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いつもの酒場だ、とケーゴは思った。
目の前に広がる光景。ミーリスさんがいて、マリーアさんがいて、ヒュドールもブルーももいる。
ただ、あるはずの音が聞こえない。周りにこれだけ客がいるのに。どういうことだろう。
あるはずの色がない。世界はこんなに黒と白でできていただろうか。
そして何よりも、目の前でミーリスと話している後姿。これは。
「…俺……?」
見覚えのある服装。見覚えのある短剣。
よく見れば自分には色がついている。黒髪と白色の服で分かり難いが。
目の前の自分はミーリスと何事か話している。
一体何を話しているのだろう。
と、そこでケーゴはもう一人、色のある人物を見つけた。
ミーリスさんの背後に立っていたからか、その緑色に気づくことが出来なかった。
あぁ、そうだ。ケーゴは苦笑した。
あの時も、気づかなかったんだ。あの子の姿はミーリスさんにすっぽりと隠れていたから。
「…だって、人間の男の子を紹介するなんて言われて…嫌だったんだもの」
聞いたことのない声。そのはずだった。
だが、背中に感じた温もりを、掌に触れた柔らかさを、心が覚えている。
木漏れ日のような、落ち着きのある温かい声。心地よくケーゴの耳をくすぐる。
予感のように、その声をケーゴは知っていた。
「…俺はさ。初めて会った時、すごく綺麗なエルフの女の子だなぁって思ったよ」
背中合わせ。お互いの体温がその存在を教えている。それだけで十分だった。
ケーゴは柔らかく微笑んだ。きっと顔を合わせていたらこんなこと言えない。
こんなに心が温かいのはいつぶりだろう。
「…バカ」
あぁ、いつもの不機嫌な表情を今しているんだろうな。
背中越しの言葉と共に、場面が切り替わった。
色のない路地裏。色のない獣人たちが緑色の服を着ているあの子に詰め寄っている。
そこに自分が駆け付けた。何かを獣人たちと言い争ったあげく、短剣で魔法弾を放った。
もはやあの時何を言っていたのかは覚えていない。
と、そこで彼女が呟いた。
「そうだ」
「何?」
「この時はありがとう。言いそびれてた」
「今更言うかよ」
ケーゴは笑った。きっと彼女も微笑んでいるだろう。
「初めてだったの。人間に助けられたのは」
「…そっか」
場面が切り替わった。自分がデコ助のあんちくしょうに追いかけられている。それをあの子は眺めながら、ゆっくりと歩いている。
「ケーゴはずっと私のこと助けてくれてたね」
「…うん」
場面が切り替わった。霧の谷だ。自分とあの子が命からがらあの化け物から逃げているのが見える。あ、靴磨きもいる。
「それは…私のことが……大切だから?」
「…うん」
場面が切り替わった。洞窟だ。機械人形と戦うために自分があの子を背に回している。
「いつからだろう、私、ケーゴの背中ばかり見るようになった」
遠い背中。放つ火球の熱は伝わるが、彼の温もりは感じない。
ケーゴは初めて戦う自分を見つめる彼女の表情を見た。
悲しそうで、悔しそうで。
「……」
黙ってしまったケーゴを彼女の体温が叱咤する。
「私もね、ケーゴのこと、大切に思ってるの」
海で、謎の人魚と自分が戦っている。駆けてきたあの子に向かって自分は怒鳴った。
「…そっか」
「だから、ケーゴが傷つけば悲しいし、ケーゴが苦しむのは嫌なの」
黒い化け物と自分が戦っている。遠くのあの子のことは見えていないようだ。
「…そっか」
場面が切り替わった。
今度は見たことのない場所だ。
相変わらず音もなく、色もない世界。だが、その状況がケーゴの心臓を凍らせた。
ここは家だ。家の中だ。その筈なのに、辺りが燃えている。
見たことのない男性が軍服を着た男と対峙している。その傍には血を流して倒ている女性がいる。
唯一の緑色。あの子が少し離れた場所で何かを叫んでいる。見えない壁でもあるかのように、宙を叩いて泣いている。
これは。この光景は。
軍服の男が剣を振り上げた。
脚を斬られた男性はもはや避けること叶わない。
「やめ…っ!」
思わず駆け出しそうになったケーゴの服を彼女が引っ張った。
動きを止められたケーゴはその理由を尋ねようとした。
しかし、それより先に彼女が言葉を発した。
「行かないで、ケーゴ…。どこにも、行かないで…!」
声が震えている。振り返ろうとしていたケーゴはしかし、その声に立ち止まった。
今、振り返ってはいけない。
立ち尽くすケーゴの眼前で男性が斬られた。
色のない世界に鮮血が散った。
音のない世界のはずなのに、ケーゴは確かに彼女の叫びを聞いた。
「…っ」
これは。この世界は。
「助けられてばかりなんて…嫌だよ…。守られるのだって、こんなに辛いの…っ」
「……」
「何でみんな私から離れて傷ついていくの…?」
「……」
「ねぇ、ケーゴ、教えてよ」
「…それ、は」
「私の気持ちはどうなるの?私、ケーゴに傷ついてほしくないのに…」
「……それは…!」
あの子を守りたい。ずっとそう思っていた。
守るために力が欲しい。ずっとそう願っていた。
だけど、守っていたのは。そして、守れなかったのは。
本当に必要なものは。本当に欲しかったものは。
――手を握り返したいと思うことはある…かな
唐突にヒュドールの声が脳裏に響いた。
はっとケーゴは目を見開いた。
あの子の手を握り返す。その意味は。
ゆっくりと振り返る。
「アンネリエ」
名前を呼ぶ。
彼女の顔がこんなにも近い。
潤んだ瞳がこちらを見ている。
「ずっとアンネリエのことを守りたいって思ってた。アンネリエのこと、大切で、大事で…何よりも代えがたいと思ったから、どうしても傷ついてほしくなかった。きっと、みんなそうなんだ。みんなアンネリエに傷ついてほしくなくて…自分の事なんてどうでもよくて…!」
「だけど、それは私も同じ。私もみんなのことが大事。だから、私もみんなのことを守ることに躊躇いはない。私は…自分が守られて当然だなんて思わない」
「…うん、そうだったんだ。俺、ずっとそれに気づけなかった」
「当り前よ。ケーゴ、ずっと私に背を向けていたんだから」
「…ごめん」
どちらからともなく、手を伸ばす。
「…手を伸ばすのは」
「あなたを信じてるから」
どちらからともなく、手を取り合う。
「…握り返すのは」
「俺も君のことを信じているから」
そして、手を握り合えるのは、お互いが近くにいるから。
「ねぇ、ケーゴ」
「何?」
「1つだけ…私が…私たちが守りたいのは――」