第五話 彼の内宇宙に生じた棘皮 (宮城毒素)

 私は天使である。名前は――翼ちゃん、と。そう呼ばれている。
 人間たちとは違って物質的な存在ではないが、可視化はいつでも自由自在で好きなように人間界に干渉出来る。
 天界の住民と聞けば、高貴で優雅で華々しいイメージを持つ人間が多いらしいが、現実はもっとため息が出るくらいには過酷でシビアだ。
 例えば私は天使だが、天使を最上位とする天界のヒエラルキーに於いては最下位に位置する――人間で言うところの奴隷……は言い過ぎだが、労働者階級、更にその下位辺りに居座る働き蜂なのである。
 それは冴えない人間の醜男ぶおとこを必要な時に即サポート出来るようにと二十四時間絶え間ない監視体制を敷かされている現状からも窺えるはずだ。
 せめてりき天使クラスの身分であればと自らの出自を呪う。
 しかし、いくら高位とて彼らも所詮は神の遣い。寧ろ中位の天使は、上司に怒られ部下には嫌われ、中間管理職的な板挟みに頭を抱えているように思えるし、その気苦労は計り知れない。
 いっそフィンブルの冬(ラグナロクの前兆)でも訪れないものかと厭世えんせい的になることもあるが、深呼吸をして心を整えると同時に、以前ほんの気まぐれで読んだ――人間界のとある教養深い漫画に出てきた「一生懸命が報われない社会でも、天使は粛々と仕事をすればそれでイイ」
という台詞を思い出し、私の生来の属性である“勤勉さ”を取り戻すようにしている。
 そんなふうに仕事に対して割り切った態度で臨んでいる私でも、流石にこれはと辟易としてしまう瞬間がある。いっそ、人間のように過労死出来ればと神に祈る瞬間だ。
 それがまさに今、この瞬間。
 現在、私が担当している冴えない醜男――高卒でフリーターで悩ましい程に自堕落で低俗な青年――石動堅悟。彼が非正規英雄となってから、つまり私と彼とが出会ってからまだ一ヶ月と経っていないが、彼は早くも二体目の悪魔を討伐し損なったばかりかもうじきさいたまグレートアリーナなる場所で開催されるイベント――そこに集う六万人もの観衆を人質を取られるという地獄の住民もびっくりな碌でなしぶりを発揮していた。
 まあ、それについては良い。所詮は非正規。即戦力としても期待されていたわけでも伸び代のある新人として歓迎されていたわけでもない――単なる使い捨ての人的資源だ。
 問題なのは。
 中国のとある寺院に赴いた彼が強力な魔力と新たなアーティファクトを授かるべく二週間に渡って辛く厳しい修行を乗り越えたまではよかったが、その成果が思いがけない形で現れてしまったことにある。
 ウニ。
 ……そう、ウニだ。
 ウニである。
 石動堅悟は文字通り、ウニになってしまったのである。
 私は思わず頭を抱えた。
 確かに人間とウニの遺伝子はその七割が共通しているが、だからといってどのような形而上学的変態を遂げれば「日本人が中国でウニになった」という高度に文学的な現象を引き起こせるのか。
「堅悟様、……石動堅悟様」
 試しに呼びかけてみたが、返事はない。
 ただその象徴的かつ剥き出しな黒く鋭い無数のトゲを自由自在に軟化させたり硬化させたりを繰り返し、器用に地面の上を転がっていく。
「はあ……」
 こうなってはもう魔力があるとかないとかの次元ではない。解雇――するしかないだろう。いや、しかし、そうだとしても上司になんと報告するべきか。
 というか、これはまさかだけれどひょっとして、私が――始末書を書くことになるのだろうか。
 非正規英雄がウニになってしまった責任を取れと?
 いや、いやいや。
 何が。……何がいけなかったのだろう。
 人選――は私がしたことではない。エクスカリバーの能力だって、使い方次第では上級の悪魔にだって引けは取らないはずだし、“代償”にしたって別にそういうことではないし。やはり――中国の汚染された大気がそうさせたのだろうか。それとも山月記的な事象なのか。
 とはいえ、あのままの彼を三週間自力でトレーニングさせたところでサハギンとの再戦に勝利できる見込みはまるでなかった。それどころか蹂躙されて為す術もなく殺されていただけに違いない。討伐実績が一体だけで殉職というのは、結局私に対する当局の心証が悪くなるわけで――。
 私は眉間に深いしわを刻んで眼鏡をくいとかけ直す。
 何にせよ、このまま彼の牛歩戦術を黙って眺めているわけにもいかない。
「碌でもない。……本当に、碌でもない」
 恨み言も言いたくなる。しかし、彼ばかりを責めるのはやはり違うかもしれない。
 こうなってしまった原因の一端は――心当たりはないが、それでもひょっとしたら私にも、何かしら……ある可能性も否めないような気がしなくもない。
 もはや言葉も通じない異国の辺境で消費期限が切れるのをただ待つばかりにさせるのも流石に忍びない。せめてもの温情。
「あなたを、海に還して差し上げましょう」
 私はウニを――元石動堅悟を拾い上げると、ひとっ飛びで日本海に面する北朝鮮民主主義人民共和国の沿岸部へと向かった。
 干涸らびた老人たちが亡者のように当て所もなく彷徨う寂れた漁村。
 浜辺には五本指の手足が生えた見たこともない魚が無数に打ち上げられていて、「コロシテ……、コロシテ……」と弱々しい呻き声を上げていた。
 水面の透過率は見事に零を記録しており、七色に光るあぶくが数秒ごとに三つずつ立って、それが弾ける度にこの世のものとは思えない人間の――それも老婆の――ものと思しき絶叫が漁村中に響き渡っていた。
 珍しいこともあるものだと思いながら、私は石動堅悟に最後の別れを告げる。
「どうか安住の地を見つけてください。きっと、そこにお仲間がいるはずです」
 形状から察するに、彼はバフンウニの仲間であるはずだ。まあ、どこかにはいるはずだ。ウニの寿命は無駄に長い。
 新たな人生と旅の無事を祈り、彼をぽちゃんと沈めると、報告書を作成するために一度、天界に戻ることにした。