作:一階堂 洋
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お前は小説を書こうとしている。
ある日、千葉県柏のららぽーとでコーヒーを飲んでいると、隣に男が座る。長い髪の男だ。らくだ色をした、コーデュロイのジャケットを着ている。肘のところが薄くなっている。彼は前を向いたまま話を始める。あんた、お金が欲しいって顔だな。
違う。お前はワードを閉じて、ファイルを削除する。これじゃ駄目だ。人物にリアリティがない。謎の男? なんだ? 何だって? ちっともリアルじゃないじゃないか。お前は鏡に向かって話しかける。嘘を吐くんじゃない。腹の底にいるエゴにキーボードを打たせるんだ。
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これが、私の書き始めた小説の冒頭だ。二人称小説、小説を書く男についての物語を書こうとしている。
大学の一般教養で出た課題だ。何でもいいので、短編小説を一つ書いてきなさい。みんなにやにやしていた。
私の隣に座っていた、眼鏡の大学生が、贔屓目に言っても特徴的なにやつき笑顔を浮かべて、「何でもいいって言ったね?」と言う。両手の指を絡ませて、彼が指をぽきぽきと鳴らす。彼の腕には、配られたプリントが、汗でぺっとりと張り付いている。周りの人たち全員が、周りに聞こえるように、しかしそうするつもりが無いように聞こえるくらい、声を大きくする。
胃が小さくなったような気分のまま、私は部屋に帰る。少なくとも、私はあいつよりはうまく書けるだろう、と思う。
『経験を求める若い男の肖像』とタイトルをつけた。
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お前の授業は八時半から午後五時まで、まるで、寄贈品のまんじゅうみたいに、びっちり詰まっている。お前はため息を吐く。そしてお前は酒を飲む。動物園に行く。数少ない女友達と美術館に行く。そして僅かに残った日曜の夜、ついに本棚の整理も終えてしまった後で、お前はパソコンを開く。
美術館からの帰り、電車はひどく混んでいた。僕は彼女の手を握ろうか考えている。いきなり握ったら、気持ち悪い奴って思われるだろうか。それとも、ぐっと距離が縮むだろうか。『リスクを小さくしなさい』と経済学の先生は言っていたけれど、経済学に基づいた恋愛なんて、ただ愛を稼ぐためのゲームにしか思えなかった。電車が揺れる。僕の隣の太ったサラリーマンが姿勢を崩す。僕はなんとか耐える。彼女がそっと僕に触れてくれる。大丈夫? 僕は彼女に「大丈夫。ありがと」と耳打ちする。そして太ったサラリーマンに感謝し、彼の暑苦しさを憎み、でもやっぱり感謝する。
何だこれは、とお前は思う。べたべたした甘さ。だらけきった陰嚢みたいな文体だ。お前は全部消す。こんな小説は自慰と変わらない。もっと書くことがあるはずだ。この世の矛盾、大きな事柄、何か見定めなければならないこと、自慰でない小説……。
お前の頭に『自慰』という言葉がこびりつく。
そしてお前は自慰をして寝る。
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私はサークルに顔を出す。そこには同じ顔をしたような、しかし本人たちは全く個性的な顔立ちをしていると思っている男たちがいる。彼らはいつもチャンドラーかカポーティかウィトゲンシュタインについて話している。無数の定義が飛び交い、私達の生活にぴったり張り付いた言葉でさえ、デリカットな専門用語として扱われる。
彼らの話をしばらく聞く。私は口を開く。
「それは、カポーティの文体が、少し女性的だと言うことと関係していますか?」
「女性的とは何だ? ジェンダーかセックスか?」
「ジェンダーについて語るのか?」
私はぎこちなくはにかんで、「さあ」と言う。彼らは満足して、また会話のように見える行動を始める。
高尚なはずの議論が終わり、私は電車に乗る。恋人からメッセージが届いている。私は次の駅で降りる。待っている間、さっきのサークルの誰かが送ってきた『今日はちょっと難しかったよね笑』から始める通知に返信する。
待った? と声がかかる。いつもどおり、「ぜんぜん」と答える。顔を上げる。恋人の笑顔がある。
私は思う。今日の生活に、小説に書けることはあっただろうか? 私の書いた小説の主人公が、やっと見つけられる経験とは何なのだ?
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『
それに、逃げて何を求めようというのです? 逃亡生活はいやな苦しいものです、しかもあなたに何よりも必要なのは生活です、はっきり
』
(ドストエフスキー『罪と罰』(下)工藤清一郎訳 四十六版 三百九十七ページ)
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お前は起きる。それは避けようがない。今日も朝日が登る。お前のパソコンのディスプレイにはまだ文字が書かれていない。お前は今日も書く。子供をいじめる左翼の母親について。狂ってしまった男について。幼女性愛の男子大学生について。それらは全て嘘っぽく響く。できの悪い妄想でしか無い。お前はニュースを調べる。信州大学の二年生XXXXが、近所の女子高校生を監禁した事件、千葉大学の大学生が、小学五年生を数年間に渡り軟禁した事実。
お前は満足できない。お前はまだ知りたい。ニュースに書かれた事実より厳密にたくさんのことを望んでいる。それは体験だ。
お前は考えを変える。
お前は短期バイトのページを開いて、上から三番目の求人をクリックする。
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私の恋人は看護師だ。だから、彼女は看護について話す。根津のコーツトというカフェのカウンターで、彼女は自分の脇腹に、そっと手を当てる。ご飯が食べられなくなった人がね。
私は遮る。
「胃ろうでしょ」
「そう、胃ろう」
彼女は胃ろうの話をする。患者の口から垂れるよだれを拭くことについて話す。彼女はカウンターの木目に指を這わせる。
彼女が早く黙りこむことを、私は期待している。なぜ? 私は自分に問いかける。答えはない。その代わりに、彼女には話すことがたくさんあるのだと、私は気がつく。
それは私をいらいらさせた。
私は口を開く。
「それ以外に言うことはないの?」
そして沈黙がやってくる。
私が望んだ通りに。
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お前の短期バイトは、中国美術のオークションだった。
陳さんという、陸軍大佐のような顔をした男が、てきぱきと指示を出していく。これを事務所から全部運び出せ。お前を含め十四人のバイトは、雑居ビルの二階から、合計五トントラック五台分の美術品を運び出す。段ボールでぴっちりと、しかしまちまちの大きさで梱包された美術品達は、むしろ商品のように――むしろヤップ島の巨大な石貨のように思える。
一日目が終わった時、バイトは十人にまで減っている。
陳さんは次の日、お前たちに会場の設営をさせる。ついたてが何百枚も持ち込まれて、図面が引かれる。業者がやってきて、誰もがお互いの名前や特徴を知らないまま、ひたすらに会場だけが作られていく。まるで、どこにも意識の片鱗を表さない受精卵が、徐々に卵割し、そしてお前が作られていくみたいに。
そして気がつけば、バイトは七人に減っている。お前は何かおかしいことに気がついている。同時に高揚している。これはネタになるぞ、とお前は思っている。
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彼女は私の部屋で寝たがった。彼女はシャワーを浴び、私の服を着て、私のベッドで眠りにつく。私は二時まで起きて、小説の続きを書いた。
それから、彼女の隣に潜り込み、眠りについた。
自分の領域を確保するために、恋人の体を少しだけ押しのけた後で。
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『
スタイルとは何の盾も無いことだ。
スタイルとは何の見せかけも無いことだ。
スタイルとは究極の自然らしさだ。
スタイルとは無数の人間がいる中でたった一人でいるということだ。
』
(チャールズ・ブコウスキー 『ワインの染みがついたノートからの断片』P275)
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オークションが行われる。お前は展示場で監視の仕事をする。中国人がカタコトの日本語と、カタコトの英語で話しかけてくる。お前は仏像の底を見せ、軸を外して裏を見せ、そして壷の中を覗かせてやる。遠くから競りの声が聞こえてくる。
周りには、アルバイトの連中が、誰も残っていないことに、お前は気がつく。
そして、お前の後ろに陳さんが立っている。ちょっと来いよ、と、不思議な抑揚のついた日本語で彼が言う。それは魔術のような強制力がある。
お前は彼の後をついていく。
そこにはもう一人のアジア人がいた。彼が日本人だと分かるのと、お前がポイントオブノーリターンを跨ぐのは同時だ。
「二億で落とされた仏像、早く、静かに、誰にも見つからないように持って来い。それでバイトが終わりだ」
お前は頷く。
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彼女と再び会う。私にはしゃべることがない。馬鹿げた論理について何が言えるだろう? 空疎で、巧緻で、そして現実に一切接触しないがゆえに完璧さを保つ理論たち。文明のヴァニタス。
そして彼女はしゃべる。私の手を握る。彼女の手は節が立っていて、そして農民のような感触がした。彼女の手までが雄弁だった。
私は口走る。
「もういい、やめて。もうたくさんだし、聞きたくない。何で私は胃ろうの話を聞かなきゃいけないの?」
「分かった、胃ろうの――」
「違う、分かってない」
私は自分がコントロールできなくなっている。
「あんたが胃ろうの話をしなくなっても、あんたが隙あらば胃ろうの話をしたいってことが、私には分かる。そして、そんな状態でいるのは、はっきり言って耐えられない。真剣に耐えられない。分かる?」
沈黙。
「分かる?」
私には分かっていない。
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『
お前はゆっくりと通路を進む。オークション会場から出てきた、事務の女の子が会釈する。お前の頭に馬鹿げた恐れが浮かぶ。顔を見られたんじゃないか……。お前は首を振る。
落札が終わった商品が、薄暗い保管庫に並べられている。ロット番号二百五十番――お前はいとも簡単に見つけ出す。仏像の入った木箱に手を伸ばす。
アナウンスが響く。
『
お前は木箱を掴んで、抱える。彼らの元に走る。誰ともすれ違わない。まるで、死者の世界にずれ込んでしまったみたいに。
陳さんが、にこにこ笑いながら待っている。そしてお前に分厚い封筒を手渡して、「こんにゃくだよ」と言う。それは冗談に聞こえない。
お前は急いで、出口まで走る。そこには黒いタクシーが停まっている。ドアが音もなく開く。運転手が、乗れ、と、お前に目で告げる。
行き先も告げていないのに、タクシーはお前をお前の部屋まで連れて行く。そして料金も貰わずに、またどこかに消え去る。
封筒には一万円札がぎっしりと詰まっている。
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彼女の歯ブラシを捨てた。彼女のリステリンを使いきった。彼女の靴下と下着を捨てた。少しだけ残っていた彼女のにおいのする香水を捨てた。それで私の部屋から、彼女がいなくなってしまった。
それを見計らったみたいに、サークルの先輩が、私を食事に誘う。私は頷く。本とか映画とか、教えてください。いいよ、何が好み? フランスの映画とかどうかな? 少しむずかしいかも知れないけど……。
そして、その日、私は彼の部屋に泊まることになる。膝が震える。私は右手をぎゅっと握りしめて、いつもそちら側にあの子がいたことを思い出す。
そして、あの子の顔をはっきりと思い出す前に、会計を済ませた先輩が、私の右手を握りしめる。男の力だ。
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『
いつも、家にぎゅうぎゅうに閉じ込められているのは、退屈だ。そして、結局、何か普通の生活の残り香の中で過ごしたくなる。友達に会う。食べ物を探そうとする。みんな外に出たがる。しかし、外出するなら覚えておくことだ。戻ってこれないかもしれないということを。友達に出くわすたび、こいつとは二度と会えないかもしれないと、私はいつも心に止めておく。ある時、近所に住む鍛冶屋の友人のところに立ち寄った。新しい手作り発動機を作ってくれよ、と私は頼んだ。やるよ、と彼は言った。しかし、その日、近所に落ちてきたクラスター爆弾によって、彼は死んだ。
』
(ワシントン・ポスト『We live in Aleppo. Here’s how we survive.』
https://www.washingtonpost.com/posteverything/wp/2016/10/21/how-to-survive-in-aleppo/?utm_term=.42a223201654 より翻訳)
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次の朝、お前は何かが壊れていることに気がつく。あたりが静かすぎる。違う、お前は自分に言い聞かせる。これは普通なんだ。これはいつもの朝なんだ。
しかし、給湯器はいつもよりずっと調子が悪く、八時きっかりに仕事に出かけるはずの、隣の女は、とてもゆっくり出かける。
お前は大学に行けない。扉の向こうに、誰かが潜んでいる。その気配をお前は感じる。お前のパソコンのディスプレイには、ワードの白い画面が広がっている。書き始められない小説。
お前は布団に潜り込む。お前の体は震えている。
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彼の部屋は、千駄木にあった。
地下鉄メトロ千代田線は、ひどく混雑している。みんなが何も考えないようにしている。先輩と私の体が密着する。私達はこういう風に圧縮されながら死んでいく。もしくは圧縮された結果、死んでしまう。もしくはすでに死んでいて、そして圧縮される。
私はアレッポについて考える。そこにひしめく悲しみについて考える。手に触れる、ざらざらした恐怖について考える。
先輩が私の腰に手を回して、私を電車から下ろす。まるで全ての性欲や悪意や淫猥が取り除かれているみたいに。でも私は分かっている。
全てが分かっている。
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そして、お前の期待通りに、お前の部屋のドアが叩かれる。お前はインターホン越しにそいつを確認しようとする。モニターには何も映らない。真っ黒なままだ。
部屋が叩かれる。お前は窓から逃げようとする。
コツコツ、と、窓が叩かれている。お前は逃げ場が無いことを悟る。
そして、お前は、ゆっくりと、玄関のドアに向き直る。魚眼レンズを覗き込む。そこには真っ赤な目があった。赤黒く充血した瞳……誰かの瞳……結局書くことができない経験と引き換えの瞳があった……ドアが開いた……。
お前は何が起こるか分かっている。
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約束通り、先輩は映画を見せてくれる。二人の少女が――彼らは教会で過ごすシスターだ――悪魔崇拝の儀式をして、村の牧童をたぶらかし、旅行者を誘惑し殺した。そのたびに、先輩は私の顔を見た。面白いでしょ? とても、と私は答えた。
やがて、彼の手が私の肩に回された。彼のわきの臭いがした。彼は私を、段々と強く抱き寄せた。私は吐きそうになった。
そして、彼が私に向き直った。映画が終わっている。私はひどく疲れている。頭の奥がじんじんと痛んだ。しかし、これが私が感じ取るものだ。私が受け取ろうとして受け取るものだ。彼がゆっくりとズボンを脱ぎ始める。私は覚悟している。
その時、私の頭の奥で、私の主人公の声がした。それはこう言っていた。
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お前にそれが耐えられるかな?