Neetel Inside 文芸新都
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 九時二十五分と言うぎりぎりの時間で入室した僕は、教授から睨みつけられつつも何とか出席表を手にすることができた。
 退屈な講義はキリスト教について学ぶという内容だ。僕は法学部なのだが何故こんな講義を取っているのか自分でも不思議に思う。
 まぁ、楽な講義なのだからだけれど。
 頬杖をつきながら何となくノートを取っているとチャイムが鳴った。
 二限は出ても出なくても良い。だがせっかく学校まで来た訳だし出る事にした。どうせ木下は来ないだろう。あいつはサボりの常習犯だ。
 しかし講義室に入ると、そこには誰の姿もなかった。不思議に思っていると、肩をポンポンと叩かれる。
「よぅ青年。君も休講と知らずに来てもうたんかい?」
 同じ部活の野沢菜さんだった。野沢奈々。通称野沢菜。
 ロングスカートに薄手のパーカー、綺麗に茶色く染まったポニーテールで、気さくに話せる女友達だ。そう言えば彼女も同じ講義を取っていた。すっかり忘れていた。
「そっか、今日休講だったんだ」
「そう言う事。うちらは睡眠時間を減らして学校に来てしまった被害者ってわけ」
「まぁ僕は一限の出席票を無事提出したから別に良いけど」
「裏切りかぁ」
「勝手に裏切り者にするなよ」
 僕らは階段を降りるとそのまま坂を下り、バス停へと向かう。
「野沢菜さんこの後は? 僕はもう終わりだけど」
「うちももう今日は終わり。三限は出席もないし講義も訳分からんから出んでも大丈夫」
 どうせ落とすからと言う意味合いの『大丈夫』か。納得。
 バス停を抜けると駐輪場がある。大学の学生は皆ここに自転車を置いている。でも僕の目的地はここじゃない。駐輪場の向こう側に部室棟があるのだ。
「それじゃあここで。僕は部室に行くよ」
「帰らへんの?」
「今日はOGの先輩が来るんだ」
「え、誰?」
「アパートの管理人の友達。五年前の卒業生なんだ」
「どんな人なん?」
「格好良い人、かな。クールと言うか。でも考えている事は結構分かりやすい」
「よう分からんな」野沢菜さんは笑った。
「とにかく、良い人だよ」
「男の人?」
 野沢菜さんの目には少し期待の色が浮かび上がっている。魂胆は見え見えだ。僕は彼女の期待を裏切る為に「女の人だよ」と答える。
「なんや、つまらんな。でもせっかくやしうちも会おうかな」
 あまり他の部員と涼子さんを接触させないほうが良い気がしていたので、この野沢菜さんの言葉には多少表情が歪んだ。
「何その顔。うちあんまり行かん方がええ? あ、もしかして狙ってる人とか。二人きりになりたかった?」
「いや、違う。そうじゃない」
 僕は慌てて否定した。野沢菜さんは含み笑いをしている。確信犯だ。
「まぁそやろなぁ。自分そう言う攻撃力とかなさそうやもんなぁ。ダメージゼロ」
 胸をグサリと刺された気分だった。悪気はないのだろうが、さらりと酷いことを言う。
「で、なんでうちが行ったらあかんの?」
「逆の立場で考えてみてよ。知らない後輩に囲まれても居辛いでしょ」
「あぁ、確かに」納得した様子で頷く。「でもわざわざ部室まで来はるって事は分かってて来るんちゃうの」
「そうかも」
「じゃあええやん。問題なし」
 なんだか上手く丸め込まれた感じだ。
「格好ええ女の人なんてあんまりおらんからな。見てみたい」
「興味本位かよ」
「あたりまえやん。それ以外に何があると?」
 しれっと言い放つ野沢菜さんに何も言うことができなかった。
 体育館に寄り、受付でスタジオの鍵を借りた。スタジオは体育館の裏の課外活動棟にある。部室の向かい側。徒歩一メートル。
「何でスタジオの鍵なんか借りんの?」
「気分転換にギターでも弾こうと思ってね」
 ここしばらくはアンプに通して楽器を鳴らしていない。久々に弾きたかった。
「でもOGの人が来るんやろ?」
「十二時にね。まだ時間あるし」
 まだ十一時だ。
 体育館を抜けると課外活動棟が見えた。課外棟の入り口横には喫煙所がある。よく部室に行く時、ここで煙草を吸う部員の姿を見かける。僕は煙草を吸わないが、スタジオの休憩時間ではよくここで体を休める。座りやすいベンチがあるし、広々としており、景色も良い。屋根があるので雨の日も濡れる心配がなく、居心地が良かった。
「あ、ごめん、ちょっと吸って良い?」
 課外棟に入ろうとすると野沢菜さんに首根っこをつかまれた。一瞬服が喉に食い込み、「ぐえっ」と言う声が出る。嘔吐き(えずき)ながら野沢菜さんを睨むと、煙草に火をつけていた。
「ごめんごめん。まさかそんなに綺麗に喉に入るとは」
「珍しいね、煙草吸うの」
「普段人前では吸わんようにしてるから確かに珍しいかも」
 口にくわえた煙草が赤く光り、煙を吐いた。見た目が女の子らしい格好だけに、その姿は妙なギャップがある。
「まぁお酒の席とかはごくたまに我慢できずに隠れて吸ってまうんやけどな」
「というよりも何で我慢する必要があるのさ」
「うちの可愛い女の子ってイメージを消さんために決まってるやん」
「そのイメージを払拭したくないなら禁煙すれば良いのに」
「それはそれ、これはこれ」
 至極真面目な表情で彼女は言う。欲張りな奴だ。
 野沢菜さんが煙草を吸っているという事を知っている人間は部内でもそう多くない。三回生のごく一部。僕は飲み会の時、たまたま店の外に出たところで喫煙中の野沢菜さんと鉢合わせた。普段人前で吸わない彼女がこうして僕の目の前で煙草を吸っているのはその為だろう。
「前から喫煙してる人に聞きたかったんだけど、煙草って美味しいの?」
 僕が尋ねると野沢菜さんは首を捻る。
「美味しい、とはちょっとちゃうかなぁ。まぁたまに疲れたとき吸うと美味しく感じるけど。美味しさを求めて吸ってるんちゃうよ、少なくともうちは」
「じゃあ何で吸うのさ。口や服や手に臭いもつくし、周りの人からは煙たがられるし、体に悪いし、お金もかかる。野沢菜さんみたいに女の子で煙草を吸っていたらそれだけで軽蔑されたように見られることもあるんじゃないの?」
「きついこと言うなぁ。まぁ事実やけど。実のところ何で吸ってるのかはうちもよく分からへん。もう習慣になってるし、依存してるんかもしれへん。ただ、一番近いとすれば穴を埋めるためやろなぁ」
「穴?」
「焦燥感と言うか、寂寥感みたいなんに襲われたりするんよ。そう言った感覚をうちは穴やと思ってんねん。煙草は、言わばそういう穴を埋めてくれると言うか……」
「それ、埋めると言うより、気付かなくしてるんじゃないの?」
 僕が指摘すると彼女は軽く頷いた。
「そやなぁ。じゃあ、煙草は誤魔化してくれるんやな。いろんなもんを」
 そう言って灰を灰皿に落とす。
 彼女は体育館座りみたく膝を立ててベンチに座る。肘を膝に乗せ、手をだらりと垂れる。妙に寂しげに見えた。
「野沢菜さんが今一番誤魔化したい感覚って何?」
 気がつけば、そう尋ねていた。
「何や、なんか変な事聞くなぁ」
「妙に気になった」
「そやなぁ。なんやろ」
 一口煙草を吸う。先端が赤く光る。灰が少し飛ぶ。
「まぁこういうのあんたに言って良いんか分からんけど、うちは今まで三年くらい部活居てて、ずっと気になってた違和感があったねんか」
「違和感?」
「ほんとにうちはこの部活に馴染んでんのかな……ちゃうな、ほんとにうちはみんなと気が合ってるんかなっていう気持ち。人とのズレって言うかさ、そんなん」
「ズレ?」
 たぶん、似たような事を僕も感じていた。ずっと疑問に思っていた。それを直接声に出された。そんな感じだ。
「うちは今まで人と話す時に素の自分を出してきたつもりや。まぁ煙草の事とかはアレやけど、少なくとも、本音で話すようにはしてきた」
 そこで野沢菜さんは一度話を止め、逡巡するそぶりを見せた。どう話して良いのかわからないようだった。
「それやのになんでやろな、いつも気を使ってる様に感じて、何かを取り繕ってる気がしてた。でもそれは相手と仲良くなれてないからやって思ってた。百人近くいる部員全員と気さくに会話して、お互いの名前や好きな音楽とかも知ってて、一緒に講義を受けたりもして、お酒まで飲んだりすんのに、まだ仲良くない。そう思っててんな、ずっと」
「でも、違ってた?」
 野沢菜さんは頷く。
「うちはもう部には馴染めとんねん。ただな、性格が合わへん。お互いの事をよく知っててもその感覚は拭えへんかった。でも、高校の友達にはそんな感覚一切無い。バイト先の子にも、学部の友達でもそう言う感覚は湧いたりせえへん。大学に入ってから出来た友達やから壁が取れへんって訳じゃなくて、単純に部の人間と性格が合わへん。その事に気付いてしもてんな。仲はええけど心は許せてない。矛盾してるけど、そんな状態やねんな。誤魔化したいって言ったら、この感覚になるかなぁ。人間って独りになるとやっぱり何かしらごちゃごちゃと考えてまうやろ? でもな、煙草吸うとあんま頭働かさへんようになるからなぁ。ちょっと楽になんねん」
 まぁこんなこと言っても分からんやろうけど、彼女はそう言うと小さく笑った。
「いや、分かるよ。僕もだけど、時折そういう感覚に悩まされる時があったんだ。良く似てる。ただ、木下に対してはそう言う感覚を抱いてないけどね」
「木下君なぁ。たしかにあんたら仲ええもんなぁ」
「腐れ縁かもしれないけどね。一回生の頃から偶然講義が一緒になって、だらだら続いてる」
 不意に、悠子さんが脳裏に浮かんだ。アパートの住民の事を良く知っている悠子さん。悠子さんは管理人としてでなく、友人としてアパートの住民と接していると涼子さんは言っていた。
 悠子さんも、こんな感覚に迷ったりしたことがあるんだろうか。
「そういえば野沢菜さん」
「何や?」
「何でそんな言いにくい事を言ってくれたのさ」
 尋ねられたと言うのもあるのだろうが、いくらでも誤魔化せた話題だ。
 野沢菜さんは灰皿で煙草の火を消すと、薄く笑みを浮かべながら言った。
「言ったやろ? うちは人に対してなるたけ素の自分で接してきたって。誰に対しても本音は言うよ。……それに、あんた聞き上手やからな。理解くらいは示してくれるんちゃうかなって、正直ちょっと期待して言った」
「そっか」
 野沢菜さんはそのまま立ち上がって伸びをする。
「さすがに秋の終わりとなると冷えるなぁ。部室行こか」
「そうだね。スタジオにも入りたいし」
 僕らは喫煙所を後にすると部室に向かった。

       

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