Neetel Inside ニートノベル
表紙

ミシュガルド冒険譚
穢れに捧げ、癒し歌:7

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―――――


 安堵に満ちていた筈の交易所が再び悲鳴に満ちた。
 津波襲来時よろしく、再び人の波が交易所の奥へと押し寄せる。
 その流れに逆行するようにフロストは走っていた。
 津波を知らせる地鳴りは聞こえない。それでも人々は恐怖に顔を歪めて逃げまどっている。ともすれば先ほどの津波以上の恐慌だ。
 一体何が起きている。焦りで足がもつれそうになりながらもフロストは港を目指した。
 そして、フロストはそれを見た。
 黒い人間。それが第一印象だった。
 どろりと皮膚が滴り、生者のものとは思えない。緩慢な動作で動きまわっている。
 その黒はただの色ではなく、どこか心臓を掴むほどの冷たさと恐ろしさを秘めているようだ。
 「…ッ!?」
 背筋が凍る。本能が警鐘を鳴らす。
 変わり果てた姿だが、フロストはよく見るとそれが行きつけの飯屋でよく見かける男だと気付いた。
 彼だけではない。その周囲にいる黒い生物たちはよく見ればどこかで見たことがある者たちばかり。
 記憶にないのは彼らに交じって動き回る大量の魚人のような生き物だけだ。
 見回すと、女性が腹を食いちぎられている。思わず目をそむけた。
 「なんなのよこれ…ッ」
 これがハナバの言っていた「嫌なもの」なのだろうか。
 ただ間違いないことは、これらはここにいてはいけないものだということ。
 黒く染まった者たちはフロストを認めると、彼女の方へと一斉に動き出した。
 獲物に向かって呻き声をあげる。緩慢な動きながら恐ろしさがある。
 見れば先ほど襲われていた女性も今やどす黒く腐食した亡者となってこちらへ歩いてきているではないか。
 「…ッ!」
 フロストは少ない魔力を駆使し、氷の刃をつくりあげ、それを敵に向かって飛ばした。
 刃は人間や魚人の胴体を貫いた。しかし彼らの動きは止まらない。
 「!?」
 瞠目した。
 急所を貫いたはずだ。それでも動きは止まらない。
 「不死だとでもいうの…ッ!?」
 ならばどうすればいい。
 常時なら彼らを氷漬けにして動けなくしてしまえばよかった。しかし、今のフロストにそれだけの魔力は残されていない。
 顔を歪めながらもなす術なく後ずさる。
 逃げ続ける訳にはいかない。交易所の安全を守らなければならない。
 誰かと一緒に来るんだった、とフロストは歯噛みした。
 僅かな魔力で敵を凍らせようとする。
 しかし僅かに足が凍っただけで、魚人や兵士たちは無理やりに歩を進めてくる。
 このままでは駄目だ。
 自分だけではない。この交易所が穢されてしまう。
 それならば。
 フロストは魔力を全て掌に集中させた。
 すっと背中が冷える。
 自分の魔力を空にしてしまえばその後どうなるかわからない。それでも今これ以外に策はない。
 フロストの右手を中心に冷気が凝縮し始めた。
 荒い息遣いが白色になり可視化される。
 彼女は今持てる全ての力を使い果たしてでも黒の軍勢を凍りつかせてしまおうとしているのだ。
 彼女の本来の任務は魔法の監視だ。交易所を命を懸けてまで守る義務はない。
 脳裏によぎるのは憧れの魔法使いの後姿。
 自分がここまでがむしゃらなのは、きっとあの人がこの交易所に希望を見出していたからだろうと、最後にそう微笑んでフロストは氷魔法を放とうとした。その時だ。
 「――操」
 聞き覚えのある声が響いたと思うと、水が空へと跳ね、そして亡者たちを拘束した。
 魔法で操られた水に取り込まれてしまった彼らだが、溺死はしないようだ。球体の水の中でもなおこちらに向かおうと動いている。
 突然の手助けに混乱しつつもフロストは魔法を使ってその水を凍らせた。
 何もないところから氷を作るよりも水を凍らせる方が負担は少ない。彼女の魔力は僅かながら温存された。
 巨大な球形の氷像の中、さすがにもう動くことはできないようだ。
 普通の氷とは違い、フロストの意思でしかこの氷は解けることがない。
 「おーおー、これだけ凍ってればさすがにこいつらも動けはしないだろう」
 ウルフバードはその氷像を眺めながらそう評した。
 身体を覆うほどの毛皮に視線を向けながらフロストは舌打ちした。
 これでこの男に助けられるのは二度目だ。それが気に入らない。
 「…何故」
 「おいおい、またその質問か?少しは恩人に恩を感じたらどうなんだ?」
 フロストの言葉をウルフバードは遮った。
 そのあざ笑うかのような視線が彼女の神経を逆撫でする。もちろんウルフバードもそれを理解している。理解しているからたちが悪い。
 「協力には感謝する…だが、何故お前が私たちの味方をするッ!?エルフである私を助けるなんて、何が狙いなの!?」
ウルフバードはフロストを見下ろした。
 険しい顔をしているが、その顔色は蒼白に近く息も荒い。
 彼女が万全なら問答無用で襲い掛かってきそうだ。お互いの立場が立場なだけにそんなことは起こりえないだろうが。
 彼は後ろに控えていたビャクグンに向かって口を開いた。
 「聞いたかビャクグンよ。どうやら気高きエルフ様は理由がなければ他の種族を助けないらしい」
 反応に困ったようにビャクグンが息をつく。それがまた面白い。
 一方のフロストはさらにウルフバードに食って掛かる。
 「そういうことを言ってるんじゃない!あなたは私たちの仲間を惨殺してまわった皇国の悪魔だッ!そんなお前がエルフである私を助ける訳があるか!」
 ウルフバードは思案気に目を細めた。
 憎まれているのは仕方がない。戦時中の行いを釈明できる訳ではないのだから。
 「…今は停戦協定が結ばれ、形式だけとはいえこのミシュガルド出現をきっかけに二国間の協力が望まれている。その中で丙家の俺がとるべき行動が分からない訳ではないだろう?」
 それに、とウルフバードは付け加えた。
 「何故お前は死に急ぐ」
 「…は?」
 胡乱気に睨み返すフロストに向かって滔々と彼は尋ねた。
 「先ほどの津波の時もそうだったがな、何故自分の力を使い果たしてまで何かを成そうとする。まさかこの交易所にくだらない祖国愛でも感じているのか?」
 戦争時、何人もの兵士が死んだ。何人もの兵士が虐殺を行った。それは全て祖国のためなのだという。
 国のために戦い、国のために命を散らすのが美徳だと、正義のために敵を根絶やしにしろと、そう教え込まれたからだ。
 家族に死人同然の扱いを受けていたウルフバードはそんな思想教育を受けなかった。それが分水嶺だったのかもしれない。
 ウルフバードが大切にするのは自分の命だけだ。
 そして自分に利する者は助けるし、自分のためならば人の死をも利用する。
 そうして戦地で、そして未知の大陸で生きてきたのだ。
 しかしフロストは反論する。
 「当然ッ!この交易所は…この大陸は…ッ!私たちの希望なのよ!それを壊されるくらいなら私は心血を注いでここを守る!」
 禁断魔法が発動され焦土と化した祖国の大地。そこで呆然と立ちすくむニフィルに対してフロストはかける言葉を見つけることができなかった
 打ち震える肩に触れることも、頼りなく佇む背中を励ますことも、絶望に染まる彼女の顔を見つめ返すこともできなかった。
 力になれなかった。それが悔しかった。
 結局自分は彼女と同じ目線でものを見ることはできないのだろうと、フロストの心は締め付けられる。
 自分は弱いから。自分は無力だから。
 だから彼女の後ろ姿しか自分には見ることができない。
 だからこそ、ニフィルが大切に思うものだけはどうしても守りたいのだ。
 それがフロストにできる精一杯。
 しかし、ウルフバードはそれを一蹴した。
 「馬鹿が。一番大切なのは自分の命だ。こんな交易所くらいまた造り直せばいいだろうが」
 「あなたこそ馬鹿なことを言わないで!あの津波が交易所を襲ったらどれだけの人が犠牲になると思うの!?あなただってそう言ってたじゃない!それに、交易所だって壊滅状態になる!簡単に造り直すだなんてよく言えるわねッ!」
 もはやウルフバードを氷漬けにしてしまいそうな勢いだ。
 彼女が万全でないことが分かっているからこそウルフバードは続けた。
 「…どれだけ破滅的な状況になろうとも俺は手を伸ばし続ける」
 ビャクグンの背負っていた甕から水が球状になって飛び出す。
 水はウルフバードの身を守るかのように彼を囲む。
 「それこそが希望のはずだ。どれだけ死にかけてようが、がむしゃらに掴もうとするのが希望だ。わかるか?エルフ女。もしお前たちがここに希望を見出しているなら、壊滅しようが住人が死のうがまた新たな交易所は造られる。この交易所が必要なんじゃない。お前たちが造り上げるその場所それ自体が必要なんだ。だがな、そのためには生きていることが大前提なんだよ」
 「…ッ!なら私はあの時どうすればよかったの!?今、どうすればいいの!?犠牲もやむなしとして私だけでも生き残れとッ!?私はそんなのは嫌だ!」
 「だから馬鹿だというんだ。高尚な自己犠牲の精神は構わんがな、お前が死んだところで本当に守ったことになるのか?俺には理解できんな」
 「あなた如きに理解されなくて結構よ!」
 そう叫ぶフロストの背中を氷塊が滑り落ちた。
 ウルフバードとビャクグンも険しい顔つきになって南門を睨んでいる。
 その視線の先、何十という黒い魚人や海軍服を着た亡者たちがゆらりゆらりと行軍をしていた。

       

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