Neetel Inside ニートノベル
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 交易所の術者たちの魔力を根こそぎ消耗させた大津波の被害はしかし、彼らのおかげで最小限に抑えられたかのように見えた。
 一時は全てが津波に押し流されてしまうのではとも思われたが、既に北へ逃げていた人々も交易所へと戻ってきている。
 実際、魔法壁のおかげで城壁より内側に被害は殆ど及んでいない。
 だが、城壁の外では港に停留していた船が破壊され、辺り一面流木や土砂が散乱している。
 打ち上げられた魚がぐったりと横たわり、桟橋も流れて行ってしまったようだ。
 確実に、津波は爪痕を残している。
 変わり果てた港を眺め、兵士はため息をついた。すると近くにいた別の兵士が呆れたように声をかける。
 「おいモブナルド、ため息ついてる場合じゃねーぞ!今から俺たちはここを片付けないといけないんだからな」
 「だからため息をついたんだろ?」
 モブナルドと呼ばれた兵士はそう同僚に愚痴り、改めて港を見回した。
 彼は交易所の警備隊の1人である。
 普段は門番として通行証を預かったり、夜の交易所の見回りを行ったりしている。
 そんな彼がこの非常事態に復興作業に駆り出されるのはしごく当然であるはずなのだが。
 「今日は婚約者と一日中いちゃいちゃしてるつもりだったんだぞ?それがいきなり警鐘がんがん鳴らされて挙句無事だと分かった瞬間仕事の招集がかかるだなんて信じられるか!?」
 彼の不満は止まらない。
 その愚痴を半ば聞き流しつつ別の兵士は作業を開始した。
 どれだけ喚こうが仕事は仕事なのだ。それに交易所の安全のためには自分たちが必要だし、そうあるべきだ。
 どうにもこいつは適性がないな、と内心評価を下しつつ流木を拾い上げた時だ。
 何かが水中に見えた。
 初めはそれが魚影であると思った。
 しかし、それにしては視界の隅を掠めた影は大きかった気がする。
 兵士は水面を覗き込んだ。
 津波のせいでそこの泥が巻き上がり濁っている。その中に。
 「…っ!?」
 何かが、いる。
 それも一匹ではない。
 何匹もの影が水中で蠢いている。
 濁った海水の中でも、気づいてしまえばその黒い影は異様な存在感を放つ。
 「おい、モブナルド」
 その気味悪さに同僚の名前を呼ぶ。
 返事がない。
 あの野郎、もしかしてトンズラしやがったか、と彼の中で苛立ちが嫌な予感を一瞬だけ上回る。
 「おいモブナルド!」
 もう一度、今度は少々の怒気を込めてその名を呼んで振り返る。
 
 初めは何が起きているのか理解できなかった。
 
 同僚の上半身に何か黒いものがまとわりついていた。
 その黒いものはしきりに体を動かしているようだ。モブナルドの身体はびくびくと痙攣し、やがて全身が弛緩したかのごとく崩れ倒れた。
 なおもその黒いものは動き続ける。モブナルドに馬乗りになりつつも前傾姿勢は変えない。それが生き物であるならば絶え間なく動かしている部位は頭にあたるのだろうか。
 本能が嫌悪するような音が動きと共に生じる。
 のろのろとその音が何かを理解し始めるが、兵士はその場が夢の中であるかのように奇妙に落ち着いていた。
 否、落ち着いていたのではない。思考と反射が麻痺していた。
 やがてその黒いものは動きを止め、ゆらりと立ち上がってこちらを見た。
 「…っ」
 魚人だ。
 魚の頭を持ちつつも体は人のそれ。下半身が魚の場合は特に人魚と称されるが、いずれにせよアルフヘイムの海辺で暮らす種族にその姿は酷似していた。
 だが、ここまで全身がどす黒い魚人など見たことがない。
 背丈は成人した人間の腰くらいの高さだろう。腐敗しているがごとく今にも削げ落ちそうな肉体。
 伸ばした腕から黒いものがしたたり落ちる。それが水なのか肉体の一部なのかはわからない。
 開いた口からはうめき声のようなものが聞こえてくる。喉から出た音ではない。まるで深い穴の底から聞こえてくるようだ。
 眼窩はくぼみ、そこに生の気配は感じられない。埋葬された死者が地中から掘り起こされたのではないかと思わせる。
 兵士はその口元に赤色がだらりと滴っているのを認めた。
 倒れたモブナルドを見ると、凄惨に顔や首が抉れていた。赤と黒が混ざり合い、不気味な柄となっている。
 2つを結び付けられないほど愚かではない。
 しかし、それを理解したばかりに彼の脚は根を張ったがごとく動かなくなった。
 べちゃり、とその魚人の骸のようなものが歩を進める。
 背後で似た音がした。
 無理やり首を動かすと、同じような魚人がいる。それも何体も。
 見れば海から地上へと這い上がろうとしているものもいる。
 先ほど見た黒い影はこの魚人だったのだ。
 「何なんだよ…」
 喘ぐように、兵士は問いかけた。
 答えはない。
 魚人たちはのろりのろりと距離を詰めてくる。
 兵士の中で何かが壊れた。ようやく脚が動いた。
 「何なんだよお前たちはぁああああああああああああああっ!」
 絶叫と共に槍を横薙ぎに払った。
 彼らが何者かという疑念よりも、仲間が死んだ怒りよりも、恐怖が彼を突き動かす。
 「ああああああああああああああああああああっ!!」
 魚人は簡単に崩れた。ぐしゃりと周りに黒い肉塊が飛び散る。
 殺せ、殺せ、殺せ。本能が生きろと叫ぶがままに兵士は槍を振り回した。
 だが、胴体を真っ二つに切り裂かれた魚人は、頭を潰された魚人は、腹を突き刺された魚人は、彼に向って歩を進めてくる。
 それが彼の恐怖を加速させる。
 悲鳴とも怒号ともとれるその声を聴き、異常を察知した他の衛兵たちが駆け寄ってくる。
 しかし、彼らもまた仲間が尋常ならざる声をあげながら黒い魚人のようなものを叩き潰しているその光景に愕然とせざるを得なかった。
 兵士の鎧は魚人の肉塊で黒く染まっている。辺りも墨をこぼしたがごとく真っ黒だ。
 彼の鬼気迫る表情はもはや人間らしさすら欠いている。鎧と同様に彼の身体の一部が黒く染まっているのがそれに拍車をかけるのだろう。
 怖い。突如として現れたあの魚人たちも、それと闘う仲間も、そしてあの黒色も。
 恐れおののく兵士たちが、それでも己を叱咤して参戦しようとしたその時だ。
 「あああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
 それまで戦っていた兵士が叫びながら槍を落とした。
 自分の見ているものが信じられないと言うように黒く染まった手を見る。
 そのまま叫び続けた彼はしかし、突如として無表情になり自分の手に噛みついた。
 黒く染まっていない部分を食いちぎろうと必死に歯を立てる。
 その間に魚人たちが兵士に群がり、彼の脚にぐじょりと絡みつく。
 均衡を崩した彼は己の肉を食みながら倒れた。そうして魚人に覆い尽くされ彼の姿は見えなくなった。
 その急転直下に参戦しようと武器を手にした兵士たちは再び固まる。
 嫌な音が辺りに響く。
 やがて魚人たちが咀嚼をやめて立ち上がった。
 そう。立ち上がった。胴体を切られた者も、頭を潰された者もいつの間にか元の形を取り戻している。
 そして、あとには鎧を着た人型の真っ黒な何かが残された。
 吐き気を堪え、兵士たちは魚人たちと対峙した。
 その時だ。
 彼らは見た。鎧を着た真っ黒な人間がゆらりと起き上がる様を。
 一人は顔面が削げ落ちているのか全く個人の顔が判別できない。もう一人、先ほど魚人の大群に襲われた方は辛うじて顔が顔であると認識できる。
 二人とも魚人のように全身黒く、肉塊を滴らせている。身にまとう鎧も黒い。
 魚人と共にその2人は衛兵たちの方に向かって歩いてくる。
 それだけではない。気づけば彼らは大量の魚人によって包囲されていた。
 足がすくんで動けない彼らの悲鳴が辺りにこだまし、それが断末魔の叫びに変わった。

       

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