Neetel Inside 文芸新都
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カバンを背負って部屋を出て通路を90度左に曲がると階段があり降りて行くと約10年ぶりの伊角光太郎がそこにはいた。
「何年ぶりやろな啓介、懐かしわ」
車で来たらしい光太郎は真っ黒に日光を吸い込んで静かに照り返すその扉を背もたれに俺に手を上げて挨拶する。俺より2歳上だからまだ28のはずだが、久しぶりに会った光太郎の頭には白い髪が目立っている。よく見ると顔にシワも細く線を引いていた。
「急にコーちゃんが引っ越すからや。あんときめっちゃ驚いたんやで俺」
「あーすまんかったな、あんとき親父が広島転勤なったからよ急に」喋りながら光太郎は助手席の扉を開き、俺に乗るように促した。
「叔父さん確か土建屋やっけ」いくら冬とはいえ三月にもなると太陽の日は肌を軽く焼ける温度を持っている。段差を越えて黒のワンボックスカーに乗り込むと絶妙なバランスで保たれた車内の空調が俺の肺にスーッと入り込んだ。カーラジオからはノリのいいテクノポップが流れ、車内の後方に目をやるとファンシーなぬいぐるみのキャラクターたちが仲良く横並びに整列している。荷物を食って重さを持ったカバンを後ろの席に投げると車が小さく一度揺れて、それを抑えるようにして光太郎が運転席に乗った。
「俺はようわからんけど、まぁそうなるんかな。今でも西に東に駆け回って橋の建築やってるわ」「へぇ」気の抜けた世間話だった。俺は聞きたいことを聞く。「ほんでこれからどこ行くつもりなん」光太郎がエンジンを掛け直しながら言う「滋賀」
話がよくわからなくて混乱することはたまにあるけど、わからなすぎて唖然としたのはこれが初めてだった。思考に奔流する空白の波。なんだって、滋賀?「ちょお待てや、なんで滋賀やねん、実家?」車は緩やかに発進して脇の国道に出る「お前ほんまになんも聞いてないんやな」「何をやねん」「もう少しゆっくり話したかったんやけどな、啓介、落ち着いて聞けや」休日だからか道がかなり混雑している。俺たちの車が交差点で止まり、深い溜息をついたあと光太郎はダッシュボードの上の煙草を一本抜いて口に咥えて火をつけた。「叔母さん倒れたらしい、昨日の話や」
何秒間の間言葉を失っていたかはわからないが、次に口を開いたとき、俺の声はわずかに上ずっている。
「え、あ、冗談やろ」冗談のわけがないことはこうして光太郎が訪ねて来たことでも光太郎がこういう嘘をつくわけがないことでもわかっていたが、何故か俺はその時そう言った。「なんでや」「俺もようわからんけど、なんか持病があったらしいな」信号が変わって再び車が動き出す。光太郎は短くなった煙草を窓の外へ投げて捨てる。「叔母さん一人暮らしやろ、たまたま玄関開けっ放しにしてて、夜になってもそうやから不審に思って見に来た近所の人が気付いたのが運が良かったな。最悪の事は免れられたみたいやけど、まぁまだどうもちょっと状態がまずいみたいや」
俺はパニクって先程言われたことを聞いてしまう。「いつの話や」「やから昨日や、昨日の22時。倒れたのはもう少し前みたいやけど、お前連絡なかったか」
驚愕して俺はズボンのポケットからケータイを取り出した。電源は昨夜消したままだ。慌てて電源をオンにすると、穂花からの大量の通知の中に数件非通知の電話が入っていた。しまった。
「お前と連絡つかんて言うからよ、埼玉住んでる俺が迎えに来たんや。住所は叔母さんがお前に送った手紙でわかった。啓介、お前、まだ喧嘩してるんか」
光太郎や親戚連中は俺が虐待を受けていたことを知っていた。はじめのうちは皆それを咎めたが、お袋の親父との事もあったし、表向きにはお袋はまともにしていたからそれ以上俺たちに干渉することはなかった。皆厄介事になんてなるべく関わりたくないのだ。そのことに対して何も思わない俺じゃないけど、何をしたってどのみちお袋は変わらなかっただろう。
「許せると思うか」
「そんなん言ったってずっとそれ続けるつもりか、死ぬまでか」
「わからんよそんなん、でも許す気はないって言ってんねん」
「お前の叔母さんかて可哀想な人や。辛いのはわかる。息子やったらそこらへん理解したれや」
「途中でどっか行ったお前に何がわかんねん」
俺は上着を脱いで上半身を裸にし、背中を運転中の光太郎に向ける。
「何なんや」「お前が広島だか行ったんは確か高校入る前やったな。俺のあんときの傷痕の数なんてお前知らんやろうけどよ、あのクソババアその頃から煙草吸い始めたんや。見ろよ」俺は腰骨の上にある、そこだけ肌がボロボロの焦げ茶色の円を指す。「これは煙草の火突っ込まれた跡や。消そう思って引っ掻いたりしたら肌が崩れて余計大きい跡なったわ」「......」他にも俺の傷痕はたくさんあったが、もう言わなくたって光太郎は全てを察していただろう。「傷痕ってのは残って消えんから傷痕なんや。俺の傷痕は全部あいつにつけられた。一つ一つ見るたびに俺はあいつをもっと許せんくなる」

       

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