Neetel Inside 文芸新都
表紙

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 咲子が勤める会社の最上階はフロア一つを使い切る社員食堂になっている。値段は良心的、メニューも豊富ではあったが席のキャパシティーが社員全体に対して少なく、ちょうどお昼時となると混雑のピークを迎えて座る場所を見つけることすら困難だった。加えて持参したお弁当やコンビニで買った菓子パンを食べる者も利用するのでますます人が多くなってしまう。
 けれど営業時間を外すと途端に人が減り、仮眠する者もいるぐらいだ。なので、静かにお弁当を食べたいと思っている咲子は営業時間外の十四時以降を昼休みにしていた。
「河瀬さんは、お昼はいつもどうしているんですか?」
「外に行ったり、コンビニで買ったり、まあ適当かな」
 長方形のテーブルの席に座り、咲子はお弁当を広げる。今日の彰人はコンビニの日のようで、サンドウィッチと缶コーヒーをレジ袋から取り出した。
(どうして今日に限って、こんなお弁当を作ったんだろう……)
 日持ちする煮物を作り置きしておかずにすることが多い咲子だが、この日は特に煮物だらけだったので全体的に色合いが悪い。せめてプチトマトやブロッコリーがあれば多少はバランスが保てたものの、人に見せるためにお弁当を作っているわけではないし、一ヶ月続けた一人暮らしの自炊は手を抜くことを覚えていた。
「最近、どう?」
 味の染みた里芋を頬張りながら落ち込む咲子に、彰人は声をかけた。心なしか、いつもよりトーンが低い。
「……どう、と言いますと?」
「作詞のことだよ」
「あー……あんまり進んでないです」
 咲子は手を止めて答えた。後ろめたい気持ちからか、彰人を直視することができなかった。
「まずテーマが決まりませんね……ストーリー性の高い歌詞、まるで短編小説のようなものにしたいのですが、なかなかどうにも……」
「僕もそういうこと多いよ、一度悩むとしばらく止まっちゃうよね。稲枝さんの場合はそれこそ短編小説を書くようなものだから、未経験ならなおさら大変だろうね」
「うう、やっぱりそうでしたか……河瀬さんは、どんなときにインスピレーションが湧きますか?」
「それは曲を作ろうと思ったきっかけとか、そういうことを訊いてる?」
「はい、そうです。このままじゃ前にも後ろにも動くことができなくて……」
「そうだなぁ……僕は、他の人の動画を見ているときかな」
 この彰人の返事に、咲子は胸のざわつきを感じた。それは彰人の曲が心を揺さぶらないこと、完成度のわりに再生回数が伸び悩んでいることに対する推測が確信に近づいたからだ。
「動画ですか? どの辺りで湧くんですか?」
「この歌詞はいいなぁ、とか、この曲調はいいなぁ、とかだね。意欲が刺激されて、手と頭が動くようになる」
「そうですか……」
「稲枝さんは、本を読んでみたらいいんじゃないかな」
「本、ですか?」
「読書が趣味なんだよね? あれこれ悩むよりも、新しい本を買うとか、昔読んだ本を読み返してそこからヒントを得る、というのはどうかな?」
「うーん……影響を受けちゃいそうなので、それはやめておきます」
 その推測が間違っていてほしい、咲子はそう思っていた。けれど彰人の返事は推測を確信に変えるには十分すぎた。
 咲子はじっと黙って考えた。この確信を言うかどうかだ。彰人のことを考えると言うべきではあるが、そのときお互いの関係はどうなってしまうのか。またそれとは別に、自分の思惑も打ち明けなければならないのかもしれない。息苦しくなってしまうような不安が咲子にのしかかった。
「あ、そうだ。私、最近筋トレを始めたんです」
 少なくともこの場で言う必要はないことだ。黙り込んで疑問に思われることを恐れ、咲子は話題を変えることにした。
「筋トレ?」
「腹筋と背筋を鍛えることが歌唱力向上に繋がるそうです。今度の休みはジョギングもする予定です」
「それはすごいなぁ」
「私、今までまったく運動とかしたことなくって、まだ目安の半分ぐらいしかできないんです。今は筋肉痛で座るのもつらいですが、少しずつ鍛えていくつもりです」
「ふぅん、そうなんだ」
「それと腹式呼吸ですね。発声が良くなるとネットに書いていましたので、意識せずにできるようになりたいです」
「そうだね」
「あと、ようやく動画にコメントをしてみたんです。あれ楽しいですね、自分が書いたコメントが流れるのって見ていて楽しいですね。マイリストの意味もわかりました、つまりお気に入り登録のことなんですね」
「そうだよ」
「……私の話、興味ないですか?」
 彰人の態度が妙にそっけない。咲子なりに彰人が関心のありそうな話題を振っているのだが、こんな反応では咲子も気分を悪くしてしまう。
彰人は何も答えずサンドウィッチを食べ終わり、仕事中の目つきで咲子を見つめた。その視線に咲子は嫌な予感がした。彰人のこの雰囲気は、小言が始まる前兆だったからだ。
「稲枝さん、最近寝るのが遅いんじゃない?」
「え……?」
「どうなの?」
「は、はい……ちょっと遅いです」
「だろうね、あくびが多いよ。他の社員はまだ気づいていないようだけど。それに出社も遅くなったね。今までは十五分前には来ていたのに、ギリギリじゃないか」
「そう、ですね……」
「あと、悩んで手が止まることは減ったけど、別のことを考えて止まっていることが多い気がする。一般的に言うと、集中できていない」
「え、あ……はい」
「体調が優れないと思考が鈍ってくるからね。あるいはその逆、頭が疲れていると体調も崩しやすい。テストは順調だし、内容を理解できていて申し分ない。でもそこで油断してはいけない。研修は実務の一環と思って取り組みなさい」
「はい……」
「仕事の失敗は仕事で取り戻せるけど、勤務態度はまず改めないといけない。だから気をつけて。見られていないようで、案外見られているものだから」
 彰人が矢継ぎ早に言った言葉が咲子にグサグサと突き刺さった。たしかに最近の生活リズムは乱れていたし、仕事もあまり集中できていない。そこは咲子も自覚していたことなので反省するしかないが、そもそもの発端は作詞が原因なので少なからずあなたにも原因はある――なんて、八つ当たりのようなことを考えたが、それが間違いということぐらい咲子もわかっていた。
「すみません、気をつけます……」
「どうしても眠いなら、昼休みに寝たらいいと思うよ。この時間なら人も少ないしね。僕もたまにしているよ」
「あ、そうなんですか。ちょっと意外です」
「僕だって夜更かししたら眠いよ。社会人になった年数とか経験とか関係ない、眠いときは眠い、なら休み時間に寝るという選択は間違っていないよ」
「はい、すみません……すみません」
 咲子は落ち込んでしまい、お弁当を食べる手を止めた。当然ながら作詞、ラブソングのことなんて考えられるはずもなかった。

 咲子は彰人から注意されたその日から生活を改めた。一番の問題が睡眠不足ということはわかっていたので、まず就寝時間を元に戻した。それにより動画投稿サイトを見る時間は減ってしまったが、仕事に集中できるようになった。筋トレは無理をしない程度に留めて翌日への負担を減らすようにした。勤務時間中は仕事に集中し、通勤中や昼休みに作詞のことを考える。そんな当たり前のことができていなかった、そのことが咲子には大きなショックで、同時にそのことを厳しくも早い段階で教えてくれた彰人には感謝した。
 咲子は五月に入ってすぐ、ゴールデンウィーク前にテストを終わらせた。彰人によるテスト結果の検証が行われ、そして了承を得て研修は完了した。この時点で研修を終わらせているのは咲子と他に一人だけで、他の新入社員はテストによるバグの発覚、プログラムの修正を何度も繰り返し、まだ半分も進んでいなかった。
 咲子の出来の悪さを知っている他の新入社員は咲子の成長に驚いていたが、同時に快く思わない者も少なからずいた。先輩社員――彰人によるマンツーマンがあればそれぐらいできるだろうと、咲子に聞こえるように囁かれさえした。
『んー、それはあるかもね』
 陰口を聞いたその日の夜、彰人にネット電話で相談していた。
「やっぱりそう思いますか……?」
『だって、現にマンツーマンがなかったら稲枝さん、あの研修を終わらせることはできなかったと思うよ?』
「……はい、その通りです」
『でも前にも言ったけど、今は理解することが大事なんだ。終わらせることが目的じゃない、早さを競う必要なんてない。単なる僻みを言われているだけ、と思って無視したらいいよ』
「そうは言いますけど……同じ新入社員ですし、これから先、やりづらくなるとか嫌じゃないですか……」
『たしかになぁ……うん、僕もちょっと考えてみるよ』
「すみません……」
『どうせ仕事をするんだ、快適な環境でしたいからね』
「……河瀬さんって、どうしてそこまで一生懸命できるんですか?」
『楽しいからさ。何事にも一生懸命というのは、なかなか良いものだよ』
 彰人がどんな行動を起こすのか、咲子にはわからない。けれど咲子はそれだけ彰人のことを信頼していた。
 社会人になって初めてのゴールデンウィーク、咲子は実家で過ごすことにした。二ヶ月ぶりに会った両親や友人と遊びに出かけたりして多忙な時間を送ったが、頭の中はずっと作詞のことを考えていた。
 そうしてゴールデンウィーク最終日。つまり一応の期日が訪れた。結局、咲子は作詞を完成させることはできなかったが、ノートの数ページに繋がりのない歌詞を箇条書きにしていた。思いついたものから書き出し、そこから繋げる、あるいは連想して作詞ができればと期待していたが、なかなかうまくはいかなかった。
(何もできていないよりはマシだよね……)
 咲子がネット電話にログインすると、すぐに彰人から通話が入った。
「お疲れさまです、もしかして待っていましたか……?」
『待つというか、休み中はずっと引きこもっていたよ。ところで五月病は大丈夫?』
「騒がれているほどではありませんね。いつもの日曜日特有の憂鬱さはありますけど」
『それなら良かった。この時期、元気をなくす人が多いからね』
 彰人の声を聞くのもひさしぶりだった。つい嬉しくなってしまい、咲子はゴールデンウィーク中の出来事を話した。彰人からすれば用件とは違うのだが、楽しそうに相槌を打って咲子の話を聞いた。
「作詞ですが、まだできていません……いくつか書き起こしているんですが、完成にはまだ遠いです」
 一通り話し終えると話題は自然と作詞のことになり、咲子は彰人に謝った。
『謝ることはないよ、書けているだけすごいじゃないか。それ読んでみてよ』 
「い、嫌ですよ!」
『じゃあ、文字でもいいから読ませてよ』
「それも嫌です!」
『わからないなぁ。最終的には歌うことになるし、僕が編集することになるのに……』
「違うんです、気分的に!」
 それは調理中の料理を相手に差し出すようなもの――と例えてみたが、彰人の理解を得られることはなかった。彰人が言うことはもっともなのだが、咲子の中で折り合いがついておらず、どうしても恥ずかしさが拭えなかった。
『僕はこんなところかな』
 ネット電話を介して、彰人から圧縮ファイルが送られてきた。それをクリックすると四つの音声ファイルが現れた。
「え、こんなに……!」
『ストックとして譜面に残しているのが結構あって、そこから使えそうなものを選んだのがその四つ。最初の触りしかできていないけどね』
「それ、なんだかずるいです……」
『これでも年単位で作曲をやっているからね。もし気に入ったのがあったら、それに合わせて作詞をするというのもいいね』
「……そうですね、じゃあ聴いてみます。少しだけ通話を切りますね」
 咲子は音声ファイルをクリックした。その胸中は彰人が自分のために作曲してくれたものを聴くことができる、という期待と、確信している彰人の問題を再度認識させられてしまうのでは、という不安が半々だった。
 順番にクリックをしていく。どの曲も一分未満、最初のフレーズのみで最後はフェードアウトで終わっているが、それだけで曲全体の雰囲気が伝わり、どれも曲調が異なっているので好みや作詞の内容で選べるようになっていた。
 だが、不安は的中してしまった。やはり確信は間違っておらず、咲子は穏やかにはいられなかった。もう黙っているわけにはいかない、言うしかない。それは悲しみではなく、どちらかと言えば怒りに近い感情だった。
「……もしもし」
『はいはい、もしもし』
 通話をすると彰人はすぐに応答した。咲子は目を閉じ、一呼吸した。まだ気持ちが揺れている、しかし一応の覚悟は決まった。
「曲、聴きました」
『どうだった?』
「全部だめです」
 この咲子の言葉は予想外だったのだろう、彰人からは何も返事がなかった。
「大変言い難いのですが、今のままでは河瀬さんの曲は歌いたくありません」
 咲子は彰人の返事を待たず、結論を言った。けれどまだ終わらない、言いたいことはこれではないからだ。
「河瀬さんは、自分の動画についているコメントを読んだこと、ありますか?」
『……そりゃあ、あるよ。嬉しいし、それに参考になるからね』
「本当ですか?」
『……どういう意味?』
「特定のコメント……称賛のコメントしか見ず、他の、特に非難や指摘のコメントは非表示にしているんじゃないですか?」
『それは……』
 彰人は口ごもった。四月からの付き合いの中で初めて見る様子だったが、意外でもなんでもなかった。咲子は自分が彰人にとって都合の悪いことを言っているということがわかっていたからだ。
「河瀬さんの曲を聴いて、他の人の曲を聴いて……そうしているうちに、あることに気づきました。この時点ではつまらない推測です。ですが少し前、インスピレーションが湧くときのことを訊きましたよね? そのときに確信しました」
『何が言いたい?』
「そしてさっきのファイル。もう間違えようがありません」
『だから、いったい何なんだよ』
「河瀬さんの曲、他の人と同じなんです。いえ、同じと言ったら他の人に失礼ですね、あなたの曲は劣化コピーです」
 咲子は顔中に汗をかいていることに気づいた。じっとりした嫌な汗だ。それもそのはずである、言うか言うまいか悩みに悩んだことを言ったのだから。
『同じなわけ、ないだろう。稲枝さんが、そう思っているだけじゃないのか?』
「やっぱりコメントを見ていないんですね。言われているんですよ、多くの人に」
彰人の声が震えていて、その怒りがネット電話越しでも伝わってくるようだ。咲子は恐怖のあまり通話を切りたかった。それにこれ以上続けてしまうと関係が破綻してしまうかもしれない。この瞬間こそは作曲者と作詞者だが、明日になれば同じ職場の先輩と後輩という関係だ、仕事にだって影響が出かねない。
 けれど咲子が本当に言いたいことはここから、まだ終わるわけにはいかない。
「最近の曲はずっとそうですね。ですが、新しいものから古いものを順番に聴きました。そうしたら初めての……デビュー作と二作目は、再生回数こそ少ないですが、すごく独特で、個性的でした。これらが、河瀬さんが本当に作りたい曲じゃないんですか?」
『あのころはダメだ、コードすら知らなかったんだ、不協和音だらけじゃないか。すべてが我流でめちゃくちゃにやっていたんだ、良いわけがない』
「そうですね。コメントでもけっこう厳しいこと言われていますね。でも、私はそのころの曲、好きですよ。あれが本当に作りたいものじゃないんですか?」
『あんなの、ダメだ。ダメなんだ!』
「どうしてですか? 河瀬さん、自信のなかった私に言ってくれましたよね? 私はボーカルシンセサイザーでも他の人でもない、真似はしなくてもいい、私が歌う『赤ずきんの幕間劇』が聴きたいって。それは私も同じです、私は、河瀬さんの曲を聴きたい、歌いたいんです」
 咲子は言いたかったことをすべて言った。少し後悔はしていた。けれど概ね、重荷が取り除かれたような気持ちだった。
『君に』
どれぐらい待ったことだろう。実際はそれほど経っていなかったのだが、咲子にはとても長く感じられた。
『君に、何がわかるんだ』
 彰人の返事は、咲子が予想していた中で最も望んでいないものだった。緊張のあまり咲子は吐き気と目眩を催していたが、逃げてはいけないと気持ちを奮い立たせた。それは彰人の作曲を矯正させたいというわけではなく、次の瞬間に関係が終わるとしても後悔しない、未練を残さないために最後まで立ち向かうためだった。
『他の曲と被っているからって、だから何だって言うんだ。再生回数を見ろよ、どれだけ見てもらっていると思うんだ?』
「たしかに再生回数は大事だと思います。それがなければ、どれだけの人に見られているかわかりませんからね。でも、再生回数のためだけに動画を作るのは間違っています。そりゃあ、たくさんの人に見てもらいたいとは思いますが……二の次じゃないですか、そんなの。自分が作りたいものを作って投稿する。それではダメなんですか?」
『違う、そうじゃないんだ……君はわかっていない。初めての動画であれだけ再生されたんだ、僕の気持ちをわかるはずがない』
「……それを言われたら何も返せませんが、感じたことは言えますし、私の気持ちは変わりません。今のままなら河瀬さんがどんな曲を作ったとしても、私は、すべて、却下します」
『なんだよそれ……』
「ぜったい、歌いません」
 咲子は感極まってしまい、声が震えて目元に涙が溜まっていた。彰人もこのときばかりは冷静ではなく、普段なら気づけるはずの咲子の様子を見落としていた。
『稲枝さんは歌うだけじゃないか』
 だから、彰人は言ってはいけないことを咲子に言ってしまった。
「……どういう意味ですか?」
『そのままの意味だ。カラオケに配信されている曲なら、どれでも歌える。そんな楽なことはないよな』
「そんなこと、思っていたんですか」
 彰人の一言は、彰人が思っている以上に咲子を傷つけていた。彰人が感情的になっていることには気づいていたが、それを差し引いても悲しすぎた。咲子がかろうじて保っていた理性は、ぼきりと音を立てて折れてしまった。
「そうですね、私はただ歌うだけです、それしかできません。作曲もできません、作詞だって、できません。録音だって、投稿、だって……河瀬さん、それが苦痛、だったんですか?」
 洪水のように溢れる感情は整理が追いつかず、ぽろぽろと口から勝手に言葉がこぼれていく。彰人が何かを言っているようだったが、咲子の耳には入らなかった。
「私、嬉しかったなぁ……声が好きって、言ってもらえて……すごく良かったって、言ってもらえて……でも、無理ですね、もう……今まで、ありがとう、ございました」
 涙が堪え切れない。不鮮明な視界で画面が見えず、咲子は何度もクリックをして通話を切った。そしてノートパソコンの電源も落とさずロフトベッドに上がり、声を噛み殺すように泣いた。

       

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