2.


「河瀬さん……私には、できません」
「うーん……」
 咲子は伏し目がちにそう言い、彰人は困った表情を浮かべてつぶやいた。
 入社初日から四日が経ち、この日は週末、金曜日。すでに新入社員たちは他の社員と同じフロアにデスクが与えられ、小規模なシステム開発のシミュレーション――プログラムミング、テストを各自が実施するという実務に近い研修を行なっていた。
 咲子は新入社員の中で最も進捗が遅れていた。ほとんどの新入社員は大学在学中にプログラミングの講義を受講しているため、経験値が大きく違いすぎた。中には数人、咲子と同じように未経験者はいたが、それでも一番遅れているのは咲子の要領や取っかかりが悪いからだ。
 そんな咲子のためにと、三日目の朝からマンツーマンで指導を行うようになったのが彰人である。初日の件があったので咲子に彰人を付かせることに対して数人の社員、特に女性社員から反対意見が出たが、彰人の手は比較的空いていて、誰もが認める業務知識とスキルは指導員としては打ってつけだろう、という結論になった。
 最終的には咲子の意志が尊重されたため、こうして彰人と咲子のマンツーマンになっているということは咲子の望んだことでもあるのだ。というのも、あの日の『調教』の問題発言もすでに解決していたからだ。ボーカルシンセサイザーをより人間の声に近づけるため、あるいは曲全体のバランスの微調整を意味する専門用語で、翌日の朝一番に受信した社内メールでそう説明された。
「稲枝さん」
 彰人は手に持ったペンをくるくると回しながら、眉間に皺を寄せてやや厳しい表情を咲子に向けた。まるで親に叱られている子供のように、咲子はしゅんとうなだれた。
「できないことをやれって言っているわけじゃないんだ。たしかに、プログラミングが未経験でこの研修は難しいかもしれない。でも、ちゃんと考えればできる、答えはあるんだから。それに……わからない、ならともかく、できない、というのは受けつけられない。できない、というのは投げ出しているようなものだから。学生のときならそれでも良かったけど、もうそれは通用しないよ」
 予想以上に厳しい返事、けれど言っていることは正論だ。甘えた考えをしていた自分が恥ずかしく、同時に苛立ちさえ募らせ、咲子は黙り込んでしまう。
「とりあえず、まずはどこがわからないかを考えてみよう。そこが見つかれば、あとは調べるだけだ。もし調べても見つからないのなら、僕に聞いてくれたらいい。さあ、やってみよう」
「は、はい」
 彰人は責めるような口調から一転して、温かみを感じる優しい口調で続けた。咲子は救われた気持ちになってプログラミングの教本を開き、文章を目で追った。叩いてから引き上げる、こんな鞭と飴のやりとりが二日間、ずっと二人の間で繰り返されていた。
 咲子の理解力はともかくとして、彰人の教え方は理想的とも言えた。単純に記憶させるような詰め込みはせず理屈を順序立てて理解させる教え方で、口頭では専門用語を使わず日常的な単語で代用し、時には図を描いて説明をする。その一方、悩むべき問題、熟考する必要のある過程では助言を与えず、先ほどのような甘えた発言には厳しく指導する。
 特に生徒――咲子の意欲を上げる工夫が上手かった。
「……私、この仕事に向いていないんでしょうか……」
「向いていないんじゃない、慣れていないだけだよ。慣れてしまえば、ある程度できるようになる。でも今は、慣れることが大事なんじゃない。覚えて、理解することが大事なんだ。こんな研修問題、ポイントだけ押さえてしまえば簡単だよ? でもそれでは、似たような問題に当たったとき困ることになる。理解さえしておけば、その派生さえも解決することができる。今日一日、稲枝さんに教えていてわかったけど、稲枝さんは物事を覚えるだけじゃなくて、ちゃんと理解しようとしている。それはすごくいいことだよ。たしかに時間はかかるけど、その時間はぜったいに無駄じゃない」
 三日目の定時ごろに弱音を吐いたときの、この彰人の返事が咲子の心の支えだった。もちろん彰人の言葉の真偽はわからないが、二日間のマンツーマン指導は咲子が彰人に信頼を寄せるには十分すぎた。
(それにしても、ほんと、知らんぷりだなぁ)
 すでに勤務時間の大半を彰人と会話するようになっていたが、仕事の内容ばかりで歌のこと、動画投稿サイトのことについてはまったく触れていない。
 一度、咲子は小声でこっそりと聞いたことがあったが「勤務時間中は仕事に集中しなくちゃいけない」と冷たく叱られた。デスクの周りを好き放題している人がそんなことを言うものかと思ったが、仕事ができる人がそれを許されるのだろうか……と、理不尽なものを感じずにはいられなかった。
 デスクの上に積み重ねたプログラミングの教本を読んでいると、定時を伝えるチャイムが放送され、咲子は本を閉じた。
(今日もあまり進まなかった……)
 他の新入社員と比べると、およそ半分ぐらいの進捗率だった。まだ研修だから良いものの、これが本当の仕事だと思うとぞっとしてしまう。
 数人の新入社員はパソコンの電源を落とし、さっさと片付けてすぐにフロアから飛び出していった。ちらりと聞こえた話では今日はボウリングに行くらしい。咲子は誘われもしなかったが、むしろそのほうが気が楽なので安心していた。
 参考にしていたプログラミングの教本を棚に戻し終えると、彰人が自席に戻って仕事をしている姿が見えた。手が空いているとはいえまったく暇ではない、マンツーマンということは自分の仕事はストップしているのだ。
 定時後、残って仕事をする彰人を見て、咲子は申し訳ない気持ちになってしまうが、自分に手伝えることがあるとは思えない。これ以上邪魔にならないようにと、咲子はさっさとタイムカードを切った。
「……お疲れ様でした」
 長い平日だった。明日は休みということもあり、すでに気が抜けている咲子の声に張りはなかった。ふらふらといつも以上におぼつかない足取りだったが、普段よりも解放感に満ちている。学生のときも休日というのは嬉しいものだったが、今日以上に嬉しいと感じることはなかっただろう。
 社会人になって初めての休日は、あいかわらず引越しの片付けや食料品の買い込みなどはあったが、今夜の予定はすでに決めていた。それは入社初日の夜、彰人に教えてもらった動画投稿サイト、そこにアクセスして彰人が作った歌を聴くことだった。

 咲子は職場から歩いて十五分ほどのワンルームマンションに住んでいる。クローゼット付きの手狭な部屋には父親といっしょに組み立てたロフトベッド、小さな冷蔵庫とテーブル、そして文庫本が詰まった本棚があることで窮屈に感じられ、それに拍車をかけるようにダンボール箱が数箱、部屋の隅に積み重ねられている。住み始めてまだ一ヶ月も経っていないため生活感は希薄で、未だにドアを開けても我が家に帰ってきたという気分にはなれなかった。
 咲子は帰宅すると、メイクを落として夕食を作り始めた。ご飯を炊き、味噌汁を作り、おかずはお弁当を作ったときの残りなので昼食とほぼ変わりはなかったが、会社よりも落ち着いて食べることができるので格段においしく感じられた。
 食器を洗い、少しだけ引越しの片付けをして、シャワーを浴びて一段落着いたときには十時を少し過ぎていた。咲子はロフトベッドのデスクの上に置いている、開いたままのノートパソコンの電源を入れた。昨日までならとっくに寝ている時間、それでも起きていられるのが休日前の夜の良いところだ。
 咲子はまず、彰人とのネット電話の設定をすることにした。ネット電話のアプリケーションに自分のユーザー名『Saki』とパスワード『自分の生年月日の逆順』を入力し、ログイン。咲子が登録している連絡先は少なく、数人の友人だけで十人にも満たない。そこには異性の連絡先は入っておらず、彰人が初めての異性となる。特別意識する必要もないのだが、咲子は妙にそわそわしてしまう。
 まず連絡先の追加のためにユーザー名の検索を行った。受け取ったメモには『ユーザー名:ショウジン』と書かれている。メモを見る限り、この名前は動画投稿サイトで使っている名前と同じようだ。
 ユーザー名などのネット上で使う名前というものは一種の偽名なので、何かしら本人が意図してつけることが多い。咲子なら自分の名前の一文字目をローマ字読みに変えただけのシンプルなものだ。そのときの気まぐれで決めてしまうとつい忘れてしまいがちで、咲子も過去に何度かそれで再設定をする羽目になったので『Saki』に落ち着いた、という経緯があった。
(ショウジン……もしかして『彰人』の読み方を変えただけ?)
 だとしたら単純すぎる。人のことをどうこう言えるようなユーザー名ではなかったが、咲子はクスクスと笑ってしまう。
 連絡先の追加はこちらから申請をして相手から承諾を得なければならないので、検索するだけでは意味がない。つまり咲子の申請が彰人に気づかれない限りは連絡の取りようがないのだが、咲子は彰人なら家でもずっとパソコンを触っている、というイメージを抱いているため、帰宅さえしていればすぐに気づいてもらえるだろうと考えた。
 しかし検索の結果『ショウジン』というユーザー名は複数表示された。このネット電話は世界中で優に一千万人以上が利用しているのだ、もちろん日本だけに限定すればもっと少ないが、他に『ショウジン』がいてもおかしくなかった。咲子はそのことに気づかなかった自分と、気が回らなかった彰人を少し恨んだ。
 上から下にスクロールして彰人らしきユーザーを探した。検索結果に所在地が表示されるので都内のユーザーを注意深く見ていると、その中で一人だけユーザーが設定するプロフィールの画像に、あの日彰人に見せてもらったボーカルシンセサイザーのキャラクターを使っているユーザーがいた。
 これだけでは断定できるはずもないが、このユーザーが彰人である可能性は高い。しかし電話番号やメールアドレスを知らないので本人に確認することができない。月曜日まで待とうかとも考えたが、また週末までお預けになってしまうことは避けたかった。
 咲子は考えた末、メッセージに『私です』と一言だけ添えてショウジンに申請をした。この不明確な状態で本名を記載するのは危険である。ユーザー名の『Saki』で気づいてもらうしかなかった。これであとは待つだけだ、いつでも連絡が来てもいいように実家から持ってきたヘッドセットをノートパソコンの隣に置いた。
 次はいよいよ動画投稿サイトである。ブラウザを開き、彰人が書いた動画投稿サイトのサイト名を検索して検索結果の一ページ目、一番上のリンクをクリックする。すると、あの日に見せてもらったページとまったく同じものが表示された。
 あの日はしっかりと見ていなかったので、咲子は隅々まで見るようにした。まずそのページの書かれている総動画数に驚いた。一、十、百、千、万――一千万に届こうとしている。その隣には今日だけで増えた動画数が書かれていて、一万には届かないがそれでも相当な数だ。
(一人が一つの動画を作ったとしたら、何千人という人が今日一日でこんなに投稿したということになる……何だか、私の知らない世界だなぁ……)
 ふと思い出した。大学時代、ゼミや講義中にそのサイト名を聞いたことがあったような気がした。きっとここは有名なサイトなのだろう。自分が今まで知らなかっただけでほとんどの人が知っていて、今日街ですれ違った人の中にも動画を投稿した人がいたかもしれない。
(えっと、ここで検索したら出てくるんだよね……?)
 検索欄に『ショウジン』と打ち込み、検索ボタンをクリックする。すると小さなアイコンとタイトル、そして紹介文、他にもいろいろと書かれているそれらが一組となり、ずらりと縦一列に表示された。
(え、なにこれ、これが検索結果? ……これ全部、そうなの?)
 検索結果は百を超えていた。もちろんすべてが彰人の作った動画ではなく、偶然キーワードが一致しただけのまったく関係ない動画や、同じユーザー名が投稿した動画が表示されていた。これは彰人の指示が悪かった。彰人にとって動画投稿サイトは日常の延長だったが、咲子には未知の領域なのだ。彰人が十分に気を使う必要があった。
(えー、どうしよう……)
 彰人からのネット電話を待とうかとも考えたが、まだ帰宅していないかもしれないし、帰宅していたとしても確認されなければ同じことだ。そもそも申請を送ったユーザーが彰人とも限らない。
 このまま立ち往生というのも時間が無駄になってしまうので、咲子は適当にタイトルをクリックすると、偶然にもそれは彰人が作成した動画だった。
 けれど、ここでも問題は起きた。