Neetel Inside 文芸新都
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「このフロアの隅っこの、039号室だよ。これはフリードリンクのグラスね」
「あの、順番は……」
「予約しておいたんだ。休みの日は混むからね」
 烏龍茶を注ぐ彰人を見て、部屋に向かう前にドリンクを入れるものなんだと咲子は学習し、受け取ったグラスにオレンジジュースを注いだ。そして先ほどと同じように彰人の背中を追い、五人も入ればいっぱいになってしまうほどの039号室に入った。
「……あれ? 臭くない」
 嫌煙家とまではいかないが、咲子はわずかに残った煙草の臭い、煙が気になってしまうのだ。過去の経験から、カラオケの部屋は煙草の臭いがこびりついているという印象が強かったが、この部屋は違った。
「めずらしいだろ? 予約するときに禁煙ルームがあることを知って、せっかくだからここにしたんだ」
「ありがとうございます、実は私、煙草が苦手で……」
「それなら良かった、気を利かせた甲斐があったよ。じゃあちょっと、ここから出てもらっていいかな?」
 彰人はそう言って紙袋から先ほどのマイクとレコーダーに加え、布手袋、小型のハンディクリーナーを取り出した。
「え? 何ですか、これ」
「さっきの受付のところで待っていればいいよ。今から配線を変えて、マイクとレコーダーを繋げる。ネットで調べたところ、機種の裏側にプラグを差し込む必要があるから、埃が舞うかもしれない」
「少しぐらい大丈夫です、お手伝いします」
「だめだ、やるからにはベストを尽くさなければならない。配線を変えて、掃除が終わったら呼ぶから待っていてほしい」
「……はい」
 オレンジジュースを持って受付に戻り、空いていたソファーに座って一口飲むと甘ったるい味が乾いた喉を潤した。
 咲子は少し不満だった。彰人は休日でも仕事中でも変わりがない、否定する余地がないほど合理的に動き、結果をより良くするためにとことん突き詰める。まるで仕事の延長のようで気が滅入りそうだ。先ほどのマイクや部屋のことといい、事あるごとに気を利かせてくれる彰人には感謝していたが、せっかくの共同作業なのだからできることは手伝いたかった。
 ただ待つだけというのは苦痛で、特に周囲に人が大勢いる中に自分だけが一人きりというのはなおさらだ。トートバッグから携帯電話を取り出し、イヤホンを繋いで耳にはめてもう何十回と聴いた『赤ずきんの幕間劇』を再生した。
 目を閉じれば映像が浮かぶ。そこに自分が描いた世界観を重ねると、全くイメージが異なって見えてくる。大丈夫、大丈夫、やれるだけのことはやった、咲子はそう自分に言い聞かせる。
「稲枝さん、お待たせ」
三回目の再生中に彰人が迎えに来た。
「……けっこう時間かかったみたいですね」
「配線自体はすぐに終わったんだけど、掃除に手がかかってね」
 咲子は一人にされたことを根に持っていたようで、皮肉を言うつもりはなかったがつい嫌味ったらしく言ってしまった。けれど白いシャツがところどころ黒く汚れ、埃にまみれた彰人の姿を見て抱いていた苛立ちがたちまち萎れていった。
「あの、どうしたんですか、すごく汚れちゃってますよ……?」
「思っていたよりも埃だらけでさ、この通りだよ」
「……もう、せめて払ってくださいよ」
 咲子は埃を指で摘まんで剥がし、シャツをぱんぱんと叩いた。横断歩道で倒れた彰人を助けたときもこうして汚れを払っていた。なんだか頼りない年上の人だと、咲子は良い意味で呆れた。
「ありがとう、また手間をかけさせたね」
「本当ですよ、自分のことは自分でしてください」
「はい……」
 ほんの少しやり返せて上機嫌な咲子が軽い足取りで部屋に戻ると、テーブルの上には先ほど見せられたマイクとテレビのリモコンのようなレコーダーが置かれていて、その両方からケーブルがカラオケ機種に伸びていた。
「ほら、これが稲枝さんのマイクだ」
 彰人からマイクを手渡され、受け取る。咲子はしげしげとそれを眺めるが、入社式のときに使ったマイクとの違いがわからない。
「どれぐらい良いものかは知らない、ネットでおすすめされているものを買っただけだから。で、こっちがレコーダー。使い方は説明書を読んだらわかるよ。記憶容量はかなり大きいから使い切ることはないと思うけど、空き容量には気をつけて」
 咲子は説明書を見て、案外簡単に使えそうで安心した。ひとまずは録音と再生、そしてデータ消去の方法を確認していると彰人は手荷物を持った。
「準備はできたし、僕はここまでだ」
「ここまで?」
「あとは稲枝さんの気が済むまで歌って、録音すればいいよ。音割れの心配もあるから再生して確認するように。ちなみにフリータイムだから時間はたっぷりある、途中で休憩を入れたらいいよ」
「あの、河瀬さんはその間、どうしているんですか?」
「受付のところでゲームでもしているよ、邪魔になるからね。それとも、ここに残って聴いてほしいの?」
 咲子は首を激しく横に振った。一人でも歌えるかどうか不安なのに、人前でなんて歌えるわけがない。咲子のリアクションが予想通りだったのか、彰人は軽く笑った。
「それじゃ、健闘を祈るよ」
 彰人は出て行った。一人残された咲子は、ひとまずマイクのスイッチを入れた。
「あー、あー」
 部屋に響く自分の声。やはり入社式のときに使ったマイクとの違いがわからない。
何度か声を出して、次はテーブルの上にあるカラオケのリモコンを手に持った。紐で繋がっているペンで画面に触れるとメニューが表示され、その中の『曲名で検索』を押そうとしたが、気になったことがあったので『ジャンル』を押した。すると『メドレー』、『デュエット』、『映像コンテンツ』などジャンル別に分けられたタッチパネルの中にそれは並んでいた。
(すごい、本当にあった……!)
 咲子が驚いたのは『ボーカルシンセサイザー』というタッチパネル。動画を見るようになってボーカルシンセサイザーに興味が湧き、ネットで検索しているとカラオケでは一つのジャンルになっていることを知った。そのときは半信半疑であったが、この通り事実だった。
『ボーカルシンセサイザー』を選択し、曲数を確認すると二千曲を超えていた。五十音順に並んでいるリストは知らない曲ばかりだったが、聴いたことのある曲もちらほらと入っていた。
(わ、あの曲がある! あれも、これも……すごい! こんな曲まで入ってる!)
 普段はネット上で聴いている曲がカラオケに配信されていることに感動し、咲子は画面をペンで連打した。
(……でも、河瀬さんの曲はないみたい)
 作曲者のリストで『シ』行を調べたがショウジンの名前はなかった。残念ではあったが今日の目的はそれではない。曲名のリストで『赤ずきんの幕間劇』を選び、カラオケ機種に送信すると有名アーティストのライブ映像が流れていた画面は暗転し、画面にタイトルが表示されて聴き慣れた前奏が始まった。
 マイクをぎゅっと握り、大きく深呼吸をした。レコーダーの録音ボタンは押していない。まずは一度、練習で歌うつもりだった。
 前奏の終わりが近づく。口元にマイクを寄せ、始まる瞬間を待つ。出だしのタイミングも完璧に頭の中に入っている。緊張はしているが、まだ平常な範囲だ。
 いよいよだ。心の中でカウントダウンが始まっていた。
3、2、1――
「……あ」
 始まった。けれど、咲子の口は開かなかった。曲を聴いているときは鼻歌、気分が乗り始めたら小声で、もちろん最初から最後まで歌えていた。それなのに今、声が出ない。咲子は曲を停止させ、もう一度選んだが結果は同じだった。ボーカルのいない曲はただ騒がしく、部屋の中に響いた。
 頭の中ではちゃんと歌えている。伴奏に合わせて歌詞がするすると思い出せる、動画だって目に浮かぶぐらいだ。この日のために世界観を完成させた、あとは表現するだけなのにそれができない。
 咲子は原因がわかっていた。マイクをテーブルに置き、荷物を手に持たず部屋から飛び出した。そしてカラオケの受付に向かい、ソファーに座って携帯ゲーム機で遊ぶ彰人の前で止まった。
「河瀬さん……」
「ああごめん、音ゲーやっててさ、ノーミスでいいところだからちょっと待ってもらってもいい? これまで十時間ぐらい粘って、ようやくチャンスが巡ってきたよ!」
 と言う彰人だが、ちらりと見た咲子の表情はよほど思いつめたものだったのだろう。ゲームを中断し、自分が座る隣をぽんぽんと叩くと咲子は静かにそこへ座った。
「機材のトラブルでもあった?」
「いえ、違うんです……その……」
「ゆっくりでいいから言ってごらん」
「……怖いんです」
「怖い?」
 咲子は黙ったまま、こくりと頷いた。
「何度も聴いて、曲のイメージや世界観はしっかりと思い描くことはできています。昨日まではちゃんと歌えていました。ですが、いざ本番になって……それを表現できる自信がないんです。私、この曲が好きなんです、私なんかが歌っていいんでしょうか……他の人みたいに歌えるんでしょうか……?」
今までは本を読むことで世界観を構築するだけ、それは自分だけが楽しむことができれば良かった。だが今回は歌うことで世界観を表現し、聴き手に伝えなければならない。咲子は歌うことに不慣れすぎた。もし表現できないとわかっていれば他の曲に選び直すという選択もあった。いざ歌う瞬間になって、不安と自信のなさが息を吹き返したのだ。
「なるほど……本当にあの曲が好きなんだね」
 彰人は携帯ゲーム機を置き、じっと咲子のことを見つめた。
「稲枝さんは自分の世界観をちゃんと持っている。怖いと思うのは生半可な気持ちじゃないから、好きで好きでたまらないからだ。でも、自分なんかが歌うなんて申し訳ない、なんて卑下しているのなら、逆に訊きたい。稲枝さんは、この曲を歌いたい? 歌いたくない?」
「私は……」
「できる、できないじゃない。したいか、したくないか、だ」
「私は……歌いたい。歌いたいです」
 小さな声だったが強い意志が込められていた。知らないうちに握り締めていた両手がじんじんと痺れていることに、咲子は気づいた。
 彰人はそんな咲子の様子に、安心したように口元を緩めていた。
「なら、歌えばいいと思う。たしかに歌の技術や知識がないから表現できるかどうかの保証はない。だったら、ベタな言葉だけどできる限りのベストを尽くすしかない、何度も歌って納得するまでね。それに録音したデータをどうしようと、稲枝さんの自由だよ」
「……残さなくてもいい、ということですか?」
「そりゃあそうさ。僕がお願いしている立場なんだ、稲枝さんの意思が第一優先さ。収録が来週に伸びたって、断られたって……僕はそれに従う」
「そんな、私は……」
「でも、これだけは覚えておいてほしい。稲枝さんはボーカルシンセサイザーでも他の人でもない、真似なんてしたらだめだ。僕は稲枝さんが歌う『赤ずきんの幕間劇』が聴きたい」
(私の……歌を……)
 咲子はボーカルシンセサイザーや他の人のように歌うべきだと思っていた。しかし彰人の言葉が咲子を救った。歌えなくても構わない、自分が思うままに歌えばいい、そして自分の歌を聴きたいと言ってくれる人がいる、必要とされている。
「私、戻ります。待っていてください」
 咲子に迷いはなかった。歌を、歌う。今やるべきことは、その一つだけだった。
「うん、がんばって」
 部屋に戻る咲子の後ろ姿を見送って彰人はゲームを再開したが、完全に集中力が切れていたのであっけなくミスをしてしまい、がっくりと肩を落としてゲームをリセットした。けれどその表情に悔しさはなく、どこか満足しているようだった。

 部屋に戻った咲子はリモコンを手にして『赤ずきんの幕間劇』を選んだ。そしてレコーダーの録音ボタンを押し、今度はソファーに座らず立ったまま前奏を待った。よほど肩に力が入っていたのだろう、両肩がひどい肩こりのようにじんじんと痛かった。
 前奏が始まると同時に目を閉じ、築き上げた世界観を巡らせた。誘われたオオカミに誘った赤ずきん。毎日一人で帰っていたオオカミは何を思い、赤ずきんは何を思ってオオカミに声をかけたのか。そして、オオカミは赤ずきんと再び手を繋ぐことができるのか。
 咲子の結論としては、オオカミが赤ずきんに誘われることは二度とない。これは以前彰人と話していたときと変わらない。しかし咲子は、そこから別のことを考えた。
 どうすればオオカミを孤独から救うことができるのか。一つの手段としては、赤ずきんがまたオオカミを誘えばいい。これは考え得る限り最高のハッピーエンドかもしれなかったが、どうしてもそれを想像することができなかった。
だから咲子は『オオカミにとって赤ずきんとの出来事は最高の思い出で、それをいつまでも抱き続ける』という結末を考えた。
 一度誰かの温もりを知ったオオカミは、より寂しい気持ちを味わうことになるだろう。赤ずきんにとってはたった一晩のお遊びでも、オオカミには一生の思い出になるかもしれない。そんなオオカミにこれから先、赤ずきんに誘われる可能性が皆無、というのは胸が裂けそうなほどに苦しかった。これ以上の孤独を感じないようにするために、赤ずきんとの思い出を強烈に、そして暖かい記憶としてオオカミに残す――咲子はそんなイメージを歌に乗せようとしていた。
 ハッピーエンドとはとても言えない。それは自分でもわかっていた。きっと人によっては嫌悪感を示すだろう。けれどこれが咲子の世界観だった。
 前奏はまもなく終わる、気づけばマイクが口元にあった。
 カウントダウンが始まらない。けれど、自然に口が開いた。
――曲が始まった。
(あっ……)
 咲子は声を出すことができた。意識をしていないのに口が勝手に動き、思う通りに歌うことができている。
 歌詞が、伴奏が、声が、世界観が、そして自分がすべて繋がった。
(……もう大丈夫)

       

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Neetsha