Neetel Inside 文芸新都
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だから老婆の家に入って庭園の傍にある居間に布団が敷かれた時は正直すごくありがたかった。老婆は皿の上に薪みたいに重ねられた5個のドーナツを居間の机の上に置いた。「お腹空いてるやろ、食べや。寝たかったら寝てもええし」
俺がお礼を言うと老婆はうんうん頷いて渡り廊下の方へ歩いていった。お腹も空いてたけど、俺は自分でも驚くくらいのスピードであっという間に皿の上のドーナツを平らげる。
裏の山のよくわからない鳥の声を聞きながら俺は布団にゴロンと横になって寝る。意識はすぐに睡眠欲の濁流に飲み込まれて流れていく。そして俺は夢を見た。そこでは俺の殺したあいつとあいつの尻尾が二階建ての民家ぐらいの大きさで並んでいてお互い日本語を喋っている。お袋もいたけどギャーギャーうるさいからあいつにパクっと食べられて、吐き出された時には肉が削がれた骨だけになっている。ざまあみろ。俺は笑っていたけど同時に泣いてもいて、骨の一本一本を手にとって眺めていた。これはお袋のいつかなんだ。ありふれた将来の一つなんだ。あいつの尻尾が縮んで俺の口に飛び込んでこようとするけど、俺は骨でそれを叩き落とす。バチン! そうしたら後ろのあいつが怒って怒鳴る。「なにやっとんねん!」俺はうんざりしながら言う。「いつまでやるつもりやねん」「お前かてそうやろが!」「まだ冷静になったよ、お前もいい加減変わらんか」「うるせえ!」「聞いてるやろ」「うるせえんじゃボケ!」「もっぺん殺したろか」「それはなんも意味ないやろが!」「あるわアホ。今のお前なら意味あるわアホ」「あ? お前裏切るんか?」「裏切るもクソもねーわ。お前があかんことやろうとしてるから止めるんじゃ」「......」「うん、ゆっくり考えよ。まだ時間はあるし」
ゴジラみたいなそいつは縮んでオレンジ色の尻尾を握ってどこかへ行ってしまう。そこで俺は目が覚めた。掛け時計を見上げるとまだ数十分程度しか経っておらず、布団から立ち上がって御堂に行くと、だだっ広い空間の向かいには徳の高そうな顔をした金色の観音が蓮の上に立っていたから、俺はよく見るために真ん前まで行って座る。観音は何も語らないし俺も何も言わない。御堂は半分腐りかけた畳の匂いが満ち満ちていて、じっとり臭いし自分にもカビが移りそうな不思議な気持ちになるのだけれど、何故だか俺はこの匂いが好きで呼吸する度に心が落ち着くようだ。
そうしていると渡り廊下から老婆がゆっくりとやって来て、座っている俺に真っ白い布を放り投げた。上着だ。老婆は着るように促して俺もその通りにする。身体中をまばらに出来た青アザは白い上着に包み込まれ温められた。痛いけど、いつもの自分に戻ったみたいだ。
「あんた早瀬さんの孫やったなぁ」
俺が頷いたのを見ると老婆は優しく笑って観音像の後ろ、段差を越えた御堂の奥にいって、こちらからは見えないけれどしばらく何かを探すような仕草をして、おおあったあったと大きな声で言う。そして手に持った二つの写真立てを俺の手前に置いた。
「これ、いつやったか預かっててって言われてなぁ。ここに置いてたんよ」
それぞれ写真には祖父と祖母が写っていた。遺影だった。
「拝むんならおじいちゃんとおばあちゃんもいたほうがええんちゃうか」
「そうかなぁ、まぁ一応」
俺は祖父と祖母とあと金色の観音に向かって拝んだ。まぶたを閉じて自ら恐れながらも暗闇を望んだのである。燃料とエンジンを積み込んだ飛び去っていく何かの音が聞こえてくるような不安を感じなくもなかったけれど、また特別な質量を持ちながら触れ得られざる観音の存在は俺に零れ落ちんばかりの平穏と安らぎをもたらしてくれる気がした。しばらくしてまぶたを開いて老婆が僕に語りかけた。
「落ち着いたやろう」そう老婆は顔の皺を一層深くしながら微笑をたたえている。俺の手前には大きなどんぶりみたいな鐘があって、俺はその中の小ぶりの棍棒と見紛いそうな気の鐘つきを手に取る。年季の入って全体が黒ずんだ鐘つきはちょうどよく俺の手に馴染み摩るとすべすべして気持ちいい。
「俺は仏教徒じゃないけど、悪くないよ」
「ええこっちゃ」
「なぁ、この鐘つきどういう時に使うん?」
「あぁそれなぁ」老婆は胸の前で手を動かして鐘をつくフリをする。「うちは法事のときに、拝むときに金を鳴らすようにしてもらってるんよ」
「わざわざなんで?」
「うん、これは婆の考え方やけどな、死んだ人に聞かせるためにや思うねん」
「死者に?」
「私はここにおるでーって知らせるんやな、もしかしたら死なった人の魂とかはそこらにふわふわ浮いてるかもしれんね。魂も音聞こえてたら安心するかもしれんや」
「魂に耳もないんちゃうの」
「まぁもしもや。ほうやって思っとったら残された人らも少し楽にもなるしやなぁ。やることの全部ほんまの意味なんて難しすぎて考えてたらいくら時間あっても足らへんや」
老婆はそう言って自分の手をこすり合わせる。小さなシミだらけの手。
「一つ一つ、自分なりの意味をはめてくしかないんやでな」
俺はその言葉にハッとするような心境で老婆を見た。自分なりの意味。自分なりのか。
「俺が生まれたのにも意味がある?」
「そうやね、あるかどうかは婆にはわからんけど、考えていく一つやな。根深い話やで、難しいけどな」
「どやって考えればええん?」
「好きなふうにすればええよ。ほうな、坊が成長してく中で色んな経験して、自分に吸収したときにもう考えは出てるんちゃうか」
「面倒くさいな」
「そんなもんや、人生面倒な事ばっかりや。でも、生きるってほういうことやでな」
「なら今考えてる俺も生きてるんやな」
「生きることはなんにでも通じるねんで」
俺はずっと老婆の言うことを考えていて、抑え込んでいたはずの自分の中に膨らんでいく感情はいつの間にか横隔膜のあたりにまで達していた。俺は無自覚に揺らいでいたんだ。拒絶されるかもという恐ろしさと入り混じった、言わば理解されたいという願望は止められるはずのない重みを含んだ言葉となって唇を割いて放たれた。
「俺お袋に憎まれてるんや」
俺の心のどこかにある強い感情はまた言葉を続けさせる。「なのに誰も俺を見てくれへん」

       

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