Neetel Inside 文芸新都
表紙

永遠の向こうにある果て【完結】
彼岸からの恋文の章

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 海は、世界中の人間が悲しみで流した涙の総量です。
 海と涙の塩分濃度が同じである。と言う事は、すでに長年の研究によって解き明かされている至極当たり前の事実なのでした。
 研究者たちは、あまりにも多くの人が同時多発的に泣いてしまえば、海の水位は途方もなく上がってしまい、その結果こらえ切れなくなった世界のどこかでは、海の水がその場所の土地を覆ってしまうと考えていました。そうして、多くの命を奪う事で、海は限界量を保っているとも考えていました。
 更にそれは、この星が出来て以来、流れ続ける時間の中において、いつまでも破られる事のない絶対的ルールだとも。
 海の水と涙の塩分濃度は同じなので、海に悲しみが詰まっている事も既に語り尽くされた事実でした。
 だから、「母なる海」と称し、悲しくなると人は海にやってくるのです。

 その日も一人の少女が海へとやってきました。
 少女は、今、世界中で同時多発的に発病者が急増しているという「レイ=プレイ症候群」だと診断された事にひどく落胆し、そうして(本当は死ぬ事が出来れば良かったものを、その勇気もなかったので)何とはなしにふらふらと海へとやってきたのでした。
 「レイ=プレイ症候群」とは、正式な病名を「後天性脳内妄想癖症候群」と言い、近年急激に発病者の増えている精神的な疾患のひとつです。
 その症状は、ある日、急に部屋の中に閉じこもり、人との接触を断ち、一人妄想にふけりながら自慰行為に没頭するというもの。その結果、次第次第に体は衰弱していき、快感物質の異常な分泌によって脳が急激に縮小し、全ての発症者が最後には廃人になってしまうと言う恐ろしいものでした。その発病者達の抱く妄想の多くが、自らがレイプされる状景であることから通称で「レイ=プレイ症候群」と呼ばれています。
 彼女は、まだ症状が軽かったものですから、人との接触を完全に断つまでにはいたらなかったのですが、それでいても、すでに廃人となった数多くの少女たちを目の当たりにし、これから自分が同じ道をたどっていく事を考えると、ただ悲しくて仕方がなかったのでしょう。そうして、無意識にやってきたのがこの海でした。
 早く、完全に発症してしまえば、あとは、快感にふけりながら、ただ朽ちていく事も出来たのですが、それさえも許されないこれからしばらくの時間は、随分と苦痛を伴うものでしょう。
 少女の名前は「遠野 姫子」。同世代の少女と比べても小柄で、大きめのボストンバックなら、その中にすっぽりと入ってしまいそうな、ちんまりとした可愛らしい少女です。
 先月、念願だった今年で開校128周年と言う地元の聖アリアナ女学園の制服に袖を通したばかりでした。
 学校の帰り道、立ち寄った公園で、複数の男にレイプされ、その話を恥ずかしげに両親に打ち明けた所、どこにもその形跡がなかったことから、病院で診察を受け、そうして、「レイ=プレイ症候群」と診断されたのです。
 「あたしは、これから自分が何者なのかも良く分からないまま、ただただ、その辺の馬鹿女みたいに、ここを弄くって、弄びながら死んでいくんだ。」
 姫子は、ぺたんと浜辺に座り込みました。
 「あぁ~あ。何だったんだろうなぁ~。あたしの人生って・・・」
 一思いに失望などしてしまえば、それはそれで楽なのでしょうが、人はそう簡単に失望などしてしまう事の出来ない難しい生き物なので、姫子は「レイ=プレイ症候群」と診断されたその日から毎日「なんだっけなぁ~」と、事も無げにつぶやくばかりの日々を過ごしていました。
 恋をする相手の一人でもいれば、それはそれで、何だか少しくらいは救われたかも知れませんが、残念な事に姫子には、そんな相手も存在していません。

 何を思ったのか、姫子は不意に、足元の砂を少しだけ、その針金で作られたようにか細い手でかき始めました。
 もう完全に日の落ちてしまった漆黒の砂浜。
 その砂からは、数時間前まではおそらく感じる事が出来たでしょう太陽の暖かさなどは、もう全く感じる事は出来ませんでした。姫子は、その砂の心底寂しくなる冷たさに、これまでに生きてきた社会と同じ冷たさを感じずにはいられないでいました。
 いつまでも、いつまでも、砂をかき続けます
 それはまるで、どうしようもない大きな力に潰されそうになる日常を打破すべく無駄にあがいていた、かつての自分をはっきりと思い出すかのようでした。
 いつまでも。いつまでも。いつまでもかき続けます。
 姫子は日本人の平均よりも一回りも小柄な体でしたので、手も小さく、時間と比べ合わせると随分と小さな穴しか掘ることは出来やしませんでしたが、それでも、いつの間にか、幾分か深い穴が出来上がっていました。

     

 コツン。
 何かが指に当たりました。
 「しまった。この時間だったら、もう寝てしまっているだろうカニさんに当たってしまった。もし、このカニさんが、どうしようもないような怒り症で、しかも大きなハサミなんて持ってやいたら、あたしのこの細苦しい指なんか途端になくなってしまう。」
 急いで、手を離した姫子でしたが、穴は再びの静寂です。
 姫子は、恐る恐るもう一度、その穴の中に手を入れてみました。
 コツン。
 確かに、何かに当たるのです。
 そっと、その何かをつまんでみました。
 「ビン?」
 穴から出てきたのは、(暗くてはっきりとは見えなかったのですが)少しだけ緑に薄濁ったガラスのビンのようでした。姫子の大好きだった炭酸飲料のビンと大体同じくらいの大きさです。
 「中に何かが入っている。」
 ビンをさかさまにして、振って見ると、コトンと何かが落ちてきました。
 それは、随分と長い時間砂の中にあったのでしょう。砂の水分で少し重くなり、そうして、ふちはポロポロと崩れ落ちる一枚の古臭い紙切れでした。紙切れと言っても、メモ用紙くらいには大きく、何だか少しばかりの文字も書いてあるのでした。
 運良く油性の何かで書かれたのでしょうその文字は、水分を吸って少し重くなった紙切れとは言え、明るい昼間なら十二分に読み解く事が出来ました。
 「きっと、これは同じように何だかの悲しみを携えて、この海の、この浜辺の、この場所に座り込んだ誰かが、同じように、砂をかいていって、そして、その穴の中に埋め込んだ手紙。きっとそうなの。だから、同じように今ココに座っているあたしに読んでもらいたかったに違いない。それだけは、分かるんだからね。」
 姫子は、(もしかしたら、一片の罪悪感などを併せ持っていたからかも知れませんが)つぶやきながら携帯電話をズボンのポケットから出すと、そのライトをメモ用紙に照らしあてました。
 紙切れには、こんな事が書かれていました。


「ある日を境に唐突に分かりました。
 誰もあたしの事など必要としていないと言う事です。
 ある日を境に唐突にわからなくなりました。
 なぜあたしが今日を生きているのかと言う事です。
 誰かに聞こうと思いました。
 でも、そんな相手なんていないのです。
 一人で、孤独で、それで良いと思っていました。
 いつの間にやら、そうなっていました。
 この世は、あたしの思うままになるのです。
 そして、あたしは一人ぼっち。」


 誰に宛てたわけでもなければ、きっと、何か目的があったわけでもなかったのでしょう。
 ただ、この紙切れに書かれた内容には、少しだけの悲しみと戸惑いが混在していました。
 姫子は、急激に心を揺さぶられる事を感じました。
 「これは、ほとんどあたしだ。つまりは、あたしと同じ悲しみを持った誰かが、書き残した言の葉なんだ。そしてそれは、とても大切なことのような気がする。」
 目からは、涙がとめどなくあふれ始めていました。
 なぜ、とめどない涙があふれてきているのか、姫子自身にもはっきりとした理由など分かりやしませんでしたが、それは、感情を物質の形にして、とめどなくあふれ続けています。
 姫子は、とめどない涙で(元から漆黒の砂浜ですので、はっきりとなど見えてなどいなかったのですが)よく見えない視界のまま、すぐ横の砂を針金で作られたかのようにか細い手でかき始めました。
 コツン。
 同じほどの時間でまた指先に何かが当たりました。
 姫子は、それを手に取りました。今度は、もう、恐る恐るではありません。確信めいたものすら感じながら、手に取りました。
 今度は、薄く青みかったビンでした。
 居ても立ってもいられないように、姫子はそのビンを逆さにし、一頻りにふりました。
 コトン。
 また何かが落ちます。
 それは、さっきと同じ砂の水分で少し重くなり、そうして、ふちはポロポロと崩れ落ちる一枚の古臭い紙切れ。
 姫子は、その紙切れを宝物のように大切に胸に抱き、そうして、静かに開きました。
 次の紙切れには、こんな事が書かれていました。


「ある日を境に誰も居なくなりました。
 あなたはもうあたしの横にはいないのですね。
 ある日を境に急に孤独を感じるようになりました。
 このまま一人で一生涯を終えてしまうような恐怖です。
 助けを請おうと思いました。
 でも、そんな相手など居ないのです。
 一人で、孤独で、時間だけが過ぎていきます。
 狂うように・・・気違うように・・・
 『永遠』と言う言葉にばかり取り付かれていたあの人はいなくなってしまいました。」

     

 「レイ=プレイ症候群」が本格的に発症してしまえば、もうきっと自分ひとりの世界が全てになってしまう。感覚的にそれを理解していた姫子にとって、この紙切れに書かれている言葉一つ一つが、何だかとても近しいものに思えて仕方なかったのでした。そうして、誰とも分かち合う事の出来ないこの悲しみを、かつて同じように背負っていた誰かが、同じようにこの海のこの浜辺に座り込み、この言葉を書いたのだとすれば、それだけで、姫子は少しだけ救われた気持ちになれたのかも知れません。
 あふれ出る涙は、絶望し、しかし、失望できず、誰にもその悲しみを打ち明ける事の出来ないままに海にやってきた姫子が始めて感じた、一種の安堵からのものだったのです。

 姫子は、この誰とも分からぬ相手に(文脈から考えるに同性である事を理解したうえで)もうどうしたって止めることの出来ない深い愛情が芽生え始めていた事に気がつきました。
 それが、「レイ=プレイ症候群」によるものなのか、それとも、姫子自身が抱く深い恋愛感情なのか、姫子には、判別できかねましたが、それでも、この誰とも分からぬ相手に胸をときめかせずには居られないのでした。
 「レイ=プレイ症候群」は発症から、1年ほどでほぼ99%の少女たちが死に至ります。
 筋肉の極端な減少により骨が歪曲し、発症後しばらくすると人間の形を保てなくなります。その上、脳は縮小を続け、コミュニケーションをとる事はおろか、外界で何が起こっているのかを理解できないまま、それでも、自慰行為だけはやめる事無く、逝き狂ったように、発狂しながら死んでいくのです。多くの少女たちはそうやって無残に死んでいきました。
 手紙の状態から想像するに、仮にこの誰とも分からない相手が「レイ=プレイ症候群」を発症していれば、間違いなく死んでいる事でしょう。
 姫子はこの芽生え始めた愛情を、結局、向ける相手など居やしないまま、いつまでも持ち続け、そして、姫子自身も同じように無残に死んでいくのです。
 それは、もう逃れられない運命なのでした。

 しかし、ココに来て、姫子はひとつだけ違和感を抱えました。
 「えい・・・えん・・・?」
 ココまで、ひどくリアリティーに満ち満ちていたこの紙切れに書かれた言葉に唐突に表れた「永遠」と言う表現に、姫子は少しだけ違和感を覚えたました。

 先ほど姫子自身がつぶやいた「これは、ほとんどあたしだ。」と言う言葉に込められた違和感の正体はこの「永遠」だったのです。だから、姫子は「これは、あたしだ。」とは言わずに「これは、ほとんどあたしだ。」と表現したのでした。
 だからと言って、姫子のこの誰とも分からない相手への愛情が冷めるはずもなく、それどころか姫子は「永遠」と言う言葉にさえ、ひどく関心を持ち始めました。

 永遠。
 永遠。
 永遠。
 永遠。
 永遠。
 永遠。
 永遠。
 永遠・・・

 「この世の中がもしも、この子の言うとおり自分の思うままに動くのなら・・・あたしは、永遠と言うものを求めてみたい。永遠の中なら、きっともう誰も失う事はなくて、そうなれば、誰とも分からないこの子だって、まだ元気に、外でひも縄跳びをビュンビュンと飛んでいるかも知れない。永遠を求めてみたい。永遠を。」
 姫子は、立ち上がりました。
 「明日は安息の休日。いつものように教会に行こう。あの、真面目な女の子に何だか優しい神父様に、少しだけでもお伺いを立てれば、こんな病気になっちゃって何だか穢れたあたしだって少しは許されて、そうしたら、少しだけ聞いてみみよう。主の語る『永遠』について。」
 紙切れを元のビンに入れ、そうして、穴の中に静かに戻すと、何もなかったかのように穴を埋め、静かにその場所を立ち去ったのでした。

 世界中の悲しみで涙を流した人間の涙の総量が海となるのです。
 この夜は満ち潮の夜。
 きっと、多くの人が涙にくれ、そうして、いつもより多くの海の水が、じりじりと溢れてくるような夜でした。
 姫子と同じように、その浜辺にやってきた少女がまた一人。
 姫子と同じ場所に座り込むと、不意に足元の砂を針金で作られたかのようにか細い手でかき始めました。
 そして、この紙切れを見つけ、同じように「永遠」を求めるようになるのです。
 この手紙を書いた人が誰なのか、それがはっきりするのは、実は、時間的にはまだ随分と先の話となるのですが、その時には、もうどうしたって取り返しの付かない状況になっている事を、今はまだ、誰も知る余地もないのでした。
 そして、今日もまた一人、悲しみを抱えた少女が、海へとやってきます。
 そして明日もまた・・・

       

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Neetsha