三


 雪浪高校から自宅まで然程遠いわけではない。スクール・ゾーンとして指定された道を通って大通りに出て、バスに乗って五つほど先を行けば自宅だ。朝方は父に送ってもらえたお陰で随分と楽が出来た。保健室を出て電話をした際も迎えに行こうと提案されたが、私は断った。
 少しだけ、一人の時間が欲しかった。
 校門を出て、私は人通りの少なくなった道を歩く。等間隔に設置された街灯、すっかり錆が浮いて、いつだか誰かが起こした事故で根本の辺りがひん曲がってしまっているカーブ・ミラー、タイヤの跡がくっきり残る「止まれ」の道路表記。どれもが孤独さを掻き立て、じわりと心に不安を植え付けていく。
 何かが違う。
 まず、部活帰りの生徒たちは何処に行ったのだろう。窓から覗いた校庭にはそれなりの人数が残っていた筈だ。少なくとも私のような制服姿があってもいいはずなのに、今、この道を通っているのは気付けば私だけになっている。
 遠くの商店街も、普段よりもなんだか灯りが弱い気がしてならない。まだシャッターが閉まるには早い時間の筈だ。
 肩に掛けた鞄を背負い直すと、街灯の下を早足に歩いていく。別に通る必要は無いけれど、少しでも人気のある所に行きたいのもあって、商店街に入ろうと思った。灯りは小さくても誰かしらいる筈だ。
 父に迎えに来てもらうべきだったかもしれない。
 居心地の悪さと、不安で身体が震える。一刻も早くこの場から立ち去ってしまいたいのに、いくら走っても商店街に辿り着く気配がない。
 街灯の下を歩く。
 街灯の下を早足で歩く。
 街灯の下を駆け抜ける。
 まるで同じ所をぐるぐると回っているように、立ち止まれば私は街灯の下に立っていた。道の先に見える商店街はまだ遠くに見える。後ろを向くと、雪浪高校までの道を等間隔に置かれた街灯の灯りがぽつり、ぽつりと照らしていた。
 途中で曲がっても、住宅街に入ろうとしても、戻ろうとしても、最終的にはこの道に戻ってきてしまう。
 一体何が起きているのだろうか。
 不安と恐怖に押しつぶされそうになりながらグッと息を飲み込むと、携帯を再び取り出して父に発信した。
『只今、電波の繋がらない所にいるか、携帯の電源が切られている為、繋がりません』
 再度掛け直す。
『只今、電波の繋がらない所にいるか、携帯の電源が切られている為、繋がりません』
 もう一度掛け直す。
『只今、電波の繋がらない所にいるか、携帯の電源が切られている為、繋がりません』
 どれだけやっても、父の電話に繋がらない。
 そんなわけない。高校を出た時に確かに父と私は電話越しに会話をしたのだ。突然繋がらなくなるわけが無い。
 喉が乾く。生唾を飲み込む音が私の中で大きく響く。
「一体、どうなってるのよ」
 頭をがしがしと掻き毟りながら、震える足に手をやった。疲れていないのに呼吸が乱れていく。心臓が高鳴る。
 唇をぎゅうと噛み締め、繋がらない携帯電話を握ったままその場にしゃがみ込んだ。これは夢に違いない。まだ私は保健室に居て、ここまでの出来事も全て夢の中の出来事なのかもしれない。なら、目を覚ます事が出来るはずだ。私自身の意思で。
 不意に、喉元から何かがせり上がってくるのを感じた。嘔吐感は無く、苦しさも無いが、それはぐるると気道を登ってくると固く結ばれた私の口を無理矢理にこじ開けて、外へと飛び出してきた。

――泡だ。

 ぶくり、とそれは小さな気泡を引き連れて天高く昇っていく。水底で息を吐き出したみたいな、大きくて綺麗な空気の塊。
 それからずぶり、と音がして、私はバランスを崩して尻餅を着いた。恐る恐る地面に目を向け、目を疑った。
 足が、沈んでいる。
 硬いコンクリートの地面に大きな波紋を描きながら、私の身体が呑み込まれていく。
 たすけて、と言おうと口を開けると、気泡がまた口から吐き出されて、水中から大気へと出ようとするみたいに頭上を昇り消えていった。
 次第に息苦しさが増し、締め付けられるみたいに痛くなる。不安と恐怖で埋め尽くされた心が悲鳴を上げている。私は沈んでいく足を両手で必死に引っ張るのだが、ずぶずぶと沈んでいくばかりで抜け出せない。
 まるで底無し沼だ。
『俺が死んだら、姉ちゃんは泣いてくれる?』
 真皓の声が聞こえた気がした。
 喧嘩の原因になった一言だ。夢の中で聞いたよりもはっきりとしていて、まるで直ぐ側に彼がいるみたいに思えた。
 もしかして、真皓もこんな風に。
 私は沈んでいく身体を見ながら、そんなことを思う。吐き出された気泡、不可解な場所で姿を消した咲村真皓。そして今ここで溺れそうになる私の状況。
 それらは、全て同一のものかもしれない。
 だが、だからといってどうする。
 このまま沈んでしまえば私はきっともう戻ってこれなくなる。私もこのコンクリートの中で過ごすことになってしまう。
 身体が沈む度に頭の中がかき回されるみたいに痛くなる。耳鳴りが強くなっていく。思考が正常に働かない。辛うじて現状に対する多少の理解はできたが、ここまでだった。
――痛い。
 ノイズが激しくなって、視界が点滅する。受信先を失ったテレビみたいに砂嵐で視界が埋め尽くされていく。もう何も見えない。聞こえない。意識も崩されたパズルみたいに砕けて繋がらない。全てが終わりに向かっている。
 首から下が液体に浸っているような、張り付くような感覚で埋め尽くされていた。
――私は、誰と喧嘩したんだっけ。
――私は、誰とどうしたかったんだっけ。
――私は、明日から何をするつもりだったっけ。
――私は

『そこはどこまでも心地がよくて、優しくて、そっと眠れる場所。水面から漏れる光を眺めながら、死んだように眠り、そして生き続けることのできる悠久の湖底』

 右手を、誰かが掴む。
 ノイズまみれの感覚の中で、その温かで柔らかな手を握り返すと、ぐいっと引かれるのを感じた。
 目を開けると、歪む視界の中で私は頭上を仰ぐ。
 人影が見える。短髪で、細い輪郭をしたその人物はそっと私に微笑みかける。はっきりとしない視界の中で、しかしそれだけは確かに判別することができた。
 私の手を握る人物は、とても残念そうに微笑んだのだ。

『でも、君はまだ眠らせて貰えないみたいだ』

 ぐんと水中から引き上げられる感覚と同時に、私の意識はそこでぶつんと途切れた。

   ―――――

 私は飛び起きると周囲を見回す。商店街の通りから少し外れた細道に私はいた。雪浪高校の方に目を向けると、等間隔に街灯の並ぶあの道路が見えた。部活帰りの制服姿がちらほらと見えている。つい先刻味わった奇妙で孤独な道はどこにも見当たらない。商店街も普段通りの暖かな光が見える。
「気がついたようで良かった」
 その声に私は思わず悲鳴を上げてしまった。
 視線の先には青年が立っていた。
 耳が見える程短かい髪に、プリントの入った白いシャツ、その上に黒いジャケット、そしてモッズコートを羽織っていた。
 何より私が興味を惹いたのは、二重から覗くその瞳だった。
 液体みたいにとても潤んでいるのだ。ほんの少し身体を傾けただけで流れ落ちてしまいそうな綺麗な瞳をしている人だ。
 青年は私の前でしゃがみ込むとミネラルウォーターのボトルをポケットから取り出し私の手に握らせた。
「飲んで。ほんの少しだけど、気が楽になるだろうからね」
 彼に言われるままにミネラルウォーターを口にする。冷たい液体が身体に流れ込んでくるのが分かる。縺れたままの私の意識が、少しづつ解れていく。
 半分ほど飲んだところで、彼はにっこりと微笑むと私の頭に手を置く。節くれだった華奢で、そしてなにより冷たい手だ。その手が私の頭を撫でた。さっきの柔らかで温かな手とはまるで違っていて、私は戸惑う。
「慌てなくていいよ。深く呼吸をして、冷たい水を飲んで、それさえ繰り返せばパニックも収まる」
 彼の言葉に操り人形みたいに従っていく姿は、端から見れば多分滑稽に映ったかもしれない。高校生にもなって幼児のように男性の言葉に頷くだけ。
「とても特異な出来事だった。本来ならあそこまで引き込まれていたらもう【戻れ】なんてしないのに、君はちゃんと戻ってくることができた。手助けがあったのも確かだけど、どこかで君は安らぎを拒絶していたんだろうね」
 ミネラルウォーターを飲み、深呼吸を繰り返す私に、彼はそう言った。その顔はあの歪んだ視界の中で見えた、残念そうな笑みだった。水っぽい瞳が揺れている。
「喋ることはできる?」
「はい」
「それは良かった。君の名前は?」
 青年はまた頭を撫でてくれる。たったそれだけで安堵感を抱いてしまう自分の単純さに顔を顰めながら、私は口を開いた。
「咲村、朱色です」
「朱色。中々面白い名前だ」
「よく言われます」
「それくらい不思議な名前なら、僕も覚えることができそうだ」
 彼の言葉に私は首を傾げる。なんだろう、彼は受け答えや身のこなしがふわふわとしている。
「僕は最低限の事以外は忘れることにしているんだ」
「どうして?」
「必要な事しか覚えたくないし、思い出したくない。有用性の無い事だけはすぐに忘れるようにして、出来る限り『利益のある内容』だけをすぐに引き出せるように整理したいんだ。まあ、単なるイメージでしか無いのかもしれないけれど、これが不思議とハマってね。本当に大切な事がスッと思い出せるようになった」
 彼はモッズコートのポケットに両手を突っ込むと肩を竦め、目を細める。華奢な体つきからかその仕草はどこか女性的に見えた。
 この人は何故私を救ったのだろう。
 いや、そもそも先程までの不可解な出来事は本当に私の身に実際に起こったものなのか? 朝から続いていた不調の再発で、帰路に向かう途中で気を失い、たまたま通りかかった彼に助けてもらっただけでは無いのか。
「あの、私」
 聞かなくてはならない。
 そう思って開いた口に、彼はそっと人差し指を押し当てた。枯木みたいに細い指が唇に触れた。彼はまた残念そうに微笑むと、今度は自分の口の前に人差し指でバツを作った。
「今日起きたことは夢だ。君は体調が悪くて、気を失った。そしてタチの悪い夢を見た。それで納得してもらうことはできないだろうか」
 と彼は言う。口にするつもりだった言葉をそのまま奪われてしまって、私は眉を顰めた。
「あの、えと、その……」
 彼は沈黙を守った。
 
 不意に、彼は目線を上げる。
 彼を追いかけるようにして私も空を見上げて、それから酷く驚いた。
 月が、揺れていた。
 水面に映ったみたいに、夜空が、分厚い灰色の雲が波打ち揺らぎ、上弦の欠けた月もまたぐにゃぐにゃと波の動きに合わせて形を変えていた。
 水を注いだみたいな夜空は、私の心を奪うほど美しくて、しかしそのあまりの非現実的な光景に、恐ろしさも覚えた。
「朱色も見えているね」
 彼の言葉に、私は頷いた。
「夢にすることは出来るわけ無いか。まあ、覚えておくといいよ。そう何度も出来る体験ではないからね。この光景を見る前に喰われてしまう人間が大半だ。君は本当に運がいい」
「喰われる……?」
 彼は頷いた。
「大半はそうなる。もし君があのまま引きずり込まれていたら、その先に待っていたのはこの景色じゃない。ただの真っ暗で冷たい湖底だ。深い底に横たわり一生死ぬこともなく眠り続けることになる」
 引きずり込まれた時を思い出す。意識が強引に剥ぎ取られ、五感が切り落とされた。目の前はざあざあと電波の入らないテレビのようになったし、耳元で鳴り続けたノイズは脳がかき混ぜられているように苦しいものだった。
「ちょっと待ってください。あれは結局、なんだったんですか? 私は、何に狙われていたんですか」
「ああ、まずはそこから説明するべきだったか。何時も間に合う事なんて無いから、順序良く話をするのは苦手でね」
 彼はそう言うと見上げていた水面みたいな夜空―どう言葉にすべきか迷った末、そう呼ぶことにした―から目を降ろし、私にすっと手を差し伸べてきた。暫く躊躇していたが、やがて彼の手を恐る恐る握った。
 私が握るなり彼は嬉そうに笑みを浮かべ、私を引き上げると傍の段差に私を腰掛けさせ、隣に座った。
「朱色、君はそこに引きずり込まれた時、何を感じた?」
「何って?」
「その空間をどう把握したかってことさ」
「把握……。なんだろう、水の中、みたいでした。生温い液体のような……」
 適当な言葉を繋ぎ合わせながら答えると、彼はそれでいいと頷く。
「あれはそう、小さな湖みたいなものだ。『彼ら』にとって一番心地の良い特殊な環境。そこに巻き込まれた人は総じて『液体の中にいるようだった』と口にする。だから朱色の言葉はまさに模範的な答えだ」
「湖」
 彼の言葉を反芻する。
 確かに、湖みたいだった。けれど酷く深くて、水底にまで達してしまったら二度と戻れそうになかった。
「彼らは湖底で獲物を待ち、非常に美味そうな餌を見つけたら引きずり込むんだ」
「つまり、私が美味しそうに見えたってことですよね」
 彼は頷く。
「女の肉は柔らかいとかそんな理由ですか?」
 ちょっとした冗談のつもりで言ったみたのだが、彼は真面目な顔のまま首を横に振った。
「奴等が食べるのは、肉体じゃ無い」
「肉じゃ、ない?」
「そう、彼らが欲するのは記憶。一個の生物に仕舞われた情報を喰うことで腹を満たしている」
「記憶、ですか」
「もう一つ、彼らは味にもうるさいんだ」
「味?」
 記憶に味なんて存在するのだろうか。眉を顰めて考えていると、彼は私に顔を寄せ、耳元でそっと囁いた。
「……悲劇だ」
 胸がぎゅっと強く締め付けられるのを感じた。
「他人の不幸は蜜の味とはよく言ったものだね。彼らは悲劇的な記憶を特に好む。不幸な目に遭ったり、逆境で藻掻いていたり、絶望と希望の境目を行き来する人を奴等は美味そうに感じるらしい」
 ならば、私が狙われた理由は。
「君は、今の彼らからしたらご馳走みたいなものなんだ」
 彼の言葉の意図は理解できた。
 君が今演じているのは悲劇だと、そう断言されたのだ。
「貴方は、なんでこんな事を知っているんですか」
 私の問いに彼は微笑む。さっきから度々見せていたあの残念そうに眉を動かす仕草はしなかった。
「簡単に言えば、会いたい人を探すために必要なんだ」
「会いたい人?」
 彼は頷く。
「その人に会うためには、彼らを追う必要がある。今回も同じだ。僕はたった一人と再会するためにやってきた」
「こんな危険な目に遭わないと、会えないんですか?」
「そうだね、それだけははっきりしてる」
 彼はそう言うと立ち上がる。座り込んだままの私を置いたまま。
「ねむりひめには気をつけて」
「ねむりひめ?」
「君を引きずり込もうとした存在だよ。誰が名付けたのかは知らないけれど、いつの間にかねむりひめと呼ばれるようになっていた」
 湖底に潜む存在の名称は、ねむりひめ。
 地面を見つめながら、引きずり込まれかけた時の事を思い出す。あんな現象、どうして対処ができようか。
 何故ねむりひめであるのか問いかけたくて再び顔を上げると、彼の姿はもう無かった。まるで泡みたいに音もなく消えてしまった。
 水面に映されたような夜空も消えて無くなって、漸く私は、現実に戻ってこれたことを実感する。月も雲も、もう揺れることはない。地面もしっかり堅くて、足が飲み込まれることもない。商店街の方は灯りがある。
 あの節くれだった指も、ねむりひめなんて謎の多い存在も夢から覚めたみたいに溶けて無くなってしまった。
 夢から覚めた私は、ふとあの青年の名前を聞くことを忘れてしまった事に気づいた。
 彼が居なくなると、途端に静寂が苦しくなって、私は父に電話をかけた。
 受話器越しの父はどこか慌てた様子で朱色、と私の名を口にした。
 何処にいるのか、今まで何をしていたのか、母さんを心配させちゃいけないと、矢継ぎ早に言葉を吐き出す父の姿を想像して思わず笑みが零れた。普段はあんなに寡黙で、必要以上に口を開かない父が取り乱している。
 大切にしてもらえているんだ。私も真皓も。
「お父さん、やっぱり迎えに来てもらってもいいかな」
 そう言うと、父は暫く黙り込み、何処にいるのかと返事をした。商店街裏の細道と答えると、明るいところで待ってなさいと言って電話は切れた。
 今日は本当に色んなことがあった。
 細道を抜けて大通りに出ると、私はバス停に設置されたベンチに腰を落ち着けた。
 傍の寂れた商店街を覗くと、それぞれが閉店の準備を始めていた。シャッターを下ろす鮮魚店の男性、精肉店の男性は一度大きく伸びをしてから奥の方に引っ込んでしまう。欠伸をしながら暇そうにしていた玩具店の店主は、表の筐体を三台とも店内に入れ、シャッターを降ろし出す。
 やっと一日が終わる。
 家に張り付く記者も流石に消えているだろう。そう願いたかい。彼らの相手をしているような体力はもう無い。
 帰ったらお風呂に浸かって、寝間着に着替えてさっさと寝てしまおう。今日はなんだかぐっすり眠れる気がする。
 真皓の後ろ姿を思い出す。
『俺が死んだら、姉ちゃんは泣いてくれる?』
 あの言葉に対して、彼はなんて答えて欲しかったのだろう。同時にその答えは、恐らく彼が失踪しなければ気が付かなかった事かもしれない。そう思うと皮肉な話だと思う。
 ねえ真皓、もし帰ってきてくれたら泣いてあげる。泣きながら思いっきり抱きしめて、しょうもない事で喧嘩した事を謝りたいの。
 そうしたらきっと貴方も謝ってくれるでしょう? 俺も悪かった、とか目を逸らしながら恥ずかしそうに言ってさ。そして最後はお母さんのご飯を食べて一件落着。
 そうやっていつも私達はやってきたんだもの。
「ごめんねくらい、言わせてよ」
 多分帰ってこない弟に向けた言葉は、やって来たバスの音に溶けて消えると、それっきり聞こえなくなってしまった。