Neetel Inside 文芸新都
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   四

 みどりがやってきてからの一週間は、本当に楽しかった。それは本当だ。心の底から久々に笑えた気がしたし、誰かの為に振るう料理がそれなりに楽しいことにも気づけた。知らないことを教えているうちに教師として改めて仕事をしたいと考えられるようになった。
 周辺の住民ともみどりは馴染みつつあった。元々興味のあることには貪欲な性格で、人見知りをしない人懐こい子供に見られるようで、特に年配から人気だった。
 買ってきて欲しいものと財布を渡すと真っ直ぐ雪浪通りに行って、頼まれた通りのものも買ってきた。途中できっと誰かに貰ったのだろう、帰ってきたみどりの口元には揚げ物の滓が付いていることがしばしばあった。ありがとうは言えたか、と尋ねると大きく頷いた。私がタオルで口元を拭うと、彼女はどこか嬉しそうに見えた。

 その生活があまりにも充実していたから、私はすっかり忘れてしまっていたのだ。
 彼女についてまるで知らない事を。

 早朝、私は隣で眠るみどりの髪をそっと撫で、起こさないようにと慎重にベッドから這い出て仕度を始める。半月ぶりの出勤が決まったのは、二日前程だった。
 クリーニングに出してそのままだったスーツはビニールやタグが付けっぱなしで、久々に着ると随分窮屈に思えた。
 ネイビーブルーのネクタイを鏡で確認しながら締めて、最後に全身を眺めてみた。幾分かはマシな顔つきになったのではないだろうか。
 キッチンに戻ってトーストを四枚焼き、ナッツクリームとマーガリンの容器と一緒にテーブルに持っていく。
 傍には小さな弁当箱の袋が一つ。この日の為に用意しておいたものだ。決して見栄えの良い出来ではないが、味はそれなりにできたと自負している。
 寝室から眠たそうな目を両手で擦りながらみどりが起きてきた。水色のフリルのついた寝間着をひらひらさせながら、彼女は覚束無い足取りでテーブルまでやってくると、椅子に座る。
「おはよう、みどり」
「おはよう、あおい」
 熱い珈琲を注いだカップを差し出すと、みどりは何よりもまずそれを飲み始める。なんだか年端もいかない子供には似合わない光景だと感じながら、私もブラックを啜る。啜ってから顔を顰め、口直しをするみたいにトーストにナッツクリームを塗って齧り付いた。
「でかけるの?」
「沢山お休みしていたからね」
「がっこう?」
「そう、学校だ」
 頷く私をちらりと見て、みどりはなんだか寂しそうに目を細める。
「わたしは?」
「悪いがお留守番だ。お弁当も用意しておいた」
 頷くが、みどりは無言のまま私をじっと見つめていた。彼女なりのねだり方なのだろうか。なんとなくみどりの思っていることを察した私は、分かったと頷いてトーストを皿に置いた。
「夜は外に食べに行こう。みどりの好きなハンバーグにでもしよう」
「じゃあ、まってる」
 素直に頷くみどりを見て、私はにっこりと笑ってみせた。みどりの表情は大して変わらないが、どこか納得しているように見えた。

 登校する生徒の集団の中で私は浮いて見えた。
 随分と休んでいたこともあってか周囲からの視線もどこか重たく感じる。校門前に教師がびっしり張り付いていていたが、これはどういうことだろう。
 あの誘拐事件の関係だろうか。確かにまだ男子生徒は見つかっていないらしいし、多分それだろう。
 すれ違う生徒達に挨拶を交わしながら校門前にやってくると、その教師達に軽く会釈して通り過ぎた。皆驚いた顔をして私のことを見ていたが、構わずに通り過ぎ、朝の練習に励む校庭の生徒達を横目に教務員用玄関から校舎に足を踏み入れた。
 すっかりくたびれ汚れた室内靴もこれだけ期間が空くと新鮮な気持ちで履けた。右、左と片方づつつま先で床をノックする。まだ暫くはこの一足でどうにかなりそうだ。随分と買い換えるべきと言われていたからいつ買いに行こうかと悩んでいたものだが、
 そう、私がというより妻が買い換えるべきだと散々言っていたのだ。普段から身なりに頓着のない私を不機嫌そうな顔を浮かべて見つめ、そして深い溜息を吐いていた。
 多少なりとも整っていた身なりもなんだかすっかり適当になってしまった。もし見られでもしたら休日にまた服屋に連れて行かれる。
 くくく、と笑ってから、喉元を冷たい塊がすとん、と落ちていく。
 いや、もう居ないんだと、暖かな記憶達から一瞬にして熱が消え失せていった。
「おはようございます」
 挨拶と共に職員室を開くと、室内では数人が電話対応に当たっている。あの事件だろう。
 この学校の生徒では無いが、姉がいるのなら嗅ぎ付けてやってくる者はいる。恐らく行方不明から今日までずっとこの調子なのだろう。憂鬱そうな顔で対応を行なう教員がなんだか哀れに思えてならない。
「すまないね、復帰早々慌ただしい姿を見せてしまって」
 自分の席に座ったところで校長がやってきて、私にそう言った。
「いえ、むしろあれだけ長く休んでしまって申し訳ないくらいです」
「突然のことだったからなあ、うまく踏切りが付かないのも仕様がないだろう」
「それより……、これはどうしましたか?」
 敢えて私は一から尋ねてみた。校長はああ、とばつの悪い顔をして周囲を見回し、深い溜息を一つ吐き出す。
「一人の男子高校生の失踪事件は、見ましたか?」
「ニュースで見た程度なのであまり詳しくは……」
「我が校に姉がいるからか、飛び火するようにこちらにも次から次へと電話がやってくる。酷い時は一目見て分かる偽物の名刺を手に乗り込んでくることすら、ね」
 しかしそれも稀のようで、実際にこの学校の生徒が消えなくて良かったというのが言葉の裏側に透けて見えた。
「咲村朱色さんですか」
「知っているのかい?」
 首を横に振った。あの電話の事を特に切りだす必要は無いように思えたし、声と声だけでは恐らく、知っているとは言えないだろう。
「彼女は登校しているのですか?」
「父親の車に乗って登校しているよ。ただ少し不安定で保健室を利用することが多くてね、茅野君が親身になって世話をしてくれているよ。つい最近やってきたばかりの彼女に全てを任せるのはなんだか申し訳ない気もするが」
 そう言いながらも厄介事をうまく押し付けることが出来たという言葉が彼の逸らされた目からはそれとなく受け取ることができた。
 茅野茜さんとは顔を簡単に合わせた程度の仲で詳細は分からないが、随分と生徒の相談を親身に聞く女性で生徒からの人気は厚いらしい。一つの場所に留まるのを嫌って非常勤という形で日本中を転々としているらしく、私もそれ以上の事は知らないが、とにかくこちらとしてはタイミングが良かったと考えるべきなのだろう。
「登下校の見守りの対応は?」
 私がそう問いかけると彼は少しだけ目を細めてから首を横に振る。
「幸い駅からとても近い事もあってか、そういった訴えは特に来なくてね。私としては慌てず普段通りにだね――」
 要するに面倒でならない。彼の長い言葉を聞き流しながら私は職員室の隅で電話対応に追われる数名を見た。どれもが朱色との接触に対するものなのだろう。「本校の生徒に問題は無い」と強い口調で断る声が遠くからでも聞こえた。大分苛立っているのが分かる声だ。
「いずれにせよここ数日職務を離れていた真崎先生は、本来の職務に集中してください」
 私は軽く頷いてから自分の席に座った。古くなった日付の資料の横に、私が休んでいた期間が詳細に記述されたプリントが纏められていた。恐らく引き継ぎをより簡潔にしたかったのだろう。
 ホームルームのチャイムを聞きながら、ふと私は家に残してきてしまったみどりの顔を思い浮かべた。一週間傍にいて、少しは彼女について知ることが出来た気はするが、それでもまだあの子については穴だらけだ。今も一人家に残されてどんなことを感じているのか分からない。酷く寂しがってはいないだろうか。
 いや、それは無いか。普段から一人でそこら中を駆け回っているくらいだ。一人で特に問題なく過ごしているだろう。
 尾ヒレの赤い魚の代わりに水槽に入れた観賞魚も随分気に入っていたみたいだ。
 帰りにあの喫茶店でハンバーグでも食べさせてやればそれだけで十分に満足してくれるだろう。
 それからふと、咲村朱色の言葉を引き継ぎ内容の書かれたプリントに走り書きしてみる。

「泣けましたか?」

 あの時彼女が躊躇いがちに口にした言葉。その意図を未だに私は理解しきれずにいる。あの時も考えた。非情だと思われるのか、弟の失踪と重ねて共感されるのか。声だけの咲村朱色だけでは全く判断の付かない疑問だ。
 会ってみるべきだろうか。いや、しかし会って何を言えば良い。今更「泣けなかった」と伝えて、彼女は納得するのだろうか。
「木村さん、ちょっと良いかな」
 私は声をかける。荷物をまとめて丁度授業に向かうところだったようだったが、彼は柔和な笑みで私のかけた声に応えてくれた。
「君の担当教室に、咲村朱色さん、いなかったかな」
「ああ、いますよ」
「もし教室で会ったら、私を尋ねるように言っては貰えないだろうか」
 そう頼むと、彼は二つ返事で了承してくれた。
「こんなことを言うのは良くないのかもしれないですが……」
 木村は顔を伏せて小さな声で呟く。軽快ではつらつとした声で喋る彼にしては珍しいトーンだ。
「咲村さん、大分参ってるみたいだから、できたら真崎先生が力になってあげてください。その……」
 ああ、と私は大きく頷く。
「境遇としては似たようなものではある、か」
「こんなこと言うのは失礼だとわかってはいるのですが」
 彼なりに生徒を心配し、思考を巡らせた上でのものなのだろう。私は彼の肩を軽く叩いてから頷くと、職員室を先に出た。
 できれば、この先も彼には生徒を大事に思ってほしいものだ。いつか薄れて、まるで部品を組み立てるみたいに作業的になると、もう抱けなくなってしまうから。
 果たして私は咲村朱色の力になれるだろうか。だが別に探偵ではないし、生徒に寄り添えるような気さくさや包容力も無い。
 あるとすれば、大切な人を無くしたという共感だけだ。果たしてそれだけで彼女は癒されるだろうか。救われるだろうか。
 なんにせよ、一つだけはっきりしている事がある。
 廊下をぺたりぺたりとゆっくり歩きながら、ふと私は振り返って遠くなった職員室を見つめる。会報やスケジュールプリントで埋め尽くされた掲示板に、すっかり古びたプレートが一つ。
 暫く眺めてから、私は授業の担当教室へ歩き出す。
 彼女はまだ可能性を信じられる側にいる。手を伸ばせば届くかもしれない。
 戻れない私とは、違うのだ。




       

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