ミシュガルド冒険譚
穢れに捧げ、癒し歌:15
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アルフヘイムの船上ではニフィルが生焔礼賛の詠唱を続けていた。
彼女の足元に描かれる魔法陣は二重、三十と重なり複雑な文様を刻み続けている。
迸るニフィルの生命力と甚大な魔力を前にダート達は立っているのが精いっぱいだ。
「――舞う鎖、踊る焔」
それに構う余裕は今のニフィルにない。
――そうだ。こうして5年前も詠唱を行った。
ニフィルの脳裏にあの時の光景が蘇る。甲皇国がミシュガルドのアルフヘイム領海に侵入するという報せを受けた時からどれだけこの罪を思い起こしてきたのだろう。
頬につつ、と涙が流れた気がした。
今禁術の詠唱をしているのは5年前の自分なのだろうか、と不思議な錯覚を起こす。
「――希え、礼賛せよ」
一言一言。その全てが自らを戒める楔の様だ。
その楔は決して目に見えない。しかし、いつだって彼女の心を苛み続ける永遠の責苦。
ふいにニフィルの眼前に夫婦神が現れた気がした。
翡翠色の光の中、何かを必死に訴えようとしている。
ニフィルは心中で頭を振った。違う。これは5年前の幻影だ。
今はただ、あの怪物を、皆のために――
「――ニフィル・ルル・ニフィー」
「――愛しきアルフヘイムの仔よ」
ウコンとゴフンが口を開く。
同じだ。5年前と。
その絶望を、後悔を、無視してニフィルは詠唱を続けた。
夫婦神はなおも口を開く。
「――今や我らの力虚しく――」
「――しかし、我らが憂慮は転換をなした――」
「――見極めよ。汝らの在り方を――」
「――見極めよ。方舟が向かう新たな世界を――」
衝撃で詠唱が一瞬途切れる。
今、夫婦神は何を仰った。今の言葉は何を意味するというのだ。
違う。こんなこと5年前は聞いていない。
これは幻影ではないのか。
ニフィルが問いかけをしようとした瞬間には既に夫婦神の姿は消えていた。
「…っ」
混乱が彼女を襲った。
周囲を照らす翡翠色の光がかろうじて彼女に詠唱の事実を思い出させる。そうだ、今は。
「……怨嗟よ怨嗟、この怨嗟…っ」
生焔礼賛の詠唱を今すぐにでもやめてしまいたい衝動にかられながらも理性でそれを推しとどめる。
詠唱とも罪の意識とも別の焦燥がニフィルを支配していた。
5年前の禁術によって確かに夫婦神は消え去ったはずだ。
ならば今目の前に現れた夫婦神はただの幻覚か。否、確信を持ってそれは違うということができる。
「貫け、増えよ、滅されよ…!」
思考のさなかにも詠唱は紡がれ続ける。
ダート達の気配を探るに別段変わった様子は見られない。
つまり、今の夫婦神は自分にだけ、あの警鐘を鳴らしに来たのだ。
その真意はわからない。今はそれをじっくり検証する時ではない。
今や彼女の足元には5重に魔法陣が展開され、同様に怪物を包囲する巨大な魔法陣が海面に現れていた。
皇国とSHWの砲撃に気をとられていたその怪物はようやく自身を取り囲むその陣に気づき、それを破壊せんと腕を振るった。
しかし強固な魔法陣はその攻撃を弾き、逆に怪物が体型を崩した。
それによって荒波が起きる。
ペリソンやヤーがそれに目を瞠るが、波はその魔法陣によって艦隊への到達を阻まれる。
魔法陣の輝きが変化し始め、次第に白へと近づいていく。
それは、詠唱の終わりを意味していた。
「――輝く命、生ける焔、賛美せよ、羨望せよ、礼賛せよ!」
全身の力を、魔力を、生命力を、振り絞ってニフィルは叫んだ。
「禁忌解放、生焔礼賛!!」
天から白く輝く柱が現れ、海上の魔法陣へと至った。
その輝きは夜の帳を斬り裂く。
穢れた黒を全て消し去るかのような白。
それは間違いなく怪物を、そしてその周囲の黒い海を貫いた。
はずだった。