景色が流れていた。
馬の蹄と、馬車の車輪の音が聞こえる。そして、規則的な振動を体が受ける。
ゆっくりと進む馬車の中に、シエラとセピアがいた。
初めて、馬車に乗った。
外から見ていた想像よりも、よく揺れるなと、シエラは思っていた。
「あのグラシアという人、どう思う?」
隣に座っているセピアが言った。
「どう?」
シエラは聞き返す。
「今更言うのも何だと思うけど、あまりいい印象を持てないんだ、私は。その……例えば、道での騒ぎの時の対応とか、やっぱりおかしいと思う」
セピアは、前を見ながら話している。
「それに、妓楼を仕切っているとか、女を売り買いするとか、平気で話しているのを見ると、どうも……いい気がしない」
言葉を続ける。
「あの人を、本当に信頼していいのだろうか……」
セピアの表情が、少し険しくなった。
「あの」
突如、前方から声がする。
どうやら、馬車を操っている人が言ったようだ。
先ほど見た、長身の女性がいるようだ。
「すいません。聞き耳を立てるつもりはなかったんですが、聞こえてしまった以上、看過できない話だったもので」
「あ……その」
セピアが、口ごもる。
「確かに、女性からしたら、妓楼の話とか嫌悪感しかないですよね。だけど、絶対にどこにでもあるんですよ。妓楼や、それに類するものは」
女が言う。
「もともと、オリーブの街には妓楼街なんてものはありませんでした。少し大きめの妓楼があっただけで。グラシアさんは、それを大きくした人なんです」
「……何故?」
「妓楼っていう所は、無茶苦茶な所が多いんですよ。人を人と思わないような。雇われの身ではあるにはあるんですけど、やはり、酷い対応の所は多いんです」
一度、言葉を区切る。
「だから、ちゃんとした戒律がある所があってもいいだろうと、グラシアさんが作ったのが、ここなんです。本当は、妓楼なんか全部なくせられれば、そっちの方がいいんですが、残念ながら、それは不可能ですので。そして、噂を聞きつけて、どんどん人が集まってきて、あっという間に大きくなって、この妓楼街ができたというわけなんです」
「……」
「私は、あの人は凄い人だと思います。きっと、信頼にたる人だと思いますよ」
「そう……ですか」
セピアが言う。
「あの人は、私の恩人なので、さっきのような話を聞いてしまうと黙っていられなくて。差し出がましいことを言って、すいません」
「あ……いや、私の方こそ」
そして、少しの間、馬車の音だけが続いた。
「シエラ……私は駄目だな」
セピアが、消え入りそうな声で言った。
「イエローの町での事も含めて、思い知らされるよ。本当に、何も知らない世間知らずのようだ、私は。自分が正しいと思っていたものの自信が、分からなくなってしまいそうだよ……」
両手を、膝の前で握る。
「いや……元々、正しさなんて分かっていなかったのかもしれないな」
呟くような声で言った。
「セピア」
シエラが言う。セピアの目だけが、こちらを見た。
「私は、セピアのこと好きだよ」
セピアが、上体を勢いよく上げて、こちらに顔を向けた。
「えっ?」
「セピアが持っている正義感は、綺麗なんだよ。だから、小さな傷なんかが付いてしまうと、そればっかりに目がいってしまう」
「綺麗?」
「ペイルさんも言っていたけど、人としての美徳、なんだよ。私もそう思うし、自分で否定してほしくない」
セピアは、驚いた顔をしていたが、少しして息を吐いた。
「役に立たない美徳に意味はあるのかな……」
「分からない。でも、私は好きだ」
セピアの顔が、ほんのりと紅潮する。そして、目線を逸した。
少しして、小さく笑い出した。
「はは……それは、いいかもしれないな。シエラに、好きでいてもらうためだけに、自分を貫くのか」
一通り笑った後、セピアはこちらに向き直った。
「難しいな、いろいろと」
セピアが言う。
「ありがとう、シエラ。やっぱり、まだ、できるだけ自分を通してみたいようだ、私は」
シエラは頷いた。
セピアも、微笑んで頷く。
「そういえば、シエラは、どうなのだ? 自分の考えと相容れないことと遭遇した場合」
「私は……」
少しの間。
「私は、結構ひねくれているから」
「うそっ!?」
その後も、少しだけ二人での話が続いた。
セピアも、いつもの調子を取り戻し始めた。
「しかし、ボルドー殿が何故、今回の事を黙認したかが分からないな」
それは同感だった。
「それにしても、その服、似合っているなシエラ。どこかの貴族か何かと言われても疑わないぞ」
「私は、セピアの方が似合っていると思う。なんていうか、着慣れている感じがする」
「ああ……それはそうかもしれない。昔、よく着てたから」
「え?」
「まもなく到着します」
前方で声がした。
街という固まりよりも、少し外れた所に、その屋敷はあった。
背後には森がある、小高い丘の上。外から見て、二階建てだろう。パウダーの屋敷よりは小さいが、この街では別格だろう。
辺りは、薄暗くなり始めていた。
馬車は、屋敷の正面に止まった。
また、門番だろうか、男が二人立っているのが見えた。
「どうぞ、お手を」
馬車を操っていた長身の女性が、先に下車をして、手を差し出してくる。セピアは、それに掴まった。
「あの、お名前を聞いてもいいですか?」
セピアが、下車しながら聞く。
「私の、ですか?」
「はい。ぜひ」
「マゼンタと申します」
「マゼンタさん。いろいろ教えてくれて、ありがとうございます」
「いえいえ、そんな」
二人が馬車から降りた頃に、屋敷の扉が開いて、身なりがきちんとしている、初老の男が出てくるのが見えた。
男は、二人の門番と共に近づいてくる。
「もしかすると、グラシアさんの所の?」
初老の男が言った。
「あ、はい、そうです」
マゼンタが、答える。
「ああ、もうお越しになったのですか。すいません、今晩の話とばかり思っていまして」
「いえ、こちらこそ、急な話で。しかし、モウブ様とは、今後もよしなにしてもらいたいとの、グラシアさんからのお気持ちですので」
「とにかく、客間にご案内いたします」
男が言うと、マゼンタは振り返って二人を見た。
二人は、無言で頷く。
男に案内されて、二人は屋敷に入った。
周りに気を配りながら、屋敷を進んだ。
思ったよりも、中は飾りたててなかった。特に怪しそうな物もないと思う。
隙をみて、屋敷を調べるようにと言われていたが、具体的な作戦は何もなかった。パウダーの屋敷の時とは違い、強行手段は最後の最後だけだ。 通路の途中で、先導していた初老の男が突然、立ち止まり、頭を下げた。
通路の前方から、恰幅のいい男が、こちらに歩いてくるのが見えた。
「やあやあ、来たようだね」
「はい、旦那様」
この男がモウブだろう。
歳は、五十は越えているか。温和そうな顔をしていて、腹が出ているのが特徴的だった。
セピアが、少し顔をしかめたのが分かった。
「ほう、こりゃまた」
モウブが、顎に手をやって言う。
二人は、教えられた通り、会釈をした。
「ああ、しなくてもいいよ、そんなことは。ここにいる間は、気楽にしていてくれたまえ」
「旦那様。お二人を、どちらにお通ししましょうか?」
「まずは、夕食をごちそうしようかな」
モウブが言うと、さらに近づいてきて、にこりと笑った。
「ちなみに、君たちは苦手な食べ物とかあるのかな?」
セピアが、少し固まった。
「た、食べ物……で、しょうか?」
「そうそう」
「ええ……と、特には」
「ありません」
シエラが言う。
「それはよかった。では、着いてきたまえ」
その後、大きな食堂に二人は通された。長い食卓に、多数の椅子がある。終始モウブは、他愛もない話しを二人にしてきた。
料理は、贅沢なものなのだろう。しかしシエラは、街の食堂で食べた料理の方が好きだと思った。
しかし、不思議なことだと思った。招いた遊女に、ごちそうなどするものだろうか。
「どうだい? 旨いかい」
「た、大変よろしゅうございます……」
セピアは、話し方を意識するあまり、逆におかしな話し方になっていた。
自分は、無愛想な対応だろうと我ながら思う。
愛想など無理だ。
しかしそれでも、モウブは上機嫌そうに、ずっと話し掛けてきていた。
「旦那様、あちらの部屋の食事ですが……」
先ほどの初老の男が、モウブに小声で耳打ちするのが聞こえた。
「そうだね。一緒に作っておやりなさい」
「はい」
気になる会話だ。
セピアを見ると、セピアもこちらを見ていた。