Neetel Inside 文芸新都
表紙

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「ねぇ悠子さん、何で最近の大学生ってこうもいいかげんなんですかね」
 お茶を飲んで一息ついたあたりで僕は悠子さんに言った。
「何よ急に。あんたも最近の大学生でしょ」
 僕は先ほど木下としていた会話について彼女に説明した。急な約束のキャンセルのこと、人を遊びに誘って忘れる幹事のこと。
「似たようなことが最近いくつもあるんですよね。軽く人間不信に陥りそうです」
「そんな事で人間不信になってたら私は今頃自殺してるよ」
 馬鹿じゃないの、と言いたげだ。
「ま、いいかげんな人間なんてどこにもいるわよ。私も昔はよく約束破られたりしたしね」
「悠子さんの約束を破る奴がいるんですか」
 木下が目を丸くする。僕も驚いた。この人との約束を破ったら後が怖そうだ。
 悠子さんは二つ目の大福を手にすると、少し寂しそうな顔をした。
「この苺大福にもね、すこし苦い思い出があるのよ。もう絶対守られない約束の思い出が」
「大福は甘いのに思い出は苦いんですか」驚いた様子で木下が言う。
「うん、確かに甘い。控えめに」僕も苺大福のセロファンを破りながら木下の発言に乗っかった。
「あんたたちちょっと黙るって事知らないの? 黙らせようか?」
 悠子さんの鋭い目つきに気圧された僕らは視線を逸らせて大福を口にした。悠子さんも口にした。僕ら再び、しばらく無言で苺大福を食べた。
「それで苦い思い出って何なんですか?」
 尋ねると悠子さんはお茶を啜りながら再び悲しそうな表情を浮かべる。こう言う状態を『入っている』と言う。もう語りに入るモードなのだ。
「私が中学生のころの話だよ。私んちってさ、その頃からよくこの和菓子屋さんの常連だったのね。親が好きでさ。私もよく親に付いて一緒に買いに行ってた」

 和菓子屋さんは五十歳くらいのおばさんとおじさんが経営していてね、いつもレジにおばさんが座っているのよ。店の中は狭くて汚かったけれど、その雰囲気が私はすごく好きだったわ。
 よく買いに行ってたからね、その和菓子屋さんとはもうすっかり顔なじみになっていたし、よく母さんが和菓子屋のおばさんと世間話してたからお互いの家庭環境もよく知ってた。すごく優しいおばさんでね、私の名前を悠ちゃんって呼んでくれたわ。
 おじさんとおばさんには息子がいてね、名前が秀介さんって言うんだ。
 秀介さんは大学の一回生でさ、やっぱり私の事を悠ちゃんって呼んでくれていたの。
 でもおばさんが悠ちゃんって呼んでくれるのと、秀介さんが悠ちゃんって呼んでくれるのでは少し感覚が違ったな。秀介さんが呼んでくれると不思議とうれしくなったし、心がポカポカしたっけ。いま考えるとあれが初恋だったのよね。
 ある日私が学校から帰っていると偶然前を秀介さんが歩いていたんだわ。クリアケースを持っていたからたぶん大学の帰りだったんだと思う。私は秀介さんのところまで駆けてって、一緒に帰りましょうって誘ったのよ。秀介さん、笑顔で良いよって言ってくれた。
 夏が終わって肌寒い季節だったけど妙にポカポカしてる日でね、お日様が暖かかったな。川の土手をゆっくり歩きながら帰ったの。
 秀介さん、とっても背が高かった。といってもあの頃私は背が小さかったから大きく見えたんだろうけどさ。
 私はドキドキしながら秀介さんに色々質問したわ。大学では何を学んでるんですか、好きなスポーツは、どんなサークルに入っているんですか、彼女はいるんですか。
 結果として秀介さんは経済学部のサッカー好きでボランティアサークルに入っている彼女いない暦一年のイケメン大学生って事が分かったわ。
 その時私は中学三年生だったから高校受験が近づいていたのね。その時期は誰だって憂鬱になるし不安にもなるでしょ? 私もそんな一人だったから、つい秀介さんに愚痴っちゃったのね。
「私、もうすぐ受験なんですよ」
「あぁ、もう秋だもんね、そんな時期かぁ。悠ちゃんはどこの高校を目指すの?」
「一応一番近い公立高校にしようかなって」
「あそこか、俺も通ってたよ。先生がすごく良い人だから今でも道で会ったら話しかけてくれるよ」
 秀介さんと一緒の高校! もうそれだけでその高校を目指す理由が出来たわけよ。
「でも、この間模試があったんです。それ見たら先生が、『もっとランク落とせ』って。一生懸命勉強してるんですけど、やっぱり塾に通ってる周りの子には負けちゃうんですよね」
「あぁ、俺も同じ様なことで悩んだなぁ。でも大丈夫。あの高校、そんなに難しくないから、その調子で勉強すればきっと受かるよ」
「でも……周りの子が私より良い点取っちゃったら、落ちちゃうかも……」
 私が言うと秀介さんは困ったように笑ったわ。その笑顔もまた、温かかった。
「俺が勉強教えようか?」
 その瞬間、時間が止まったかと思った。一瞬何を言われたのか分からなかったし、それを理解した瞬間、心臓の鼓動がバグッたかと思えるくらい早くなったわ。強く風が吹いてね、うれしすぎて吹っ飛ぶかと思った。
「えぇ? でも秀介さん、忙しいのでは……」
「週末なら講義入ってないし、親父に止められてるからバイトもしてないしね。土曜か日曜日なら勉強の面倒、見てあげるよ。……余計なお世話かな」
「とんでもない!」
 どっから出てるのか分からないくらいでっかい声が出たっけ。
 秀介さんはその時おじさんから店を継ぐように言われていてね。秀介さんも店を継ぐことは考えていたんだけど、せめて大学は出ておきたいからって言って大学に行っていたのよ。
 平日は学校、家に帰って菓子作りの手伝い。土日はサークルのイベントだってあったろうし、本当なら私の為に時間なんか割いていられなかったと思う。
 それでも、秀介さんはそう言ってくれたのよ。もうね、惚れ直したね。
 その日から毎週土曜日、学校が終わったら秀介さんの家で勉強してたわ。秀介さんがおススメの参考書とかを買ってきてくれてね、私がそれを解いて、間違っていたら丁寧に教えてくれてた。
 私も秀介さんに気に入られたくて一生懸命勉強したわ。正直、秀介さんに勉強教わるまで勉強したこと無かったのよ、私。一生懸命勉強してるって言ったけどもちろん悪印象を与えないための嘘だし。
 だからちょっと勉強したら面白いくらい頭に入ってね。模試の点数も右肩上がりだったのよ。最後の模試結果が出た時『もっとランク上げて』って懇願するように頭下げてた担任教師の顔が愉快でならなかったわ。
「この感じなら絶対合格出来るよ。悠ちゃんは物分りが良いからすいすい知識が入っていくし、それにほら、こんなに参考書をこなしたんだよ。自信もって頑張ってきなよ」
 受験前日、最後の勉強の日に、秀介さんは参考書の山を見ながらうれしそうに言ったわ。
 そのとき私は既に全科目九割以上をキープできるほどの知識があったけど、それでもやっぱり受験は不安だった。だから私は言ったの。
「あの、秀介さん」
「ん、何?」
「も、もし私が受験に合格したら、私に、ちゅ、ちゅ」
「ちゅ?」
「ちゅくりかたを教えてもらえませんかこの店の苺大福の」
 俊介さん、思わず噛んだ私を見て「ははっ」って格好良く笑ったわ。それで「いいよ」ってやさしく返事してくれたの。
 本当は私にチューしてくれませんかって言おうと思ったんだけど、中学生にはハードルが高すぎた言葉だったのね……。家に帰って何度壁に頭をぶつけたか覚えていないわ。血まみれになったことは覚えているけどね。
 そして受験当日、秀介さんは高校の校門前で私を待っていてくれたの。それがどれだけ心強かったか。そして私にお守りをくれたのね。教室でそれが安産祈願のお守りだったことが分かったけれど、そんなおっちょこちょいな性格も愛しかったわ。
 受験の結果、私は学年トップで合格したわ。誰も予期せぬ展開に家族はひっくり返ったものよ。

「ウチの母と二人で秀介さんにお礼を良いに言ったわ。秀介さん、相変わらずの笑顔で当然の事をしたまでですから気にしないでくださいって言ってくれたのよ。私は高校で部活に励んで、充実した三年間を送ったわ」
 そこで悠子さんは話を切った。
 沈黙が部屋に満ちる。
 僕は木下と目を見合わせた。
「……で?」
「終わりよ」
「いや、その苺大福作りはどうなったんですか」
「教えてくれたわよ。店のおじさんが。懇切丁寧に」
「秀介さんは? その後亡くなったりしてしまったわけではないんですか?」
「死んでないわよ。失礼ね」
「どこが苦い思い出なんですか。良い話じゃないですか」
「良くないわよ。春になったそのとき、秀介さんは彼女いない暦に終止符を打ったのよ。どこの馬の骨とも知らない新入生の後輩でね」
 わなわなと悠子さんは体を震わせる。
「いや、今の感じだと合格発表当日に秀介さんが交通事故にあって死んでしまうとか、そういう展開かなぁと思ったんですが」
「ドラマの見過ぎじゃない?」
「二度と守られない約束の話って言ってたけど、和菓子の作り方を教えるって約束は守られているじゃないですか」
「秀介さんが教えてくれないと意味が無いのよ」
「苦いって言うより、しょっぱいですね」
「苦いわよ。……秀介さん、結婚したのよ、その大学の後輩と。今ではおじさんとおばさん、秀介さんと雌猿、その息子と娘の大家族で順調に店を経営していらっしゃるわよ」
「雌猿て……」
「本当なら私が今頃その雌猿のポジションにいたはずなのにね……美人若奥様という形で」悠子さんは遠い目をし、そしてふと僕の顔に視線をやる。
「ここだけの話ね、実はあんた、すこし秀介さんに似ているのよ」
「僕がですか?」僕は顔をしかめるのを何とかこらえた。
「えぇ」
「悠子さんは初恋の相手に似ている人に、やれウンコ以下の学生だのむっつりスケベだの言うんですか?」
「いや、ほら、秀介さんってちょっと弱々しく見えるよ。あの時は年上だからすごく力強く見えたけど、あんたみたいに年下だとイジメたくなるのよね。あ、これからあんたのこと秀介さんって呼んで良い?」
「嫌です」
「ケチだなぁ。あんた言っとくけど光栄なことだよ? 私から秀介さんって呼ばれるなんて」
「じゃあこれから悠子さんを僕の初恋の女性の名前で呼びますね」
「ごめん、それはちょっと……」
 悠子さんは困った顔で首を振る。理不尽だ。
「とりあえず悠子さんはそれなりに年相応の落ち着きを見せてくださいよ……」
「聞いた? 木下、アパートの、しかも大変お世話になっている、つい今しがた最高に美味しい苺大福を持ってきてくれた美人若大家に向かって年相応の落ち着きをだってさ。まるで親のように」
「ははっ、そんな馬鹿な」
 馬鹿はお前だ。
「悠子さんはとてもじゃないけど社会人には思えないですよ。子供っぽいと言うか大人気ないというか」
「若い、と言って頂戴」
 いつまで経っても学生ノリが抜けないとも言えるが。
「悠子さんが変わらない美しさなのは多くの学生と同じ時を過ごしているからなんですよね」木下が調子の良いことを口にする。
「若者の感性をいつまでも失っていない証拠ね」
 こんな人たちの相手はとてもじゃないけどしていられない。
「まぁ私が若いと言ってもよ? やっぱり学生は羨ましいけどね。サークル活動にオシャレに、授業って言ったってあんた達みたいなお気楽学生はあってないようなもんだし、正直許されるならもう一度学生になりたいわよ」
「企業で働いてる社会人からしたら悠子さんの仕事も結構羨ましいと思いますけど……」
 思わず言うと悠子さんは心外そうに眉間にしわを寄せた。
「あんたねぇ、私は私でこう見えても苦労してんのよ? アパートの掃除とかメンテナンス、苦情が来たら夜中だって対処しなきゃダメだし、家賃滞納者は取り立てに行かなきゃダメだし、払ってもらえなかったらその分苦しいのは私だし。それに預かってる学生の親御さんのために住民の事は大体把握してるんだからね」
「住民の事把握してるって、一体どれだけ把握しているんですか」
「そうねぇ、まぁ主に付き合ってる友達とか、所属してる団体名だったり、何のアルバイトしているか、とかかしら。バイトの給料日前とかで何も食えてなさそうな学生いたら煮物あげたりしてんのよ? 私のアパートで暮らす以上は責任持って面倒見ないと、ウチを信頼してくれてる親御さんに申し訳が立たないからね」
 管理人に人間関係やら生活スタイルまで把握されているなど聞いたことが無い。そこまで住民の情報を手に入れることが出来るのも、やはりこの人だからなのだろう。
 悠子さんがこのアパートの管理人になったのは僕らが大学に入る少し前の事だ。
 当時、悠子さんはこのアパートの住民としてここに住んでいた。大学から近く、親戚のおじさんが所有・管理をしていると言うのがその理由だそうだ。
 ある日、そのおじさんが急な病気で以前の様に動けなくなった。おじさんの家族はみんな働きに出ており、親戚でも頼れそうな人がいない。だからと言って人を雇う余裕が無い。
 そんな状況の時に丁度大学を卒業だった悠子さんが代わりを勤めた。元は住民であり、管理人の仕事も親戚と言う理由で度々手伝っていた悠子さんはよく分かっていた。
 若くて美人でよく仕事が出来る管理人は評判がよく、アパートの住民も増えたのがきっかけで正式に管理人にしてもらったのだとか。
 その様な経緯を以前酔っている悠子さんから聞いた事がある。
「コネ就職か……」
 ボソリと呟いたのが聞こえていたらしい。
「実力が認められたのよ。コネなんかと一緒にしないで頂戴」
「でも俺、コネでも良いから楽なところに就職したいなぁ」木下がのんびりとした口調で言った。
「お前さっき公務員とか言ってたじゃないか」
「就職さえ出来れば良いよ。このご時勢」
「木下は典型的なダメな若者っぷりを発揮しているな」
 悠子さんが呆れたように溜息を吐き、僕に視線を移す。
「で、秀ちゃんはどうするのかな」
「誰が秀ちゃんですか」
 音楽続けたいって言ったら笑われるだろうなぁ、悠子さんに。僕はお茶をすすった。
 僕と木下は大学の軽音楽系の部活動に所属していた。今はのんびりしているが、昔は二人ともストイックに練習していたのである。
 現実的に考えて音楽は将来的に趣味にしかなりえないと分かっていた。職としてやるには本気で音楽活動をせねばならず、本気で音楽活動をするには遅すぎた。
 やりたい事を趣味として強制的に除いた場合、なりたい職業としてピンとくるものはない。
 しばし逡巡してから言った。
「営業……ですかね。無難に」やりたくは無いが、向いている仕事ではある気がしている。
「無難にねぇ」
 たぶん悠子さんは気付いているだろう。まだ僕が答えを見つけていないことに。
「私の下僕として私の下で働くか? 養ってやるわよ」
「結構ですよ。悠子さんの下僕になるならニートになります」
 僕が木下のマネをしてヒラヒラと手を振ると「んまぁー」と甲高い声を悠子さんが上げた。
「こんな割に合う美味しい仕事は無いって言うのに。せいぜい来年の今頃就職先決まらずに私に土下座するが良いわ!」
 そう言って奇妙な表情で舌を突き出す悠子さん。僕と木下はその様子を見て苦笑した。
 不意に外からストン、と何かが新聞受けに入る音がした。うちかと思ったがたぶん悠子さんの部屋だ。彼女は新聞を取っているので恐らく夕刊が運ばれてきたのだろう。
 時計を見るともう五時半だった。
「あら、もうこんな時間なのね」
「秀介、晩飯どうする? どこで喰う?」と木下。
「お前と喰うこと前提かよ」
「あっ」
 悠子さんが不意に声を出したので僕と木下は視線をやる。
「鍋やろう鍋。キノコ鍋。ちょっとお肉とか白菜とか入れて。暖かいし、三人で割り勘したら安いし、酒も飲んじゃおう」
 外の寒さを想像すると最初は動く気すら起こらなかったが、悠子さんの提案は素敵な物に思え、少しだけ気力が湧いた。
「そうと決まれば出かけるわよ」
「別に良いんですけど、せめて僕らの意見を聞いてからにしてくれませんか」
「顔みりゃ大体分かるわよ」当然でしょと言わんばかり。
 まったくこの人には敵わないなぁと思う。全部お見通しだ。
 僕は重い体を起こすと、壁際のジャケットに袖を通した。

       

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