昼食べない?」
 同時に閃いた。
 ――作詞に使えるかもしれない。
 過去の経験ではなく、現在進行形で異性との関わりがあることを忘れていた。これを使わない手はない。
「はい、ぜひ!」
 すでに気分は昼休みなのか、咲子は見るからに浮かれていた。そんな咲子を彰人はこっそりとため息をつき、鋭い目つきで見つめていた。

       

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