Neetel Inside 文芸新都
表紙

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 夕方、母さんに頼まれた買い物への道すがら、僕はゆっくりとした歩調で町並みを歩く。買い出しを頼まれたのはオムライスの材料にする鶏卵で、つまるところ今日の夕飯なのだが、食事の時間までは余裕がある。多少散策していっても構わないだろう。
 一応、ポケットに手を突っ込んで、中の銭を確認しておく。母さんには卵の特売を別の日だと言っておいたから、多めに持たされている。余った分はくすねてしまおう、と心に決めた。
 顔を上げると、歩道の隅に立つ木の梢は、いくぶん葉を失っている。もうじき、色味のある秋の深まりは終わりを告げて、命のない季節が取って代わるだろう。
 この辺りは滅多に雪が降らない。だから白銀の絨毯なんて目にすることは叶わず、冬はただ寒いだけ。そもそも、道路の脇にあるこんな申し訳程度の草木で、四季を味わえというほうが無理がある。大して有益な建物なんか造っていないくせに、地面をコンクリートで塗り固めることだけには、心血を注いでいるらしい。僕は、自分が風情を解さない因を地域開発になすりつけてすっきりすると、はた、今日の三石くんとのやり取りを思い返した。
 考えておくと言ったものの、僕の心には、彼の勧めたサークルに入ろうという気持ちはほとんどなかった。ただあの場を乗り切るために、一時しのぎの返事をしておいただけだ。しかし――学校の人間関係は居心地が悪いんだろう?――彼の得意な顔が思い出され、僕はその言葉を反芻する。本当にそうだろうか。確かに中学でいじめを経験してからというもの、クラスメイトに対する劣等感だとか、窮屈な感じだとかが(もっとも、それはいじめ以前にも存在したかもしれないけれど)あるのは否定できない。でも、だからといって学校を抜け出して、他に知り合いをつくったら何かが変わるのだろうか。人に好かれない原因はもっぱら僕の方にあって、どこに行っても同じことの繰り返しなのではないかという、確信にも似た予感が僕にはある。だとしたら、もう二度とあんなことは経験したくない。楽しいものじゃないのだ、正直。
 考え事をしながらあてどもなく歩いていると、いつの間にか普段の通学路に入っていた。道順なんてまるで意識していなかったのに自然と学校へ向かうなんて、僕もすっかり訓練されている。
 遠目に見ると存在感のある白い校舎を、小高い丘の頂に眺めて、その麓、僕の正面にあたるT字路の真ん中に、二つの人影を見つける。遠くにあるそれに目を凝らしてみると、果たして、人影は藤崎さんと大村くんだった。藤崎さんが何やら明るく話しかけて、大村くんは言葉少なに、けれど穏やかな顔をして応えている。反射的に、僕は睦まじい二人に理不尽な憤りを覚え、それとほとんど同時にわき起った自己嫌悪に押されて、道を引き返す。
 しかし、
「あ、近藤くーん」
 呼びかける藤崎さんの声で、僕の逃避は阻まれた。彼女は大村くんに手を振って別れると、こちらに駆け寄ってくる。
「よかったの? 彼」
 僕が訊ねると、一瞬なんのことか図りかねたようだが、すぐに彼女は気付いて、
「うん、もうこっから家は別方向だから」
 にっこりと笑ってこちらに近づく。
 彼女はまだ制服を着ていて、スポーツバッグを肩に下げている。部活で学校に残っていたんだろう。
「近藤くんはなんでこんな時間に? 家の用事?」
「そんなところ」
「へぇ……そっか」
 僕が歩を進めると、小さな歩幅で横について来る。
 それきり両者とも静かになって、そわそわとし始めた藤崎さんから会話を切り出した。
「メール、アドレス交換したんだからしてくれてもよかったのに」
「特に用事もなかったから。それに、連絡しなかったのはお互い様でしょ」
「ごめん、そうだよね」
 こちらとしては咎める気もなかったのだが、彼女は力なく萎れてしまう。
 この間から、どうも彼女とは距離感が上手くいかない。それどころか、どういう関係を目指しているのか、目標を探す糸口すら失くしてしまったような。どうせしばらくは委員で顔を合わせるのだから、本当は嫌々にでも取り繕うべきなのだろう。頬をひきつらせながら荷物を背負い直す、彼女のいじましい姿を見て、僕は話題を放り込んだ。
「そういえばさ、銀行とか商店街がある通りから、二本東にいったとこあるじゃない」
「……ああ、アパートが並んでるところ?」
「そうそう。あのあたりって治安悪いの?」
「えっ、どうだろ。そうでもないと思うけど、どうして?」
「それは――」
 僕は、最近自身が体験した唯一の関心事を話そうとして、固まった。レイプの現場に居合わせたなんて、女の子にする話ではないだろう。しかし口火を切った以上、会話を取り下げるわけにもいかない。
「実はこの間、その辺りで子どもがカツアゲされてるのを見たんだ」
「えっ、本当?」彼女は驚いて、「それで、近藤くんはどうしたの?」
 質問してくる。適当に手を加えた話だったけれど、思わぬ反応が返ってきた。
「どうしたって……」
 その場を立ち去る以外に取り得る行動があるだろうか。
 いや、頭では分かっている。例えばその場で不良たちに立ち向かって子どもを助けだすとか、警察に電話して事を収めるとか、いくつかの選択肢があるのだろう。けれどそんなもの、僕にとっては絵空事だ。できるのは、自分の器量を超えることには目を背けて、知らないふりをすることだけだ。しかし、目の前の彼女が期待しているのは、まさに先の選択なのだろう。
 自分の姿をまっすぐに映す大きな瞳にたじろぐ。そして怯えた僕は、嘘の言葉を口にした。
「僕は不良をやっつけるなんてできないから、その、不良たちがどこかに行ってしまった後、子どもにお金をあげたよ、千円」
 自分からかけ離れた嘘をつくのが怖くて、精一杯ありえそうな話をつくる。すると藤崎さんはくすっと吹き出して、そのあと大きく笑いだした。
「あはははは、ははっ、ははは」
 息をするのも苦しいといった具合に体を丸める。顔が紅潮して、必死になって手で赤い顔を覆っていた。僕は自分の臆病がバカにされたか、さもなくば嘘が見透かさたかと思って胃の中が気持ち悪くなる。
「そんなにおかしい?」
 苦し紛れの発言で、彼女はやっと笑いやんだ。
「っふ、ごめん違うの、そういうわけじゃなくて。なんだかすごく、近藤くんらしいなって」
「そうかな」
「そうだよ。近藤くんていい人だよね」
 彼女は僕を見上げて、憧憬、みたいな表情を見せる。僕は自分がついた嘘の重さにつぶされそうになって、慌てて顔を逸らした。
「そうだ」
 なおも愉快そうな声のまま、藤崎さんは何かを思いついたように口にした。
「ご褒美、あげよっか」
「え?」
「通りがかりの子どもを助けたご褒美。だって千円損しちゃったんでしょ。それに、ちょうど下見に行こうとも思ってたし」
 僕が言葉の意図を理解する前に、彼女は先陣を切って、意気揚々と歩き出した。


****


 藤崎さんに連れられて来たのは、こじんまりとした喫茶店だった。
 太っている人などは引っかかってしまいそうな民家の隙間、奥まったところに簡素な木製の扉があって、それを開くと、店主のいるカウンター席と、三つのテーブル席のある内装が迎えた。木造の店内に、暖色の照明が柔らかい光を注いでいる。カウンター席の端には異国風のアンティークが雑多に置かれていて、店主の趣味をうかがわせる。いかにも、個人経営の道楽といった風情の店だ。
 藤崎さんは慣れた様子で店主に挨拶すると、最奥のテーブル席に備えられた、深紅のソファに腰かけた。僕はこういうところに入る機会がないから、しばらく立ちすくんでしまう。
「こっち来て座りなよー」
 促されてようやく、彼女の正面に座った。
「いい雰囲気のお店でしょ」
「そうだね」
 なるほど、下見というのは文化祭の参考という意味だったらしい。
「今日は私の奢りね」
 藤崎さんはメニューを開くと、満点の笑顔で僕に差し出した。
「悪いよそんな、奢りだなんて」
「遠慮しないで。言ったでしょ、ご褒美って」
「それじゃあ、藤崎さんがまるまる損じゃないか」
「だったら、次は私に奢ってよ。そしたら、お礼にまた誘うから」
「永遠に終わらなくなるよ、それ」
 僕が呆れると、
「私はそうしたいんだけどな……」
 なんて、机に向かっていってのける。
 一体、何が彼女にこんな大胆なことを言わせるのか。僕はその正体に気付いていながらも、愚かしい男のサガで、内心舞い上がってしまう。よくない流れだ。
「注文決まったよ」
 淡泊に会話を断ち切って、一番安いコーヒーを頼んでおいた。
 二人分の飲み物を待つ間、僕は店内を見回す。客は僕らだけで、二人の身動きの他には、カウンターから聞こえる食器の触れ合う音と、コーヒーメーカーの湯が沸騰する音しかない。僕は店主の目を盗んで藤崎さんに顔を寄せ、囁く。
「ねぇ、このお店っていつもこんなに空いてるの? よく潰れないね」
「ふふ、ほんとにね。裏で怪しい経営でもしてるんじゃないかーってくらい」
 僕と違って、彼女は声を抑えるでもなく応じる。発言を聞いて、カウンターでコーヒーを淹れていた店主の眉がひくと上がった。痩せぎすで眼鏡をかけた彼はちょっと強面で、頼むから藤崎さんには気を使ってほしいと思った。
 しかし僕の言外の願いは伝わらなかったようで、藤崎さんは気にせずに続けた。
「これでも最近は繁盛するようになったほうなんだよ。たまに他のお客さんを見かけるんだから」
 以前は藤崎さんしか来ていなかったのだろうか。
「私が口コミしたの、学校の友達に」
「僕にしてるみたいに?」
「そうそう。マスターには感謝してもらわなくちゃ」彼女は首を伸ばして、「ねー、マスター」
 とカウンターに呼びかけた。
 マスターと呼ばれ、彼ははじめてこちらを向くと、優しく微笑んだ。よかった、怒っていたわけではないらしい。
 そして、僕に向き直った藤崎さんが「マスター、気を遣う人なの」と言ったとき、入り口のほうから、ドアベルの音が割り込んできた。
 噂をすればというやつだろうかと横目で見ると、入ってきたのは三人組の男女だった。僕からすると気取った私服に身を包んだ彼らは背も高く、おそらくは年齢も上だろう。大学生くらいだろうか。だから多分、藤崎さんが口コミした相手とは違うのだろうな、とそれは別によかったのだけど、彼らは少しおかしかった。
 僕が三人から意識を逸らせなくなったのは、その装いのせいではなく、彼らの間に漂う――形には見えない繊細な――ムードとも言うべきものからだった。
 三人の中心にはハンサムな男の人があって、彼の両脇を二人の女性が固めている。男性の右手には、黒髪が風船みたいなスカートの腰まで届く、楚々とした女性。左手には、ショートパンツを履き、短い髪型をした、ボーイッシュな女性。一見して、まさに両手に花という役得を享受しているはずの男性はしかし、さえない表情だ。優しそうな顔に笑みを浮かべてはいるけれど、眉尻は落ち、ハの字に曲がっている。落ち着きなく顔の筋肉を動かす彼をよそに、女性たちの表情は能面の様だった。感情をすべて洗い流したような面の奥に、窪んだ眼だけが静かに激情を湛えている。二人の女性は男性をへだててそっぽを向いているのにもかかわらず、互いに意識するのを隠せていない。
 これでは両手に花どころか、まるで板挟みのようで、有体に言って男性は可哀想だった。
 僕と藤崎さんは、来訪者の異様な空気を感じ取って口をつぐむ。すると僕らを見つけて、冷や汗すらかいていたハンサムな男性は、女性陣を引きとめる。
「まずいよ、他にお客さんがいる」
 と小声が聞こえてきた。
「あら、なにがまずいのかしら。私たちは話し合いに来ただけでしょう」
 逃げんなよ。と、口には出さなかった短髪の女性がソファにどかっと座る。その横にもう一人の女性が、二人の正面に男性が腰を下ろした。彼らが陣取ったのは真ん中のテーブル席で、三つしかないテーブル席のうちの真ん中というのは、つまり僕らのすぐ目の前である。どうして間を空けないんだ! 僕は叫びだしそうなのをこらえて、藤崎さんの肩越しに彼らを見つめた。女性陣を挟んで正面にあたる男性と、目を合わせないようにだけ気を付ける。
 僕と藤崎さんは一応、不自然にならないように会話を交わすけれど、全部うわべだけで、内容は頭に入っていない。藤崎さんなどは彼らの様子を窺おうと、あまり頻繁に後ろを振り向こうとするので、いっそのこと僕の横に来て、一緒に観戦したほうがいいんじゃないかと思う。


 はじめ、席に着くなり、爽やかな大学生ふうの男性は携帯を取り出して操作する。
「ほら、二人とも取り敢えずなにか注文しなよ。僕はコーヒーにするから」
 場を和ませようとしたのか、時間を稼ごうとしたのか、女性たちに勧めるけれど、
「携帯しまってください。注文なんかいいですから」
 長い髪の女性が諌めると、深い息を吐いて携帯をしまった。
「じゃあ、説明してもらいましょうか」
 交代で言った短髪の女性の言葉に、男性はこめかみを掻く。
「ええっと、何から説明したらいいかな」
「全部」
「ああ……うん」
 男性は覚悟したように居住まいを正した。
「その、じゃあ順を追って説明するけど、白状してしまうと、僕が最初に付き合っていたのは『えっちゃん』のほうなんだ」
「あ、そうなんですか」
 名前が出て、長髪のおとなしそうな女性が応えた。声にわずかばかりの喜色が混じっている。
「へー、あっそ。で、いつごろから付き合ってたわけ」
 棘のある口調。二番目だと知れたもう片方は、いっそう態度を尖らせたらしい。
「その、半年くらい前から」
「はあっ、そんなに前から!?」
「ま、まあまあ、落ち着いて話を聞いてよ」
 声を荒げるのを制して、男性は続けた。
「言い訳ってわけじゃないんだけど、僕としては、浮気をした認識はないんだ」
「今のをどう聞いたらそうなるわけよっ」
 短髪の女性が机を叩く。
 観察していると、先ほどから噛みついているのは“二番目”の女性ばかりで、もう一人の『えっちゃん』は静観を決め込んでいる。こういうのは、先に付き合ったほうに優位性みたいなものがあるんだろうか。
「なぜかというとね、『あむりん』と付き合い始めたとき、僕は『えっちゃん』とはもう、別れてるつもりだったんだ」
「えっ」
 いきなり掌返しを食らった『えっちゃん』が、にわかにうろたえる。
「そんな、先輩、一体どういうことですか」
 そう言って背もたれから跳ね起きた彼女の代わりに、今まで猛り狂っていた短髪の『あむりん』は腕を組んで――勝利の笑みすら浮かべていそうな所作で――深く座り直した。僕は、男性を指揮者に、かわるがわる翻弄される二人がおもしろくて、口角が上がってしまう。すると、それを見咎めた藤崎さんに睨まれた。ひどい、自分だって聞き耳をたてているのに。 独りでぐちりながら、また三人のやりとりに注意を向ける。
「というのもね、『えっちゃん』思い出せるかい、僕ら三ヵ月くらい前に大喧嘩したこと」
「…………はい」
「そうだよ、僕が君の愛犬に納豆を食べさせてしまったときさ。あれは本当にすまなかったと思ってる。けれどさ、あのとき君は言ったろう? 二度と家の敷居をまたぐなって。あれ以来しばらく連絡もつかなかったし、僕としてはもうフラれてしまったのかな、なんて考えていたわけだよ。そのあと『あむりん』と出会って……あとは君が知っている通りかな」
「でも、それはっ、そんなことって……」
 『えっちゃん』が認めずにいると、
「もういいじゃない」
 余裕をかましていた『あむりん』が口を開いた。
「だって結論は出たもの。こいつは私と付き合ってて、その女とは付き合ってない。そういうことでしょ」
 誇らしげな顔で、男性に水を向ける。
「うーん、まあ、そういうことになるのかなあ」
 曖昧だが、男性が肯定する。決着はついた。
 こうなれば敗者は去るのみかな、と僕は長髪の女性、つまり『えっちゃん』に注目していたのだけれど、彼女はまだ諦めてはいなかった。
「…………でも、でも先輩っ! 先輩はつい一ヵ月前、私に誕生日プレゼントをくれたじゃないですかっ。このペアリングを!」
 宣言して、指に光るゴールドを掲げる。
 なんてことだ、彼女はまだこんな切り札を隠していたのか。強烈な開示に、カウンターのほうでは食器の割れる音が聞こえた。そういえば僕らの注文が一向に運ばれてこない。店主もきっと、この戦いに心を奪われているんだろう。
「ちょっとっ、一体どういうことよ」
 『あむりん』の激昂で一転、劣勢に立たされる男性。
「あぁ……ええと、そのぅ、僕そんなものあげたっけ? …………あー、あげたなあ。じゃなくてっ、あー、違うよ! 僕は確かにプレゼントをあげたけど、それは単に友達として、そうだ、友達として誕生日を祝ったのであって、やましい意図はなかったんだ」
「単なる友達にペアリングを?」
「ぐ……う、うん。友達にペアリングをあげるくらい、イマドキは普通だよ、きっと」
「そんなわけないでしょっ!」
 『あむりん』から上がる当然の非難。
「先輩、ひどいです、私のこと彼女だと思ってなかったんですか」
 『えっちゃん』はいつの間にか、さめざめと泣いている。
 男性は『えっちゃん』との交際を否定してしまった手前、もはやどちらの女性も鎮めることができない。二方向からの嘆きと怒りが混じりあって、いよいよ収拾がつかなくなってきたそのとき――
「どうもー」
 と、この場においてはあまりにも間の抜けた挨拶とともに、再び入口の扉が開く。鈴の音と、外の路地風を呼び込んできた人物は女性だった。髪を一部染め、銀のピアスをつけている。背にはギターケースを負っているので、おそらくバンドでもやっているのだろう。彼女は店内にいる皆の注目を浴びて後じさる。
「あれー、営業中だよね」
「あ、はい、お好きな席にどうぞ」
 自失していた店主が勧める。今日は滅多にない大入りのはずなのに、その顔には覇気が見られない。
 修羅場に迷い込んだ女性は、視線を巡らせて席を探す。すると、今まさに審判が行われている、三人組の集団に目を付ける。笑みを見せ、ツカツカと歩いて向かっていく。誰もが固唾をのんで、動向を見守っていた。
「誠士郎じゃん、ぐうぜーん。てか運命?」
 彼女の丸い瞳が、無邪気に見開かれる。
「あれー、そこのお二人は? 妹さんかお姉さん?」
 誠士郎、と呼ばれた浮気性の男性は、声を掛けた女性に振り向くこともせず、石のように固まっている。言葉を失った彼の代わりに、『あむりん』が胡乱げに訊ねた。
「そういうあなたは?」
「え、あたし? ……あたしは、誠士郎の彼女だけど」
 うわあ。
「うわあ……」
 声にまで出したのは藤崎さんのほうだ。
「どういうことですか……先輩?」
 さっきまで泣いていたはずの『えっちゃん』は、地獄の底から汲み上げてきたような呪詛を口にする。誠士郎さんは相変わらず、不自然なほど微動だにしない。
「あ、え、どういうことー。誠士郎、この二人って?」
 唯一うろたえているのはギターを背負った三人目の女性だ。彼女が真偽を確かめようと誠士郎さんの顔を覗き込む。すると、
「二人とも恋人」
 もう打つ手なしと悟ったのか、彼が短く白状する。『二人とも恋人』、なんて壮絶な響きだろう。こんな台詞を口にする機会、僕には一生ないのだろうな。
 しばらく、ギターの女性のまばたきがなくなった。
「あ、そう」
 誠士郎さんの一言ですべてを理解したらしい。彼女は事実を認識すると、どこか遠くを向いたまま、項垂れる誠士郎さんの顔を起こした。そして

――僕は、拳銃が発砲される音を聞いた。

 もちろん、ここ日本では一般に銃の所持が禁止されているし、ましてや住宅街に佇む寂れた喫茶店に、物騒な武器などあるはずもない。だからそれは単に聞き間違いだったのだけれど、僕は一瞬本当に、銃声が鳴ったのかと思ったのだ。勘違いさせるのにふさわしく、盛大な破裂音だった。
 それが頬を張った音だと理解したのは、一部始終が終わった後だ。ギターの女性が腕を振り切った姿勢のまま誠士郎さんを睨みつけ、彼の方はといえば、朱に滲む頬を抑えてうずくまっている。彼女が来店するまで散々、言葉で問い詰めて解決を図ろうとしていた女性たちにとっては、カルチャーショックがあったらしく、二人とも口を開けて絶句している。すると、ほんの数分前まで甘い声を出していたギターの彼女は毅然として、呆けている二人に顔を向ける。
「ひっ」
「な、なによ」
 怯える二人。けれど、鬼の形相から発されたのは恨み言ではなかった。
「あなたたちも、もう行こう。こんな男の相手、真剣にすることないじゃん。どうせ説教したって理解する頭ないんだから、この猿には」
 諭された二人はしばし硬直したのち、互いに顔を合わせる。そして二人同時に、うずくまったままの哀れな男を見て、
「そう……ですね」
「それもそうね、もう馬鹿らしくなってきちゃった」
 言うと、奇妙な絆すら生まれたかのように見える女性らは席を立つ。そのまま振り返らずに歩を進め、女たち三人は店を後にした。かくして、風とともに現れた女性は、嵐を連れて去っていった。


 テーブル席に残されたのは男一人だけである。彼は女たちが店を出たのを確認すると、むくりと顔を上げた。僕の方に、紅葉のような跡を残した顔を晒す。
「あ……」
 自業自得とはいえ、凄惨な傷痕を見せられた僕は、思わず声を漏らす。しかし彼は意外なことに、落ち込んだり怒ったりすることはなく、僕と藤崎さんのいるテーブルに頭を下げた。
「ごめんね、せっかくのデートを邪魔しちゃって」
「いえ、そういうんじゃないので構わないですけど……」
「そうかい? 許してくれてありがとう。君は優しいね」
 穏やかに言うと、微笑んでみせた。その表情がこの上なく平和で、善人の雰囲気が滲み出ていたから、僕は拍子抜けしてしまう。こうして表面的に見る限りは、どうやったって三股を掛ける男性には思えないのに。人は見かけによらないものだ。その所感は藤崎さんも同様らしく、もう隠すこともなく身をよじって振り向いた彼女は、目を皿のようにして、誠士郎さんを検分している。前にいるのは女の敵だ、いい気分ではないのだろう。
「マスターも、すまないね騒いじゃって」彼はカウンターに呼びかける。「ああ、あと、アイスカフェオレを二つ頼むよ」
「かしこまりました」
 店主が事務的に答える。
 僕は疑問を持った。――なぜ飲み物を二つ?
 訝りの視線を受けた彼は、苦笑いで応える。
「ごめんよ。カフェオレだけ飲んだらすぐに出ていくからさ」
 僕の思惑とは的外れの解答。しかし問いただすまでもなく、求める真実はすぐに明かされることになった。
「なんどもごめんなさーい。おじゃましまーす」
 木製の扉を軋ませて入店してきたのは、またしてもあの、ギターを背負った派手な女性だった。僕と藤崎さんは、彼女がビンタの一撃ではまだ飽き足らなかったのかと恐怖に身を縮ませる。ところが予測に反して、彼女の顔は憤怒の色など一切帯びていなかった。それどころか、今にも背中のギターでもって一曲演奏しようかというほど、上機嫌に見える。
「おまたせー、誠士郎」
 彼女は鼻歌混じりに男性の隣に腰かけ、そのままの流れで、頬に唇を押し付ける。
 僕の頭には、自分がこの店に入ったときから、幻覚を見続けているのではないかという疑念さえ浮かんだ。でなければ、僕が困惑している様子をあざ笑うために、藤崎さんが仕組んだ罠かとさえ。とにかく、目の前の光景が信じられない。唖然とする僕をよそに、彼らのもとにカフェオレが届けられる。ガムシロップをたっぷり入れると、彼らは二人してカフェオレを啜り、蜜月の会話を交わす。
「ありがとう『いーちゃん』、助かったよ。あのままだったら僕は、日が暮れるまでなじられてた」
 謝辞を述べるのは誠士郎さんだ。
「いーの、あたしも誠士郎に頼られるのはうれしいんだもん。またいつでも呼んでね?」
 そう言って、ギターの女性は携帯を取り出してアピールする。音符マークのストラップを揺らしてみせた。
「本当、最後に頼れるのは『いーちゃん』だけだよ」
「誠士郎にそんなこと言ってもらえるなんて、うれしい」
 彼女は瞳を潤ませる。
「ねぇ誠士郎、誠士郎が本気で愛してるのはあたしだけ、だよね?」
「もちろん」
「だったら……証明してみてよ」
 まぶたを閉じた彼女の肩を、誠士郎さんが抱く。そして、唇と唇を合わせた。
「これでわかってもらえたかな?」
 離れた口から、細く唾液の橋が架かる。
「ううん、まだ。これだけじゃ足りない……」
「困ったな」
 『いーちゃん』の催促に、彼は頭を掻く。
「それじゃあ、これだけ飲んで早く家に行こうか。続きはそこでしてあげる」
「うんっ」
 二人はカフェオレを飲み干して席を立つ。
「マスター、お代はここにー」
 代金をカウンターに置くと、彼らは腕をからめて、出て行った。


 ドアベルの余韻が店内に残る。ふと正面を見ると、藤崎さんが放心していた。口からエクトプラズムでも抜け出したのではないかという感じで、見ようによってはだらしないが、彼女を責めることはできまい。僕も同じような気分だ。
 テーブルの上を見ると、僕の注文したホットコーヒーがいつの間にか置いてあって、いつの間にか冷めていた。ぬるくなった液体に口をつけると苦みが鼻を抜けて、思考が冷静になる。正気に戻った僕がコーヒーの味をととのえていると、
「すごかったね……」
 藤崎さんも意識を取り戻していた。先の大事件をひどく平易な語彙で表す。もっとも、ショックの大きさは十二分に伝わったけれど。
「そうだね。傍から見ている分にはおもしろかったけど、当事者にはなりたくない」
「……なんかインシツっぽいよ、それ」
 藤崎さんの指摘に同感ではある。けれど、
「残念だね。子ども相手に千円を恵んでやって、優しい人間になったはずなのに。僕の評価はもう覆ったの?」
 気持ちが浮ついているからか、必要以上に舌が回る。彼女に対して冗談を言うなんて、あまりないのに。
「うーん、だったら近藤くんはインシツで優しい人なんだよ、きっと」
「違いないね」
 あはは、と笑いが重なる。先ほどの愛憎劇とは様変わりして、店内には穏やかな時間が流れている。淡い照明は藤崎さんだけを浮かび上がらせて、僕の網膜に焼き付ける。
 どうもいけない、気持ちを落ち着かせなければ。ブレーキをかけろと、僕の中の何かが警告している。なぜだろう、しばらく委員で付き合うのだから、適当に仲良くしておこうと決めたのは僕自身なのに。それとも僕は、また身の丈に合わない期待をしているんだろうか。やめてくれ、いいじゃないか別に、表向きだけ仲良くしておけば。表向き仲良くするくらいは。
 空気が緩んだのを感じ取ったのか、藤崎さんはふうと息を吐いて、僕の目を見据える。口をつけていたカップも下ろして、真剣な顔をした。
「なに?」
 僕がすぐに警戒を見せると、それだけで彼女も遠慮がちになる。
「あの、え、えっとね、なんて言ったらいいかな」
 言葉を探る気配。
「今日、近藤くんをここに誘ったのはね、もちろんご褒美とか文化祭の下見もあるんだけど……」
 来た。禁忌に触れようとする彼女の言動に、僕は全身が総毛立つ。
「中学のときのこと、もう一度話しておきたいなって」
 『中学のときのこと』。中学校生活は三年間あったし、それが示す範囲は広く、曖昧だ。けれど僕ら二人の間では、その言葉は極めて狭い出来事を特定することができる。僕らにとって重大な出来事だったし、僕らにはその出来事しかなかったとも言える。
「私ね、近藤くんとまた、昔みたいに仲良くしたいなって――」
「やめてよ」
 僕は、思考するよりも前に遮っていた。
 彼女の言葉はこれまでの冗談と違って、確かな重さを持って僕の腹に落ちる。そう感じさせるのは、彼女が本人なりの真摯さでもって、話をしているからだろう。しかしそれ故に、かえって、彼女の語る内容が癪に障った。彼女もまた、表面を上手に取り繕おうとしているだけなのだ。
 夢が覚めたみたいに、現実に引き戻される。藤崎さんは全霊をもって、僕に向き合ってくれているように見える。けれどわかっている、彼女には欺瞞がある。『昔みたいに仲良くしたい』なんて、そんなことができてたまるか。僕は彼女の罪を糾弾せずにはいられなくなった。
「よく言うよ、藤崎さんの口からそんな台詞が出るとはね。言ってて恥ずかしくならない?」
 余裕そうな顔を作って言ったつもりだったけれど、口元は自分でもわかるくらい強張っていて、全然笑えていなかった。
 彼女は僕を見て、自身の試みが失敗したことを理解したようだった。
 僕は席を立つ。コーヒーはまだ残ったままだ。とにかく、一刻も早くこの場を立ち去りたかった。
「やっぱり、自分の分は自分で払うよ」
 ポケットから、夕飯の卵を買うはずだったお金を取り出す。投げ捨てるようにカウンターに置いて、コーヒー代を払った。制止する藤崎さんの声も聞かずに店を出る。
 店を出ると、足を引きずるようにして歩く。民家の間を抜けて通りに出る直前、遠く背後から声が聞こえた。
「ごめんなさい」
 空気を震わせて届く声が背中を押して、僕は走り出した。もう何も考えたくない。目に涙が滲んでいることには、家に着いてから気が付いた。

       

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Neetsha