Neetel Inside 文芸新都
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俺は診察室の横に立って巨大なガラス窓に写る自分の姿を見つめながらさっき奈津美に聞いたことを一つ一つ頭の中でなぞっている。お袋の病状とその原因。空調も効いていない冬の廊下は恐ろしいほどに静かで冷たい。光太郎たちはみんなもうどこかそのへんに散ってしまっていて俺が連絡したときに集まって帰ろうと言っていた。やつらなりに気を遣っているつもりなんだろうと思うし俺もそれに甘えている。数分前奈津美は待合席で座って黙る俺たちにコンクリートみたいに真剣な顔で、急ぐわけでもなく一言一言言葉を選ぶように、要所をかいつまんで説明を始める。
「啓介のお母さん、早瀬静さんね、発見されたのが昨日の夜10時過ぎで、隣の家の人...中村やっけ? そのうちの旦那さんが仕事帰りに玄関あいてるし、真っ暗なんを変に思って訪ねてみたら靴置きのとこで倒れてる静さん見つけたらしいわ。
そんで静さんの病気なんやけど、けっこう前に検査で脳腫瘍の可能性が見つかっててね、まぁ遺伝的というか、実は静さんのお父さん、啓介のお爺さんね、お爺さんもそうやったらしいんやけど、静さんそれ以上検査は行かんようになってね、なんでかなぁ。
病気には段階があるのは知ってるやろ、ステージ1とか2とかさ、はっきり言うと遅すぎたんやな、もうほぼ末期に近いわ。脳腫瘍ってな、頭の中でどんどんでかくなってくんやけど、でかくなると脳も圧迫されて頭痛とか嘔吐とかが激しくなるんよな。脳ってさ、人間の感覚器官の大元やんか。やから圧迫されていくと体がおかしくなってくんよな。視力がなくなっていったり、手足が麻痺したり、食べ物が上手く飲み込めへんくなったり。あと、記憶もな。幸い当面の峠は越したけど、まだどうなるかはわからんし、今は眠ってても起きたときに今までの記憶があるかはわからん。覚悟はしといたほうがいいよ」
俺はお袋に持病や疾患の類のものがあるなんて話は聞いたことがない。少なくとも米原にいた8年前まではそうでまだ見つかってはなかっただろう。お袋が話さなかっただけかも知れないが。俺はお袋の頭の中で今も少しずつ成長していく腫瘍のことを想像する。その脳腫瘍なんかのことはよくわからないが、それはきっとたぶん風船に限りなく近いものなのだろう。世界の誰にも気づかれない速さで執念深く膨らみ続け、やがてそれはパン!と目に見えず音も立てず破裂する。空気の代わりにドロドロした血液を飛ばして。赤より赤い風船は死そのものだ。俺は俯いて自分の靴以外なにもない灰色の床に目を落とす。そこにある暗い影と俺自身の影とが混ざって微かに反射する俺の顔には何もなく真っ黒。そうかお袋が。お袋が...


お袋が死ぬ?


そこまで考えてようやく俺は死の存在を、お袋が死ぬという事実を自覚する。ああ死ぬのか。恐らくは奈津美のあの口ぶりだと余命も長くはないのだろう。あれだけ殺してやりたいと思っていたお袋が死ぬ。呪いに呪ったなんど夢の中で殺し殺されたかわからないお袋が死ぬ。俺や誰かに殺されるわけじゃない、いつ来たかもわからないような存在すら認知していなかったものにお袋はもうすぐ殺されるのだ。
そんなこと許されていいのか?
俺はお袋を憎んでいる。もし仮に殺したとして何の罪や社会的制裁を受けることがないのならば俺はお袋を殺すだろう。当たり前だ。結果的にこれまでにお袋は俺に今までにした仕打ちで罪に問われたり罰を受けることはなかったけれど、実際受けていたとして俺の憎しみはそんなものでは取れない。ある日突然事故に巻き込まれたりして、もしくは今みたいな病で死んでしまうことはお袋の俺の望む結末には程遠すぎる。軽すぎる。そこらへんで死んでいくやつらと変わらないじゃないか。
罪を犯したものには罰があるべきだ。その罪が法に触れるとか触れないとかそういう問題ではなく、何らかの裁きがあるべきだ。ただの不慮の死はそれに該当はしないだろう。もし万が一その不慮の死が神様から下された罰だとしても俺はそれは適当だといえない。例えば殺人という過ちを犯した人物がいたとして、彼もしくは彼女が懲役30年という罰を負ったとする。そして30年立派に刑務を務め上げて出所するとする。
いや果たしてそれだけで罪の重さとしては充分でその人物は罪を償ったと言えてもう許されるべきなのだろうか?
違う。俺は胸を張って叫ぶだろう。そんなことはない。そもそも人の犯した罪とは贖罪を通したとして消えるものなのかもわからないが、仮に消えるか許さるかがあるとしたらそれは最低その罪によって被害を被った人々の許しがいるはずだ。そうでなければ世の中は理不尽すぎる。さっき言ったように人を殺したとして30年や死刑じゃ足りないのだ。被害者の心の綻びが放置されたまま許されるなんてそんなことがあってたまるか。たまるものか。
薄暗い闇をかき分けて俺は歩き出す。足音は狭い通路に反響してどこか遠いところへ徐々に消えていく。診察室へ入ると様々な医療機器の光が暗闇に色を映し出している。赤、青、黄色。その空間の中、中央には静寂に据えられた一台のベッドがある。
お袋がいる。
俺は黙ってお袋を見つめる。お袋の顔は若さを無くし肌からは張りやツヤが取れて抜け落ちていて、その代わりに深いシワと黒っぽいシミがたくさんできている。手術後のせいで頭には厳重に包帯が巻かれて額の横から白髪が数本垂れて出ている。ずっと見ているとなんだか俺の知っているお袋じゃないみたいで赤の他人の老婆だと誰かに言われてもたぶん俺は信じれる。お袋の瞼は重そうに閉じられていてそのまま2度と開かないんじゃないかって思える。まるで動かないから本当に死んでるんじゃないかと思って隣にある生命維持装置を見るけど、脈はある。視界の隅に生命維持装置を繋ぐ白いコードがあってそれを目で追っていくと壁のコンセントに突き当たる。
俺はそっと屈んでコード上を撫でるように手を動かし、コンセントの付け根に指を置く。
これを抜けば全て終わるのだ。

       

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