Neetel Inside 文芸新都
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 ストーキングの楽しさはもっと別なところにあるんだ。さてストーカーは大別すると二種類に分けることができる。人間同士の信頼関係の深さは、どれだけ互いのことを知っているか、と述べた人物がいるけど、ストーキング等の行為を経て相手のことを知り、自己の頭の中に存在する一種の偶像ともいえる相手に対し信頼を深めていく、というような思考のストーカー。これがひとつ目。僕なんかはこれだね。いうまでもなくそれは一方向的な信頼であって、とても信頼関係とはいえないわがままなものだけど、それでも僕たちはストーキングを繰り返し、なぜか相手という名の偶像と分かり合っていく気分に満たされていく。このプロセスがどうしようもなく快感で、ストーカーをしてしまうというわけ。
第二に、相手を心理的に追い詰めることによって快感を得るストーカーがいる。支配欲求とそれを忠実に行うことよって同時に満たされる自己肯定感からくるものだね。彼らは個人の日常生活では向けることのできない相手に、その倒錯した愛情を向ける。だからこの場合のストーキングは見知らぬ人間相手ではなく、僅かに日常から手の届く範囲、例えば知り合って間もない人物などに向けられることが多いね。
実際に、それらのストーキング行為の行き過ぎた例としてさっき言っていたストーカー事件が挙げられるね。僕なんかはちゃんと現実と脳内の区別はできているつもりだけど、彼らはきっと、自分の偶像と現実の相手とのギャップに耐えられなかったんだろう。後者のストーカーなら、支配欲の行き過ぎといえる。まぁ、ここで事件などを起こすか、きちんと割り切ることができるかがストーカーであるか単なる犯罪者であるかを分けるラインともいえるね。僕がストーキングを始めたのは、1998年の秋のことだ。あのとき僕はまだ学生で、埼玉にある大学に通ってた。そのとき出会った女性に僕は、まぁ恋慕に近い感情を抱いてしまって、ストーキングをしちゃったというわけ。そうだね、夜も長いから、今夜は君たちにそのとき起こったとある出来事について話そうかな。あ、恋愛ドラマみたいにロマンチックじゃないから、そこらへんは期待しないでね。でも怪談みたいに怖いわけじゃないから、蝋燭は持たないでくれよ。トイレに行きたい人はいないね。しばらく長くなるから、行きたい人は今のうちに行って来て。
 さあ、もう準備はいいかな。なら始めようか。僕の若い頃、薄暗くて、でも確かに輝いてみえた青春の一ページ。そうか、あれからもう17年になるのか。

       

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