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「マスターケーゴ、右には敵がいるようです。迂回ルートを提案します」
振り向きながらピクシーが警告する。
しかしケーゴはそれを無視して走る。
アンネリエの居場所がもうわかっているのだ。一刻も早くそこに辿り着かなければならない。
疲れはない。恐れももうない。
早く、早くアンネリエのもとへ。
迷いも躊躇いもいつの間にか彼の中から消えていた。
その原因が焦燥以外にあることにまだケーゴは気づいていない。
「強引に押しとおる!!」
短剣を抜き、力の限り魔法弾を放つ。
亡者の身体が弾け、ぐしゃりと道路に崩れ落ちる。
それを横目に走り抜ける。
もしかしたら知り合いだったかもしれない。
構わない。アンネリエが無事ならば。
「マスターケーゴ、無理が過ぎます。アンネリエ様のもとへ辿り着く前にマスター自身が危険な立場に立たされてしまう可能性があります」
「俺なら大丈夫だ!」
根拠はないが、己の内で激しく炎が燃え上がっている。それに従うだけだ。
炎を振りかざす。
立ちふさがる黒が赤に染められていく。
程なくケーゴは件の路地裏に達した。
肩で息をしながら入り込む。
「っ!」
闖入者に驚いて角材を向ける人影が見えた。
ケーゴは反射的に剣を構えたが、よく見ればただの人間だ。
角材をこちらに向けていたその人物もケーゴが化け物ではないことを認めて安心したようだ。
「ここに地下通路までの入り口があります!よければここに避難してください」
それを聞くのももどかしく、ケーゴは彼に掴みかかる勢いで尋ねた。
「ここにエルフの女の子はいますか!?緑色の服で、大きな杖を持っているエルフ!」
その勢いに気圧されつつもロンドは答えた。
「あ、あぁ。じゃあもしかして君がはぐれてしまったという…?緑色の服の子とエプロンの女の子が中に避難しているよ」
間違いない。アンネリエとベルウッドだ。
ケーゴはロンドに地下通路への入り口を開けるよう急かした。
ロンドが蓋をどかしきるのを待つのももどかしく、ケーゴは地下通路への梯子を滑り降りた。
空気は淀んでいた。
息苦しいのは気のせいではない。
暗い地下通路の中、疲弊した人々が大勢、虚ろな目で座り込んでいた。
明りは小さな蝋燭やランプだけで、人々の暗い表情が橙色に揺れている。
誰一人話すこともなく、ただただそこにいるというばかりだ。
新たな避難者にも少し首を動かすばかりで気力が見られない。
ケーゴはそんな失意には目もくれず、辺りを見回した。
人を探すには少々手狭なその通路で、ケーゴは不思議なほど素早く彼女を見つけることができた。
「アンネリエ!」
思わず口から飛び出た喜びは地下で奇妙に反響する。
その声に人々は驚いたようだったが、誰よりも大きく肩を震わせたのはアンネリエだろう。
目を丸く見開いて振り返る。
――あぁ、そうだ。
同い年、あるいは少し年下に見えるエルフの少女。
薄い金髪を肩にふれるくらいまで伸ばし、前髪は左右に分けている。
若葉色の服はひらひらとして涼しそうだ。手には背丈を超えるほどの杖を持っている。
あどけない顔はしかし、どこかそっけなくて、それでいて綺麗で。
初めて会った時にはそらされてしまった顔を、今は固まってしまったかのようにこちらに向けている。
――アンネリエは、こんな顔をしていた。
ケーゴが一歩前に出た。
アンネリエはその場に立ち尽くしたまま動かない。
その代り、彼女の眼が潤んだ。
ケーゴはゆっくりと笑みを見せてアンネリエを縋りつくように抱きしめた。
「……よかったぁ…」
深い息と共に吐き出されたその震え声はうってかわって弱弱しく、安堵に満ちている。
ともすれば泣き崩れそうなケーゴに、目をぱちくりとさせる。
そうしてちくりと胸が痛む。思えばこうして離れ離れになってしまったのは、自分が原因でもあるのだ。
それでも、今は彼の温もりが嬉しくて、優しさに包まれたくて、しばらくそうしてケーゴに身を任せたままにしようと思った。
その時だ。
聞えよがしな舌打ちが2人の耳を刺した。
一体何だ、と名残惜しくもアンネリエから少し離れてケーゴは音がした方を見る。
若い男性たちがじとりとこちらを睨んでいた。
居心地の悪さを感じる。少しはしゃぎ過ぎただろうか。
軽く頭を下げて彼らから距離をとろうと思ったその時だ。
「――そいつら亜人のせいで今大変なことになってるってのに…」
嫌悪がアンネリエを、そしてケーゴを襲った。
一瞬で安堵が冷め、ゆっくりと先ほどの炎がケーゴの内で燻り始める。
守るべき少女を背に回し、ケーゴは己を抑えつつ聞き返した。
「…それ、どういう意味…ですか?」
「どうもこうも!」
男性が激昂した。
それに合わせて彼らは立ち上がる。
「あんな化け物、亜人の、エルフの奴らの仕業に決まってんだろうが!」
確証も何もない、八つ当たりのような暴言だ。
しかし、不安に憑かれた人々の心を掴むのは容易い。
負の感情がさざめいていく。
嫌な視線を鋭敏にアンネリエは感じ取った。
ケーゴは負けじと言い返す。
「そんなの!誰が犯人だかなんてわからないだろ!勝手にエルフたちのせいになんかして…!」
「俺はそいつらのせいで彼女が死んだんだよ!!」
かき消すように男の怒りが弾けた。
「なんだよあれ…!意味わかんねぇよ…!なんで俺たちがあんな目にあわなきゃいけねぇんだよ…!」
口々に叫ぶ。
「あの報告所に来いって声も亜人の奴らの仕業だろ!?罠だ!奴らは人間を殺そうとしている!」
「あの女、脳内に直接語りかけてきたってことはこっちの考えてることもわかるってことだろ!?」
「戦争の仕返しだ!今度はあいつらが!!」
徐々に周囲の人々もざわめきだす。
亜人のせいか、魔法なのかと根拠のない責めが蔓延しだす。
避難したものの中には亜人もいる。彼らはじっとうつむいたままだ。
子どもたちでさえ、ぐっと押し黙っている。
感情的な言葉は人々の心を掴み、今度はケーゴもはっきりとその視線を感じた。
周囲からの冷たい視線。
亜人が、エルフが、この事件を引き起こしたのではないだろうか。
猜疑心が空間を満たす。
ケーゴは愕然と立ち尽くした。
亜人も関係ないと信じていた。
みんなが協力して、そうしてこの交易所は発展していったはずだ。
今も化け物と戦っているのは人間と亜人。
自分にこの場所を教えてくれたのはエンジェルエルフだった。
昨日仲良くなったのは年の近い少年と、不思議な獣人だった。
あの日、思い切る勇気をくれたのは獣人の子ども。
いつも酒場にいたのは人魚とハーフの魚人で。
あの日、自分を救ってくれたのは自称冒険作家の人間と半亜人のおねーさんだった。
毎度毎度自分に口うるさいあいつもエルフのはずだ。
そして、何よりも。
きゅっと服を掴まれたのを感じた。
彼女と出会ったあの日、人間は嫌いだと言われた。
それでも、自分のことを信じてくれるようになって、無表情ながらもいつも自分のことを見てくれていた。
初めてだった。誰かと一緒にいて心躍る日々も、こんなにも誰かが自分の心を支配することも。
この気持ちは何だろうか。いつからこんな気持ちを持つようになったのだろうか。
いや、初めて会った時にはもう、そうなることが分かっていたのかもしれない。
この気持ちを抱く予感も確実にあったのかもしれない。
アンネリエ。
心の内で名前を呼ぶ。そうすれば彼女にも聞こえる気がしたから。
胸がすっと冷えた。
しかし、ケーゴの中で燃え盛る炎はいよいよ激しく、彼の眼には地下通路の明かりよりも爛々と煌めく烈火が灯る。
種族なんて関係ない。世界にそんな争いはいらない。
だのに、どうしてこいつらはこんなことを言うんだ。
お前たちは亜人を憎むのか。
お前たちはエルフを差別するのか。
お前たちは、アンネリエを、傷つけるのか。
――愛する者を護る為。己の信じる世界を掴む為。少年よ、主は己の炎を如何に用いる?
――考えるまでもないでしょ?
ケーゴから表情が消えた。
纏う雰囲気が変わり、男たちでさえそれに気づいた。
彼の後姿だけでアンネリエもその変化に気づき、同時に胸の内に衝動を覚えた。
ケーゴの身体が仄赤く発光した。
徐々にケーゴの顔に赤い文様が浮かび始める。
「ケーゴ…?」
何も言えず事態を見守っていたベルウッドが脅えたように彼の名を呼ぶ。
彼女を無視して腰の短剣を抜く。
ケーゴの変容に呼応するかのように装飾の宝石が赤く光っている。
剣を抜いた刹那、その短さを補うかのように炎が刀身と化し、ケーゴの得物は赤い長剣となった。
炎がケーゴを中心に吹き荒れる。
激しい熱から逃げる者もいた。その炎を心地よく感じる者もいた。
「――神判」
厳かな声が響く。
少年の口から出るような声ではない。
聞く者全てを従わせる力があるような響き。
ケーゴは剣を振り上げた。
大剣が炎を纏う。
男たちが喘ぐように悲鳴を上げた。
逃げようにも激しい火炎が彼らの逃げ場を奪う。
ケーゴの視線はいよいよ冷めきり、黒曜石の瞳の放つ光は苛烈だ。
顔には赤い文様が完全に浮かび上がっている。
「――世界よ、泰平たれ」
異変に固まっていたアンネリエはそこでようやくケーゴの身体を揺さぶった。
今まさに業火を放とうとしていたケーゴはがくんがくんと体を揺らされ、夢から覚めたように目を見開いた。
熱が冷めていくかのように彼の身体が纏う光が収束する。
顔の文様も消えた。
ケーゴは己の異変など何もなかったかのように周囲を見回した。
そして気づいた。
自分が奇異の目で見られている。
一体何があったんだ。
言い争いになった男たちの方を見る。
脅えた顔で彼らはケーゴに喚きかかる。
「お前…化け物…!!」
「俺たちを殺す気か!?」
「はぁ!?化け物!?」
何を言っているんだこいつらは。
意味が分からずに再び周囲を見回す。
やはり自分に向いているのは恐れのこもった視線だ。
混乱するケーゴにむかって男たちはさらに怒鳴る。
「化け物だ!こいつら化け物なんだ!外の奴らもこいつらのせいなんだ!」
「出てけ!」
「そうだ出ていけ!」
「なんで俺たちが出てかないといけないんだよ!」
カッとなってケーゴは怒鳴り返した。
と、そこでアンネリエがケーゴの服を引っ張った。
はっと気づいたようにケーゴは笑みを作ってみせた。
「…大丈夫だ、アンネリエ。何を言われても気にすることなんて…」
言い差して、固まった。
アンネリエの悲しい表情を見てしまったから。
「…アンネリエ?」
声は震えていた。
一方の彼女は静かに首を横に振る。
そうして地下通路の入り口の方へと歩を進め始めた。
慌ててそれを止めようとする。
「待てよアンネリエ!出ていくことなんてないだろ!」
そう必死になるケーゴの前にベルウッドが立った。
「ベルウッド、お前からも何とか言ってくれよ!」
そう頼むケーゴに反してベルウッドも同様に首を横に振る。
「…こんなところで変に面倒事起こすわけにはいかないわ」
「なっ…お前まで…!?」
ケーゴはすがるように周囲を見渡した。
誰もが目を伏せるだけだ。
亜人は悪くないと、ここから出ていくことはないと、誰も言わない。
誰も味方になってくれない。
「…何でだよ……」
悄然と呟く。
異端を見るような視線が変わることはない。
今更のように居心地の悪さ、それ以上、排他の意思を感じた。
一体何があった。
この事件が亜人のせいだと言われて、それで、気づいたら自分まで化け物扱いだ。
自分が悪いのか。
亜人が悪いのか。
「俺が…間違ってるのかよ…!?」
押し殺した声で周囲を睨む。
ふと、声が聞こえた気がした。
激しく己の内で炎が燃え上がっているのが分かる。
と、そこで手に冷たいものが触れた。
アンネリエの手だ。
もういいから、ここから出ていこう、そう言っているようだった。
その悲しげな表情で、ケーゴの全身から力が抜けていく。
どうしてだ、アンネリエ。
どうして君がこんな悲しい顔をしなくてはいけないんだ。
どうして、俺たちが。
ともすれば膝をつきそうになる彼の背を無理やりベルウッドが押し、3人と1ピクシーは地下通路を後にした。