突然何かに抱きかかえられた。
固いもの同士がぶつかるような音がして、そこでようやくケーゴが自分の喉が三つ目の獣に食いちぎられていないことに気づいた。
恐る恐る目を開ける。まず目に飛び込んできたのは防具をつけた誰かの腕だ。それに先ほどの獣が牙を立てている。しかし、文字通り歯が立たないらしく飛び掛かったままのかっこうでぎりぎりと腕の主を押し倒そうとしている。
ケーゴは腕の主を見た。そこにいたのは、
「おねーさん…?」
シンチーだった。門番に追い返された彼女は交易所を囲む石壁を無理やり乗り越えてケーゴを探していたのだ。
ケーゴはシンチーの左腕に抱えられていた。彼女の右手は狼型の怪物の口に噛まれている。獣とシンチーの力比べは拮抗しているようで、小刻みに震えながら両者は睨み合っている。
どうして、と疑問を投げかける前に、獣が動いた。俊敏な動きでシンチーから間合いを取る。
シンチーが剣を抜き、獣に向ける。
「亜人…いや、半亜人か。飯の邪魔をするでないわ。このヌルヌット、食事の時間を何よりも大切にしておるのだぞ。ワシの知略によって屠られた人間どもの味はこの上なく極上…」
じりじりと様子をうかがいながら動くヌルヌットと名乗る獣。言葉には怒気がはらむ。
ケーゴはシンチーから離れようとしたが、シンチーは決して離そうとしない。
「…」
無言で対峙する。
シンチーは獣が飛び掛かってくることを予想していた。それ故に相手の一挙一動に細心の注意を払った。最優先にするべきは左手に抱えたこの子供だ。不本意ながらそれがロビンの命なのだから。
どのタイミングでとびかかって来ても、相手を貫けるように右手に神経を手中させた。
刹那、眼前で電気がはじけた。
「…!」
瞬時に状況を推測、把握した。恐らくあの獣は放電を行うのだ。この行動の次、相手がひるんだ隙に敵は逃げるか、襲い掛かるか。どちらにせよ剣を構えるのが最良、と判断してシンチーは来るであろう第二撃に備えようとした。
が、
「うわぁああっ!?」
放電に驚いたケーゴが腕の中で必要以上にもがいた。
内なる敵にバランスを崩される。その一瞬が命取りだった。
「…っ」
殺気で獣が接近していることが分かった。
もはや体勢は立て直せない。
シンチーはケーゴを突き飛ばし、
「ぬっ!」
「えっ…」
ヌルヌットの鉤爪を顔面で受けた。
あのままケーゴが暴れていたら、こちらの攻撃もヌルヌットの攻撃もどちらもケーゴ自身にあたりかねない。そう判断した故に突き飛ばした。
獣の爪はずしゃりとシンチーの顔の左半分を切り裂いた。額から頬にかけて血があふれる。左目もつぶれた。
しかし、それを意に介さずシンチーは顔面で受け止めた前脚を掴む。動けなくなったヌルヌットの腹めがけてシンチーは剣を突き刺そうとした。
「そうはいかぬわっ」
ヌルヌットの全身から電気がほとばしる。思わずヌルヌットの前脚を離してしまった。ヌルヌットは器用に後脚のみで後方へとジャンプし、そのまま森の奥へと駆けて行った。
逃がしたか。
裂かれた目が今更のように痛みだす。シンチーは剣を鞘に収めた。
そしてへたりと座り込んでいるケーゴに冷たい視線を向けた。
「…あなたが動かなければ」
上手くいった、とまでは言わずに近くに腰を下ろした。
ケーゴはおびえながらシンチーの顔を凝視している。
それを無視してケーゴの足首に触れた。ケーゴは顔を歪ませた。
足を痛めていることを確認したシンチーはケーゴに問う。
「鞄の中に応急手当てができるものは」
その言葉でようやくはっとして、ケーゴは慌てて鞄をまさぐる。
「俺より先におねーさんを…」
「いらない」
即座に否定されてしまった。だがケーゴは必死に言う。
「いらない訳ないだろ!?おねーさん、そんなひどい怪我…」
「…誰のせいだと思ってるの」
だがシンチーの言葉で打ちのめされた。
黙り込んでしまったケーゴの脚に応急処置を施す。冷やすものがあればいいのだが、そんなものはないため固定だけだ。
日が落ち始めていた。ただでさえ薄暗い森がさらに不気味になっていく。
さて、どうしたものか、とシンチーは考える。
先ほどの獣、ヌルヌットといったか、はただ逃げたわけではない。確実にこちらの消耗を狙っている。だからこそ最初の電撃の際にこちらに攻撃してきた。
一対一の勝負で負ける気はしない。それは相手も同じだろう。だからこそ、怪我をさせて、動きを封じ、機会をうかがう。恐らく、このまま夜になって、動けなくなったところを狙うつもりなのだ。あるいはほかの動物に襲われたところをおこぼれにあずかる気かもしれない。
どちらにせよ、早くこの森を脱出した方がいい。しかし、このお荷物が邪魔だ。
なら、ここで一晩過ごすか。それも本当は避けたいところだ。なにせ来たばかりのまったく知らない森。そもそも夜行生物がどれだけいるかも、その危険性もわからない。
そんなことを考えている間に顔がほてるのを感じた。
シンチーは顔の左半分のほてりが冷めるのを待ち、血をぬぐった。
うつむいていたケーゴはのろのろと顔を上げ、驚いた。
「おねーさん、怪我が…」
顔の傷はすっかりなくなり、眼球も元に戻っていた。
「いらないって、言ったでしょ」
半亜人たるシンチーは異常な回復能力を持っている。故に肉を切らせて骨を断つ先ほどのような戦術をためらいなく行う。
消沈していたケーゴはのろのろと笑顔を作った。
「そっか…、ほっとした。俺のせいでおねーさんが大怪我してたらどうしようかと思ったんだ」
「…そういうこと言うのだけは達者ね。何もできないくせに」
にべもない。
「…ごめん」
ケーゴはぽつりとそう呟いた。
すでに気づいていた。自分がつまらぬ意地を張って森に来たことが原因だということに。唯一の護身である剣も持たずに、歩き回った結果がこれだ。自分はボロボロになってしまったし、おねーさんまで巻き込んでしまった。
トレジャーハンターなんて強がりもいいところだ。なんの力もないくせに余計に動き回ってばかりで、昼間言われた通り、口だけはでかい。
何が富だ。
何が名声だ。
……全くの無力じゃないか…!
じっと足の痛みに集中した。
そうしないと、心の痛みにばかり気がいってしまいそうで。
足の痛みは耐えられるけど、こっちの痛みは泣いてしまいそうで。
無言のまま、ケーゴは空を見上げた。
だが、鬱蒼とした黒い森の中から、空を見ることはできなかった。