Neetel Inside 文芸新都
表紙

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   ニ

 薄暗い靄のかかった視界の先に、少女の顔があった。
 意識と体中の感覚がはっきりしてくる。べっとりと張り付くような気分の悪さに呻きながら、私は額に手を当てると、私を覗きこむ少女に目を向けた。
 一糸まとわぬ姿のままぺたりと座る少女は水浸しで、髪もぺったりと額や肩、首筋に張り付いている。だが少女は自らが濡れていることなど特に気にする様子もなく、私、そして次に部屋中を見回すと不思議そうに首を傾げた。
 私は起き上がると割れるように痛む頭に苦しみながら記憶を辿ってみる。
 確か、ノイズみたいな耳障りな音が頭の中で響いて、苦しみのたうちまわっていた時に、水槽が倒れてきて、それから先の記憶が無い。まずこの少女はどこから現れたのか。記憶を失っている間にこの部屋で何が起こったというのか。
 それに、と私は頭や胸、腕から腰までを順繰りに触れていく。
 外傷は見当たらない。隣には大型のケースが、罅一つついていない状態で転がっていた。もしこんな硝子の塊を真っ向から受けたとしたなら、下手をすれば生死に関わる怪我を負っていた可能性だってあり得なくはない。
 さて、と私は座り込んだままの少女に目を向ける。
 前髪から垂れた雫が彼女の肌にぽつん、ぽつんと跳ねた。まだ育ちきっていない身体を暫く眺めてから溜息を一つ吐き、シャツを脱ぐと彼女の頭にすっぽりと被せた。
 少女はぶかぶかのシャツに包まれた状態でまた周囲を見回し、それから最後に私に目を向けた。
「君は、一体どこからやってきたんだい」
 問いかけてみるが、返答は無い。だんまりか、と私はもう一度ため息を吐くと、まずは片付けをしなくてはと ぼんやりと座り込んだままの少女を横目に私は立ち上がった。
 ふらつく身体を引きずりながら、傍に転がる空の水槽を戻し、水と一緒に転がり出た藻やポンプ達を適当に入れ、最後にタオルを持ってきて床の水を拭き取った。
 一通り片付けの作業を終えると今度はシャツ姿のまま呆けている少女を見て、まずは着替えだと寝室の箪笥から妻の寝間着を一式引っ張りだすと少女に着せていく。まるで人形遊びみたいだと、されるがままの少女を見ながら私は思った。
 あまりにも出来事が常識の外側だと、身体は冷静に動くようだ。いや、むしろそうでもしないとこの状況に耐え切れない、言わば思考から逃避しているようなものなのかもしれない。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
 着せられた服をぺたぺたと小さな手で触っている少女の前にしゃがみ込み、私は再び問いかけた。
 少女は寝間着から視線を上げると、漸く私と目を合わせた。お名前は、と繰り返すようにもう一度声を掛けると、少女は首を傾げた。
「なんてよびたい?」
「よびたい?」
 少女は頷く。
「なんてよびたい?」
 全くもって理解できない返答だ。腕を組んだまま暫く彼女の言葉の真意を考えてみたがどうにも正解だと思えるものは浮かばない。
 こんな時に妻がいたなら、簡単に少女から事情を聞き出せたのかもしれない。どうにも小さな子どもは苦手だ。年頃の少年少女ですら手を焼いているのに更に幼い少女なんて論外だ。
「これ、だれ」
 気がつくと少女は部屋の隅に置かれた仏壇を覗き込んでいた。慌てて少女を抱き上げてその場から引き離し、向かいのソファに座らせた。だが少女は仏壇に興味を示しているようで、写真を指さして「だれ」と私に問い掛ける。
 写真の彼女は、変わらず血色が良くて、穏やかな顔をしていた。
 確かあれは婚約して間もなく行った旅行先で撮った写真だ。ワンピース姿で歩く彼女に声を掛けて、振り向いたところを撮った。恥ずかしそうに、けれど嬉そうに微笑んでくれた彼女のことを、今でもはっきりと思い出せる。
 そう、今となっては思い出すことでしか見ることのできない笑顔。
「だれ」
 尋ね続ける少女に、私は「碧」とだけ書いたメモの切れ端を手渡した。なんとなく、やられっぱなしではいたくないと思ったのだ。こんな幼い子供相手に大人げないかもしれないが、振り回され続けるのも性に合わない。
「みどり?」
「そうとも読めるね」
 意図した返答と違ったが、幼いながら読めた事に思わず感心した。
 少女は暫くメモを見つめ、可愛らしくこくりと頷いてみせた。
「じゃあ、それ」
「それ?」
「みどりでいい」
「みどりで、いい?」
「わたしは、きょうからみどり」
 まるで理解ができなかった。
「ちゃんとした名前は?」
「みどり」
「そうじゃなくて、パパやママから付けてもらった名前は?」
「みどり」
 まるで言葉が通じない。
 みどりと口にする少女から目を離すとキッチンへ向かう、同じ問いかけを何度繰り返しても不毛だ。
 みどり―一先ずそう呼ぶことにした―は家鴨の子供みたいにぺたぺたと私の後をついてくる。鬱陶しいが、特に何かするわけでも、コミュニケーションを求めてくるわけでもないので放っておく。
 冷蔵庫から卵とマーガリン、マーマレード、ピーナッツクリームの容器を取り出し、傍の棚に置かれたトースターに食パンを二斤放り込む。
 私の事を観察し続けるみどりに「お腹空いてる?」と聞いてみる。少なくとも何か食べたいとは思っているだろう。
「たべる」大方予想通りの答えで少し安心した。
 暖めたフライパンの上に油を引いて、卵を落とした。
 形の良い黄身と白身がフライパンに落ちてじゅうじゅうと小気味よい音を立て始める。塩と胡椒を振り掛けると香ばしさが増した。空腹にはたまらない匂いだ。
「目玉焼きは好きか?」
「めだま?」
 まさか食べたことが無い、と言いはしないだろう思っていたのだが、どうやらそのまさからしい。私は嘆息する。
「卵を焼くと目玉みたいな感じになるから、目玉焼きだ。本当に食べたことないのかい」
 焼きあがった目玉焼きを皿に移し、みどりに見せた。彼女は暫く見つめていたが、やがて私に視線を向けると首を傾げる。
「おいしい?」結局食べたことは無いらしい。
「ああ、半熟くらいが丁度いいんだ」
「あおいもすき?」
 頷くと、じゃあわたしもすき、と幼くてたどたどしい口調でそう言った。
 そういえば、私は彼女に自己紹介をしただろうか。
 少なくとも目が覚めてからは無い筈だ。この家に入ってくる時に―どうやって入ってきたかは未だに理解できないが―表札で見たのかもしれない。だが碧が読めなくて葵が読めるのもおかしい。
 ソファの方へ小走りで駆けて行くみどりを見て、それから残りの卵も焼いて皿に載せると、焼けたトーストと共にテーブルに持っていく。
 なんにせよ、食事を終えてからでいい。もしかしたらこのマンションの住人かもしれないし、親御さんが探しにやってくるかもしれない。ただ裸だったところを見ると、何か重たい事情のある子なのかもしれないが。
 焼けたトーストにマーガリンとマーマレードを塗ってみどりに手渡すと、彼女は不思議そうに眺め、やがて一口だけ齧って咀嚼すると、二口目から勢い良く食べ始め、あっという間に平らげてしまう。
「美味しかった?」
 頷くみどりを見ていると、少しだけ胸の内がじわりと暖まった。妻が入院してから一人で食べる事が日常と化していたから、誰かと食事を共にできることが少し、嬉しかった。
「こっちは?」
「それはピーナッツクリーム」
「きになる」
「もう一枚食べる?」
「たべる」
「そこで少し待ってなさい」
 再び焼いたトーストを持って行くと、みどりはピーナッツクリームを満遍なく塗りたくって食べ始める。こちらはあまり好みの味ではなかったようで、二枚目を平らげた後少し物足りなそうにマーマレードの瓶を見つめていた。もう一枚いるか聞いてみたが、おなかいっぱいと残念そうに首を振っていた。
 食後に珈琲と紅茶を淹れると、みどりは暫く不思議そうに紅茶を眺めていた。乳白色のなめらかな陶器一杯の飴色の液体がきになるらしい。
「紅茶も飲んだことないのかい?」
「ない。でもいいにおい」
 みどりは目を閉じたまま匂いを嗅いでいる。元々珈琲も紅茶も選んでいたのは妻だったからか、彼女が褒められているように思えて気分が良い。
「あおいがのんでるのは?」
 みどりは私のカップを指さす。
「これは珈琲だよ」
 そう言って珈琲を啜る。芳ばしさと共に酸味と苦味が口の中を汚していく。私は顔を顰めながら一息に飲み込むと、深く息を吐き出した。
「どうして?」
 みどりは首を傾げた。何がどうしてなのか分からなくて、私も一緒になって首を傾げる。
「そんなかおしてのむものなの?」
 ああ、と私は彼女の疑問に納得すると、首を横に振る。そういうものではない。紅茶も珈琲も本来なら愉しむ物だ。
 だが、中にはそれらが苦手な人もいる。
「飲んでみるかい?」
 私はカップを手渡した。
 彼女は暫く不思議そうに眺めていたが、恐る恐る匂いを嗅ぎ、珈琲を口にする。無理させてしまったかもしれないと思ったが、みどりの顔からすると、少なくとも彼女には満足な味だったようだ。
「にがい」
 舌をちろりと出して顔を顰めるみどりに、私は声を出して笑ってしまった。
「珈琲だからね」
「でもいいかおりで、あんしんする」
 カップを覗きながらそう呟いた彼女は、もう一口飲むと嬉しそうに目を細めていた。
「あおいはこれ、すきじゃないの?」
 珈琲と私とを交互に見て、彼女は不思議そうに首を傾げる。私は何も言わずカップを彼女の手から取り上げ、残りを一息で飲み干した。
 すっぱくて苦くて、べったりと感触が口の中に残る。まるで泥水みたいだ。
「そうだね、好きじゃない」
「じゃあ、どうして?」
 そう問いかけられると、どうにも返答に困る。妻がいた頃は飲もうとすら思わなかった大嫌いな珈琲を、何故日課にしようと思ったのだろう。不味くて人が飲むようだとも思えないこれを。一体何故。
 自問自答の末に現れたのは、あの時の医者だった。
 妻が死んだ夜。結局泣くことができなかった別れの日。
 あの時もらった珈琲から、日課は始まっている。
 私は持っていたカップをテーブルに置いて、ソファの背もたれに身体を預けると、言った。
「輪郭が分かるんだ」
「りんかく?」
「私がちゃんとここにいる証拠」
「しょうこ?」
 こんな幼い子どもに使うべき言葉ではなかったか。
「真崎葵が、ちゃんとこの場所にいることが、はっきりする気がしてね」
「あおいは、ここにいるよ」
「ああ、いるね」
 理解できないといった風にみどりは首を捻る。
 まあ、分からなくても特に問題はないさと言ってみたが、彼女は納得できないようだった。
 私は立ち上がって再びキッチンに向かう。まだ湯は残っているからもう二杯分くらいなら用意できるだろう。
「みどりは、どっちが飲みたい?」
 途中で途切れた自分の言葉に呆れ、頭を掻きながら私はみどりに尋ねた。当たり前だった景色とまるで同じ光景だったから、少しだけ動揺した。
 私がキッチンで、碧がソファ。淹れるのは必ず僕だった。
『まだお湯は残っているけど、君はどうするかな』
 私は必ずそう聞いた。聞きながら、ティーパック、そして珈琲のドリップパックを用意する。
 返ってくる言葉も、淹れる物ももう分かりきっている。

「珈琲が良い。でも砂糖もミルクも要らないからね」

 顔を上げると私は慌ててキッチンからソファの方に目を向けた。
みどりが座っている。至って正常な景色だ。どこにも異常は無い。
「こーひーがいい」
 幼くて呂律の曖昧な、少女自身の声だ。
「あ、ああ。珈琲ね。砂糖とミルクはいる?」
「いらない」
 それだけ聞くと私はキッチンに顔を引っ込める。
 結局妻のオーダー通りになったそれにお湯を注げば、みどりの要望通りの珈琲は出来上がる。二つのカップにドリップパックを取り付け、湯を注ぐ。
 真っ黒い珈琲を眺めながら、私はさっきの声の事を考える。
 昔を懐かしんでいた結果、幻聴を耳にしてしまったのだろうか。
 ただ、あの雨の日の碧と同じように今しがた聞いた声は生きているように思えてならなかった。尾ヒレが長く、先端の赤い魚を見つけたあの日のように……。
 カップを二つ、テーブルまで運んでから、水槽の方を見る。乱雑な片付けのせいでポンプには水草が絡んでいて、砂利はまるでヘドロみたいに隅に寄せられている。
 あの尾の赤い魚は未だに見つからない。
 ただ、その行方に関して、一つの可能性を考えていた。にわかに信じがたい現象だが、もしそれが真実なら、みどりがここにいる理由も、魚が消えてしまった理由も、説明がついてしまう。
 だが、そんな非現実的な事を信じて良いものだろうか。
「なあ、みどり」
「なに」
 みどりは私に目を向ける。丸くて大きなくりりとした目に私の姿が映り込んでいる。
 言うべきだろうか。
 もし否定されてしまったら。
 珈琲を口にして、べったりとこびりつく不安をグッと飲み込んだ。
「あの水槽に入っていた魚を、知らないかい?」
「さかな?」
「そう、長くて、先端が赤い尾ヒレを持った、青色の魚だ」
 できるだけ特徴を詳しく伝えると、空になった水槽をちらりと見る。みどりは暫く水槽に目を向けた後、再び珈琲を一口飲んでから、口を開く。
「わたしがいたばしょ」
「君が?」
「でも、いたことだけ。ほかはわからない」
「分からない?」
「さかななんてしらない」
 首を横に振ったみどりを見て、私は頭を抱える。
 思考が中身の飛び出たビデオテープみたいに絡まっていく。一体何が正解だ。
「あの水槽にいたのは、一匹の魚だった。だが君はそのたった一匹の泳いでいた水槽にいたと答えた」
 あまりに非現実的な言葉を羅列する自分が滑稽に思えた。
 だが、元を正せば頭の中に響いたノイズから私の周囲は少し変わってしまった。いや、更に遡れば妻の姿を見て、あの魚を拾った時からだろうか。
「なら、泳いでいた魚が君だったとしか考えられない」
「どうして?」
「どうしてと言われても、そこから出てきたと言われたら、私にはそれしか――」
「わたしはみどり。さかなじゃない」
 みどりは眉を顰めると熱い珈琲を再び飲み始める。どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。
 結局まともな返答は無いまま。私と彼女の会話は終わってしまった。


       

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