Neetel Inside 文芸新都
表紙

ねむりひめがさめるまで
【三】若苗萌黄の行方

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   一

 私は自分の事を、丁度いいポジションにいると思っている。
 主役を引き立てながら、特に誰かと敵対もせず、人の好意を汲み取れる立ち位置。それは今後も一生続くだろう。
 だって主役になんてなったら対立があるし、一つの選択で周囲との関係が悪くなる可能性だってある。そんなもの、背負って何になるというのだ。
 高校に入ってから顕著になった格差、そして形成されてゆくヒエラルキーの面倒臭さから、いかに苦しまず、けれど楽な立ち位置に居座れるかを考えた末にたどり着いたのは雑草になることだった。
 若苗萌黄(わかなえ もえぎ)なんていう綺麗な名前を受けて産まれてきたけど、そんな大層な存在にはなりたくない。大きくて名の知れた花の傍に咲いて、目立たないけれどそっと生き永らえる。それくらいでいい。
 そんな残念な―自覚はしっかりと持っている。でなければただの馬鹿でしか無い―思想の下、高校生活をそれなりの位置から楽しんでいたわけだが、少しだけそんな思想に陰りが生まれた出来事があった。
 数日前にあった教師の奥さんの葬式でのことだ。
 真崎葵は雪浪高校で国語の教師として赴任し、幾つかのクラスを受け持っていた。姿勢はわりと良いし、教え方も上手い。服装はグレーとか深い緑とか、大人しい色を好む人だった。
 ただ、極度に生徒と話したがらない、関係を縮めたがらない人で、授業や授業に対する質問を除けば、会話した事のある生徒はまるでいない。いたとしても天気がいいですねとかそのくらい。
 だから葬式も私はただ授業を受けていたという理由での参加だった。他の生徒も同じようなものだろう。多分真崎先生もそういうのを好まないと思うし、別に出る必要は無いよと言ってみたのだけれど、変なところで生真面目な両親は仕度を始め、私を引きずるようなかたちで式場まで連れて行った。
 行列は、会場からニ、三件ほど先を行ったところまであった。
 この式の意味も理解しているかどうか分からない幼児から、時間をかけて刻み込まれた皺で顔を一杯にした老人まで、並んでいる者は多種多様だ。
 母に肩を抱かれ、私は従うがままに最後尾に並ぶ。看板を持った男性は、確か真崎先生に頻繁に声をかけていた男子生徒だ。悔しそうな顔をして俯いたまま、それでも案内だけはしっかりとこなしていく。あれだけ慕っていた教師の奥さんが死んだんだから悲しむのは当たり前だろう。もしかしたら実際に会ったことがあるのかもしれない。しかし、あの真崎先生が奥さんを生徒に紹介なんてするだろうか。
 簡単に数えただけで百前後。式場から出て行ったり、途中ですれ違った喪服姿の集団のことを考えると、もっと多くがこの式に訪れているようだ。
 目立つのを嫌う人物だと思っていただけに、妻の葬式をここまでオープンにする選択をしたことには正直驚いた。彼は、少なくとも私と同じ「雑草側」にいたいと考えていると思っていたから。
 彼は今、主役の場に立っている。妻と共に誰もが憧れる「悲劇のスター」なんて舞台に。その味はどうだろう。
 多分私は今、とても最低な思考を抱いている。それは私も分かっている。けれど私は所詮雑草だ。この列の中の一人であり、ただ焼香を済ませたら帰るだけの女子生徒。私が何を考えようが何かのきっかけになることはない。
 だから、周囲の空気を目一杯吸い込んで暗い顔を作る両親達を横目に、私はただぼうっと、自分達の番を待っていた。冥福を祈る気持ちも多少なりあるが、今の私が見たいのは表情を崩して泣く真崎先生の姿であって、それさえ見ることができれば十分とさえ思っていた。我ながら不謹慎で、性格の悪い女だと思う。
 だが、私が並んでいる間に予想した彼の姿は、どれも崩れて散った。
 会場内に入って数十分。漸く焼香の順番が回ってきた私は暫く正面をじっと見つめる。
 大きな飾り付けの下に真崎碧さんの眠る棺があって、幾つもの色鮮やかな花が添えられ、大きな写真が飾られている。とても綺麗な人だったんだな、と写真に対して簡単な、けれど純粋な感想を抱いた。目元がしっかりして、鼻筋の通った色白の女性で、初めて見た私も思わず若い死を残念に思ったほどだ。
 次にお辞儀も兼ねて親族側に目を向けた時、私はひどく驚いた。
 真崎先生は、穏やかな顔をしていた。
 悲しんでいるようにも、微笑んでいるようにも思える、しかし結局のところ無表情に近いリラックスした状態の結果なのかもしれない。
 いずれにせよ、妻を亡くした式で見せるような夫の顔ではなかった。
 私は暫く動揺していたが、後ろからの催促と、不思議そうに私を見る真崎先生の視線に、慌ててお辞儀と焼香を済ませ、逃げるように式場を出た。

 焼香を終えると両親はこのまま食事でも取って帰宅しようと提案をし、周辺の飲食店を探し始めた。私はそんな二人に向けて見えないように溜息を吐いた後、遠くなった式場を眺めてみた。
 あの場所で、真崎先生はまだあの表情を浮かべているのだろうか。
 少なくとも、彼は悲劇のスターにはなっていなかった。主役の座を手に入れながら、しかし彼にそれに見向きもしない。
 多分彼は先もずっとあのままな気がする。もしかしたら涙も流さなかったかもしれない。
 私たちは適当なレストランに入り、何席かに上を脱いだ白シャツの団体を見つけて、ああ、こういうものなんだと思わず自嘲気味な笑いを漏らした。
「あの国語の教師さん、立派な人ね」
 注文した後で母はそんなことを口にすると頬杖をつき、どこか羨望の色をした目をぱちぱちと瞬かせた。
「確かに、本来なら一番悲しみたいところで、あれだけ耐えて……」
 父は頷いてから濡れタオルの包装を破り捨てた。
 二人には、そう見えていたらしい。
 多分人によって印象はまるで違うのだろう。全てを悟ったような笑みに見えた人もいれば、両親のように堪えているように、もしくは悲しみが今にも溢れそうだと考えた人もいたのかもしれない。
 流石に二人の意見に賛同は出来なかったため、言葉を濁すようにドリンクバーから持ってきたオレンジ・ジュースをストローで啜りながら窓の外を眺める。
 大通りを走り抜けていく車のヘッドライトに照らされて暗闇に潜む喪服の集団が幾つも見えた。
「聞いたけど、今回の式、奥さんの言伝らしいなあ」
 どこからそんな話を聞いたのか、父は突然そう切り出した。
「面識は無くても、参列したいと思った人は全て通して欲しいと言われたらしい」
「それを、誰から聞いたの?」
「ああ、手洗いを借りた時に声を掛けてきた人がいてな。流石に面識も無いのに良いんでしょうかねえ、なんて聞いたらそう言っていたよ。親族から聞いた人がまたそれを周囲に話して……ってのを繰り返した結果、俺の下にもやってきたってだけさ」
「先生の奥さんは、なんでそんな式を望んだんだろう」
 訪ねてみたが、父も母も肩を竦めただけだった。
 そうこうしているうちに注文した料理が届いて、話題も打ち切られて私達は黙り込んだ。
 カルボナーラをフォークで巻き取りながら、もう一度真崎先生の表情を思い出す。意図せずに舞台上に立ってしまった彼はあの時、何を思っていたのだろう。
 もし似たような出来事に遭遇したとして、私はあんな顔ができるだろうか。突然主役の座に持ち上げられて、舞い上がらずにいられるだろうか。
 そんな経験が無いからこそ出来る妄想だ。
 私は巻きつけたカルボナーラをぱくり、と口にすると咀嚼して飲み込んだ。喉に絡みつくような甘いクリームがなんだか気持ち悪くてオレンジ・ジュースでその残った甘さを洗い流す。少しだけ、気分が楽になった気がした。

 それから、私は少しだけ彼の存在に興味をもつように思えた。あの時の表情の真意が知りたかった。
 でも真崎先生は長い休暇を取ってしまい、結果として真意を汲み取るチャンスに巡りあう事は無いまま時間だけが過ぎていった。父も母もきっとあの葬式の事はもう忘れている。真崎碧さんのことだって頭の片隅にあるかないかくらいだろう。
 あんなに美しい顔でも死んでしまったらすぐに忘れられてしまう、存在を覚えていてもらえないと思うと、少し寂しくなった。
 式以降も私は雑草という立ち位置に居座り続けた。何か変化に期待していたわけでも無かったし、私もなんだかんだで結局父や母のように忘れていつもどおりになると思っていた。私も二人と同じで真崎碧さんと面識が無いし、真崎先生と懇意にしているわけでは無いのだから。

 たが真崎先生の事が忘れられず、もやもやしたまま日々は過ぎていった。あの表情の真意が知りたくて知りたくて堪らなかった。 
 そんな事を考えながら特に面白くもつまらなくもない高校生活を送っていると、突然一人の女子生徒に声をかけられた。
「ねえ、貴方、ちょっとだけ無理してそう」
 彼女は、確かに私に向けてそう言った。それも周りの中で付き合いの一番あるグループに混ざっていた時に。
 教室の隅で六つ席をくっつけて昼食を取りながら談笑する。それが私の学校での当たり前であり、そこそこな立ち位置を手に入れる点では抑えておくべきワンポイントだった。好きな異性の話や部活での出来事、試験内容からテレビの内容まで、きっと昼食が終わったら記憶から消し飛ぶ会話に紛れ込むだけで、寂しくもなくかといって鬱陶しくもない「丁度良さ」が手に入る。
 突然の来訪者が入れたメスは、危うく私の丁度良さを、悪戯にも切り落とそうとしてきたのだ。幸い穏やかな面子の多いグループに属していた事で大した問題にもならなかった。が、私が不在の時に少なくともそれなりの疑問は生まれるだろう。波紋がたった瞬間に、彼女達の中で土埃が舞う。そうして根底から掘り起こされた不安は、濁った水のようになる。
 迷惑な来訪者は変なこと言ってごめんなさい、と上品な口ぶりで言うと、長い黒髪を右手で撫で付け、私に一度笑いかけてから去っていった。
 私はその時間一杯をこのグループに費やして表面上だけでも昼食前の空気に引き戻すことに成功すると、少し休みたくなって次の授業を抜けだした。
「あら、いつも元気な子が珍しい」
 一階の保健室にたどり着くと、担当の茅野茜先生は目を丸くしながら私を迎えた。確かに病弱なイメージは私にないだろうけど、わりと元気というわけでもない。
「ちょっとだけ気分が悪くなっちゃって……。少しのあいだベッドを借りても良いですか?」
「ええ、今のところ利用者も居ないし、男連れ込んでイチャつきたいとか授業をサボりたいとかでなければね」
「そんなつもりないです。本当にちょっと気分が」
 分かってる。茅野先生はよくできたウインクを私に投げるとお大事にと言ってカーテンを閉めてくれた。奥に彼女の存在を感じながら、それでも多少気が楽になったようで、身体中が一気に弛緩していく。全身から熱でも放出するみたいにすうっと疲れが抜け、ベッドに仰向けに倒れこむと更に疲れが溶けて心地良さに変わった。
 あの子、どこのクラスの子だろう。今度会ったら文句の一つでも言ってやりたい。
 それにしても無理をしてる、か。
 否定をしたけれど、現にこうして一人ベッドに横になった私は随分とリラックスできている。
 プリーツが乱れそうだな、とかブラウスがしわだらけ、髪なんて四方八方に飛ぶかもしれないと不安を抱きながらも、とにかく横になりたくて私は靴下を脱ぎ捨てて布団を被った。シーツの滑らかで冷たい感触がとても心地よい。私は暫く足を動かしてシーツの感触を楽しみ、やがて良い感じに眠気がやってくると枕に頭を預け、おやすみなさいと心の中で唱えてから瞼を閉じた。

「良い夢、見れているかしら?」
 その声があまりにも近かったからだろうか、私はハッとして目を開くと上体を起こして声のした方に目を向けた。
 傍の丸椅子に、あの時の女子が座っていた。上品に両足を揃え、手は膝に置いたまま動かさない。全てに於いてよくできた姿勢に無理は見られなくて、むしろそうしているのが自然であるように見えた。黒髪はすとんと下に流れていて、制服越しになだらかな曲線を描く胸に毛先が掛かっている。あの時は一瞬だったから分からなかったけれど、随分と長い髪だ。私があと一年くらいかけて伸ばさないと多分追いつけないくらい長い。
 彼女は私の反応を見て笑みを浮かべる。よく見ると目元に泣き黒子があって、それが彼女の魅力を高めているように見えた。妖艶さを孕むその瞳は、思わず吸い込まれそうなほどくっきりとしていて、私は思わず視線を逸らしてしまう。
「今、何時ですか?」
「今は、四時ね」
 彼女はブラウスの袖をずらすと手首に巻いたシルバーとピンクの可愛らしい腕時計を見て時刻を告げる。大分眠ってしまったようだけど、なんだか眠った気がしない。少し目を閉じただけのつもりだったのに。
「夢は、見られた?」
 彼女は再びそう問いかけてきた。私が首を横に振ると、良かったと小さく呟いてふふ、笑みをこぼした。
「深い眠りに就いた時ってね、夢を見ないそうよ。やっぱりとても疲れていたのね。それだけ深く眠ってしまうってことは」
「……確かに、少しだるかったのは確かだけど、別に無理をしていたつもりは全くないし、疲れてるなんて勝手に決めないで」
 そうはっきりと彼女に告げると、あら、と少し驚いた表情と共に彼女は右手で口を隠す。ぷっくりした血色の良い唇がちらり、と指の間から見えた。
「ごめんなさい」
「貴方の名前は?」
「藤紅淡音(ふじべに あわね)。貴方は若苗萌黄さん、であってる?」
 彼女、淡音はそう告げると目を細める。
「あって、ます」
「良かった。じゃあよろしくね。若苗さん」
「よろしくって……」
「私、前から貴方の事気になってたの」
「私を?」
 淡音は頷く。
「でも、なんで私を……?」
「若苗さん、周囲に合わせるのがとても上手いじゃない。どんな時でも好意的な返事で、敵を作らないよう、脇役に徹してる。一番美味しいポジションに居座る方法を知っている」
 淡音の言葉に、私はぎゅっと唇を噛み締める。
「私、あんまり人付き合いが得意じゃないの。喋り方とか、目元の感じとかがあまり気に入られないらしくて、少し言葉を交わしても話しにくそうな顔されておしまい。私の一番の欠点」
 その時なの、と彼女は言うと顔を上げた。血色の良い紅色の唇が光を食んで鮮やかに輝くのが見えた。
 頬を赤く染める彼女に視線を投げかけながら、私はベッドの縁に足を投げ出すと自分の髪を軽く梳かす。
 要するに、人付き合いの苦手な彼女が、ある一定の距離を保って生活する私に憧れてしまった、と……。
 別に羨望の眼差しで見られるような生き方でも無いし、むしろ私の在り方を知られたら非難されると思い続けていただけに、彼女の憧れる私のある意味「卑怯」とも取れる人付き合いのやり方に賛同されるのは意外だった。
「私に興味を? 本当に?」
「ええ、本当に素敵だと思う」
 淡音はそう言うとカーテンを引く。
 窓から差し込む日差しをベッドのシーツが受け止め、跳ね返す。眩いその反射光に私は思わず目を細めた。
 淡音は目を細める私の前に駆け出すと、ステップを踏むみたいにベッドから窓際まで向かい、留め具を外して窓を横に滑らせた。
――からから。
 音を立てて開いた窓から途端に、冷たい風が室内に流れこんでいく。
 カーテンのはためく音と共に、彼女の長い黒髪が風で躍った。
 乱れた髪が宙に舞う。
 その中で淡音は目を細めて笑った。逆光で暗く落ち込んだ姿の中で、明るく笑った。
 淡音は窓の縁に飛び乗ると、風に舞う黒髪を手で抑え、項から胸元までその手をゆっくりと撫で下ろす。そのまま窓の外にふらりと落ちていってしまいそうだ。なんとなく、彼女なら本当にやってしまいそうな気がした。
「ねえ若苗さん、私とお友達になってもらえないかしら」
 縁に座ったまま淡音はそう私に微笑みかける。
「友達……?」
 ええ、と彼女は頷いた。
「貴方になら心を許せそうなの。私という人間を上手く覗きこんで、一番満たされたい部分に触れてくれる。そんな気がする」
「そんな、そこまでできた人間じゃないわ」
 淡音は窓を飛び降りてベッドまでやってくると、座り込む私の顔を見上げるようかたちで下から覗き込む。長い睫毛と、澄んだ瞳。そして泣き黒子が煙草一本分もない距離にあった。
「貴方、きっととても綺麗な色をしてる」
 彼女は耳元に顔を寄せるとそう囁いた。
 藤紅淡音は、奇妙な人物だ。でも、何故だろう。こんなにもズケズケと私に入り込もうとしてくるのに、不思議と悪い気はしなかった。
「私で、いいの?」
 私は悩んだ末に、絞るような小さな声で返事を返した。
 たった一言が、酷く重かった。こんなに言葉は重いものだったろうか。今まで感じた事のない感覚に私は混乱していた。
「良かった」
 そう言った淡音の笑顔は、今まで見たどんな顔よりも、輝いていて、綺麗に見えた。
 これが、私と淡音の出会いだった。酷く唐突で、気味の悪い、けれど今までのどんな時よりも自分を必要とされた出来事だった。

       

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