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 世は終末。週末ではなく、終末だ。
 見上げた空に広がる曇天と同じくらい、薄暗く息苦しさを覚える灰色の世界。
「こんなこともできねぇのかよ」
「ったく、ほんとに使えねぇ」
「今まで何をやっていた? こんなのは仕事じゃねぇだろ」
「バイトだもんな、しょせん」
「あーあー、もういいから、やる気がねぇんならとっとと帰れ!」
 ……くそっ、くそっ、くそっ……。
 うんざりする。
 やりがいも何もねぇ。
 誰でもできる仕事じゃねぇか。
 俺の代わりなんて幾らでもいるからって、えらそうにしやがって……。
 だからって手を抜いていた訳じゃねぇ。
 俺は俺にできるだけの事をしてきたつもりだが、誰もその頑張りを見ちゃいないし、認めてもくれねぇ。
 挙句の果てには、荒んだ労働環境がそうさせるのか、同僚バイトや社員に余計な仕事を押し付けられたり、できていない責任を俺のせいにされたり……。
 ただでさえ底の見えないぬかるみに腰まで浸かって一歩も動けねぇってのに……。
 もう、足掻くことすらできねぇ。
 もう、立ち上がる気力もねぇ。
 もう、もう、もう……。
 何も、ねぇ。


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「あなたを、臨時雇いの英雄として採用することが決まりました」
「神命に基づき、この地を侵す悪魔を滅しなさい。待つのではなく、あなたが成りなさい。功績も実績もない、栄誉も名誉も存在しない、正規でも公式でもない無名の英雄として、あなたが」
 この言葉に、この状況に。
 ぶっちゃけ言おう、俺は酔っていた。
 だってそうだろう? 神に選ばれた、悪魔を滅す、英雄。
 これほど胸が高鳴るワードを立て続けに出されて、ワクワクしない男の子なんて存在しねえよ。


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「で、あなたはどうする? 石動堅悟?」 
「私たちの組織、デビルバスターズに加わるのか、加わらないのか?」

 この言葉に、この状況に。
 ぶっちゃけ言おう、俺は覚めていた。
 だってそうだろう? 英雄などと言っても、やはり非正規。所詮は使い捨てなんだ。
 デビルバスターズなどという組織に入ったところで、その中で駒にされるだけなのがオチだ。
 ケルビム上位天使とリザのやり取りを見ていてもそれは明らかだ。
 組織に属するということは、これまで俺がやってきたようなバイトと何ら変わることはねぇ。
 そう考えると、あの時のような高揚感はすっかりなりをひそめていた。

「少し、考えさせてくれ……」
 神妙な顔をしてそう言うと、俺はマジックミラー号から降り立った。
 心が読めるという天使のケルビムや翼ちゃんも何も言わなかった。
 俺が本当に逡巡しているというのが分かっているからだろうか。
「堅悟」
 マジックミラー号から少し離れたところで、リザが俺の背中に声をかけた。
「無理強いはしないわ。私にはその権利もない。それにこの戦いは、強制されて嫌々戦っているような戦士が役に立つほど生易しいものじゃない。ただ、あなたが英雄に選ばれたのは、その心が善性に富んでいるからこそだというのを忘れないで」
 善性だって? 
 この俺がか?
 そういえば……。
 バイトの帰り道、交通違反をしていた車をたまたま見つけた。むしゃくしゃしていた俺は、別に正義感でも何でもなく、車の運転手をちょっと困らせてやろうというぐらいの気持ちで通報してやったが、まさか……。
 善性か、善性、ねぇ?
 英雄に選ばれるに相応しい大層ご立派な善性だよなぁ?
 はっ、笑えねぇ。
「俺はそんな大層な人間じゃねぇ」
「英雄に選ばれたのだから、そんなことはないはずよ。それに、悪性の強い人間だったら……気づいていた? 敵は、私たちと戦ってきた悪魔とは、元は人間だということを」
「ああ」
 そうだ。薄々気づいていた。
 俺のボロアパートにデリヘル嬢として現れたユキは、最初は確かに人間の姿をしていた。
 それがいきなり変身してサハギンとなったが、やつも確かに言っていたな。

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「私もまだこのチカラに目覚めてすぐだから慣れてないのよ」

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「私たちの敵は、準悪魔アソシエイト・デビルよ」
「準悪魔…?」
「天使さまたちと同様、地獄に潜む本当の悪魔というのは地上に這い出てくるには膨大なエネルギーが必要らしいの。だから、自分たちの代わりに人間を利用している。それが準悪魔。悪魔に準ずる者たち。悪魔によって悪性を見出され、唆され、人間でありながらあのような力を得た者たちのことよ。欲望のままうごめき、この世界を破壊し、混沌に導こうとしている」
「……」
「準悪魔は人間の姿をすることもできるから、例えば政治家や会社経営者といった大きな影響力をもった人間の中にもいる。彼らはその悪意をもってこの世を乱しているの。そして準悪魔たちが増えてしまうと、ますます世界は闇に包まれてしまう。あのアリーナのように、罪なき多くの人々が殺されてしまう。それを止められるのは私たちだけなのよ」
「だけど、準悪魔も人間なんだろ?」
「悪意に染まった元人間よ」
「つまり、俺に人殺しの手伝いをしろって言ってるんだな?」
「……っ!」
 リザが言葉に詰まった。
 俺は何も言わず、その場を立ち去ろうと歩いていく。
「私は!」
 冷静沈着に見えたリザが、俺の背中へ向けて絶叫した。
「私は、準悪魔によって肉親を殺された! 好むと好まざるとに関わらず、力を持った私たちは戦わなければならない! これは戦争なのよ! 世界を守るための、正義の戦争!」
「……」
 やりたいやつだけがやればいい。
 戦争というが、結局は天使と悪魔の代理戦争じゃねぇか……。
 そう言い返してやろうかとも思ったが、どうせケルビムか翼ちゃんが伝えるだろう。
 振り返ることなく、俺はその場を立ち去った。







「……堅悟さま」
「お、いたのか」
 翼ちゃんの姿を認め、俺は手を止める。
 数日後、俺は工事現場のバイトに勤しんでいた。
 きつい肉体労働、得るのは端金。
 だが生きるためには仕方がない。
「ごらぁ! さぼってんじゃねぇぞバイト!」
 手を止めたのがさっそく見咎められ、怒声が飛んでくる。
「へーい! すいませーん!」
 俺は再びツルハシを握り、力いっぱいに振り下ろす。
 ……誰かさんのせいで、怒られちまったじゃねぇか。
「申し訳ございません。ですが……」
 そう思うんなら、もう俺には話しかけねぇでくれよな。
 どうせ心を読んでいるだろうから、俺は口を開いて話すことなく、心の中でそう呟いた。
「どうか話を聞いてください。この近辺に、悪魔が…!」
「うるせぇ、黙れ!」
 口に出すつもりはなかったのに、思わず怒鳴ってしまう。
「小僧、黙るのはお前だ」
「うげ……」
 悪魔……いや、怒り心頭の現場監督が、俺の前で仁王立ちしていた。






「はぁぁぁ……」
 深い溜息をつき、俺は家路へつく。
「も、申し訳ございません」
 いたたまれない雰囲気を漂わせ、俺の後ろを翼ちゃんがついてくる。
 もういいからついてくるなよ。
「ですが……」
 俺はもう、戦いたくないんだ。
 俺はごちゃごちゃと翻意を促そうとする翼ちゃんを振り切り、駅前の繁華街へと向かう。天使なんざ寄り付かないであろう、ごみ溜めとどぶ板で囲まれた…この埼玉県の田舎町に相応しい、実にこじんまりとしみったれた繁華街だ。
「あ~ら、ハンサムなお兄さん。ちょっと飲んでいかない? 一時間飲み放題でたったの千五百円よ」
 黒髪ソバージュで三十代後半ぐらいのお姉さんが俺を手招きしている。
 今日は風俗って気分じゃないし、千五百円で飲み放題なら安いな…。
 いわゆるガールズバーなのかもしれないが、そんなに安いなら女の子はつかないところなのかもしれない。いや、その方がいい。今日は静かに浴びるように飲みたい気分だ。
 俺はお姉さんに招かれるまま、裏路地にある小さなバーへと入っていく。
「いらっしゃい」
 金髪にピアスをつけたチャラそうな兄ちゃんがバーテンダーをしている。
「バーボン、ロックで」
 ワイルドターキーが出される。
 ぐいっと三秒で飲み干す。
「ジャックダニエルある?」
「ありますよ」
 ジャックダニエルのロックが注がれる。
 それもぐいっと三秒で飲み干す。
「ペース早いですねお客さん」
「飲み放題なんだろ? いいじゃねぇか」
「でも、そんなペースだと体に毒ですよ」
 バーテンダーの兄ちゃんは、金髪にピアスとチャラそうな姿をしているが、意外なほど柔らかく優しい口調で語りかけてくる。
「気遣ってくれなくてもいいよ…たくさん飲みたい気分でさ」
「何かありました?」
「まぁ、ちょっとね」
 バーテンダーの兄ちゃんは無言で頷き、ジムビームのロックが注がれる。
 深くは事情を聞いてこないその気遣いがありがたかった。
 俺はジムビームもぐいっと三秒で飲み干す。
 心地の良いジャズが流れている。
 呼び込みなんてしなくても良さそうな、普通に健全なジャズバーだった。
「バーテンダーのお兄さん一人だけでやってる店?」
「そうですね。少し前までは女の子もいたんですけど……すみませんね、つまらないですか?」
「いや、静かに飲みたかったから別にいいよ」
 ポケットをまさぐるとハイライトが出てきたので、ワイルドターキーの四杯目と共に、ハイライトを吸いながらちびちびと飲むことにした。やはり少しペースが早かったかもしれない。もう酔いが回ってきていた。
「ああ、寒い寒い。外の呼び込みも楽じゃないわー」
「お疲れ様です。姉さん」
「やっぱり私一人じゃねぇ、若い子がいないと中々…」
 俺を呼び込みしていたあのソバージュのお姉さんがバーに入ってきた。
 俺の横に座る。
「あ、クロちゃん。ホットウイスキー作って」
「了解です」
 クロちゃんと呼ばれたバーテンダーの兄ちゃんは、サントリーの角をファンシーな猫のマグカップに注いでレンチンして、出されたホットウイスキーをソバージュの姉さんはちびちびと飲みだした。
「ねぇ、君。一人? どこから来たの?」
「……ひ、一人だけど。近所だよ」
「ふーん。なんか君、死んだ魚みたいな目をしてるね。あはは、髪はツンツンでウニみたいに固い-おっかしい~」
 姉さんは俺の髪をつまみながら、陽気に笑っている。
「はぁ……」
「ちょっと姉さん。お客さん迷惑がってるでしょ?」
「えーいいじゃなーい。この坊や可愛い。お持ち帰りしたーい」
 もう酔っているのか、陽気にソバージュの姉さんが絡んでくる。
 はっきり言って鬱陶しいが、おばさんが年甲斐もなく子供のようにはしゃいでいる姿は、別に人を不快にさせるようなものではなく、むしろ微笑ましく感じる。
「……ふーん。なるほどね」
 姉さんは何だか一人で勝手に納得して、ウイスキーをごくごくと飲み干していく。
「そっか。ユキはこんな坊やにやられたのか」
 その名は。
 全身が総毛だつってのはこういうことを言うのか。
 俺は、五杯目のジャックダニエルを持つ手をピタリと止め、微動だにできなくなった。
「……別に、警戒しなくていいよ。今ここで、あんたを殺そうってんじゃない。少し話をしたくなったんだ」
 ソバージュの姉さんは、ウイスキーのお代わりを飲みながら、俺の方を横目で見ることもなく、歌うように呟いた。
 俺の鼻先にメンソールの紫煙が漂う。ソバージュのお姉さんがピアニッシモを吸っていた。
「ユキはさ……可愛い妹分だったんだよ。いつも一生懸命でさ。男によく騙されては泣いていて、あたしはいつもそれを慰めてやってたんだ。でもまさか、あたしより先に逝っちまうなんてね……まだ、三十にもなってなかったってのに」
 まともに彼女の顔を見られないが、ぽたり、ぽたりと水滴がバーカウンターに滴り落ちていた。
「じゃあ……じゃあ……」
 俺は喉奥にごくりと唾を飲み込み、やっと吐き出すように呟く。
「なんで、多くの人間を、あんなふうに殺して……いたんだ……」
「坊や、あんたは本当に、まだ坊やなんだね!」
 ばしゃっ!
 俺の顔面に、ソバージュのお姉さんがジャックダニエルが入った杯を浴びせる。
「ぐわっ」
 アルコールが目に入って悶絶する俺に、お姉さんはヒールの爪先で俺の腹を蹴り飛ばした。みぞおちに痛烈な蹴りを喰らった俺は、げろげろと嘔吐し、先程飲んだバーボンを吐き出していく。
「そう、せざるを得ない事情というのが我々にもあるんですよ」
 そう呟いたのは、バーテンダーのクロちゃんだった。
 まだアルコールが入ってひりひりと痛む目でぼんやりと見ると、クロちゃんは肌が真っ青になり、こめかみのあたりから羊のような角が二本生えていた。そうか、こいつも準悪魔ってやつなのか。
「この世界は灰色だ。終末だ。多くの人々にとり、とても生きにくい時代だ。あなたもそう思うでしょう? 石動堅悟さん?」
「俺の、名前を……!?」
「ええ、ご存知ですとも。最近デビューした非正規英雄。既に二体の準悪魔を討伐して、その魔力は並々ならぬものだと我々の間でも評判です」
「戦うつもりか、ここで……」
「いえ。さっき姉さんも言ったでしょう? 少し話したくなったのですよ、あなたとね」
 そう言い、クロちゃんはにやりと口角を上げた。
「……殺すだけなら、いつでもできますからね」
 こいつ。
 この穏やかな態度は、自信の表れなのか。
「我々は、反逆軍リベルスは、この不条理な世界の理に反逆する者たちです。そして我々は、準悪魔だけではなく、天使のやり方に反感を覚える非正規英雄をも仲間に加えている。天使たちの側には、準悪魔は一人たりともいませんが、我々の側には非正規英雄が少なからずいる」
「何だと……?」
「あなたもこの世界に不満を抱えているのでしょう、石動堅悟さん? なら、我々と共に、あの高慢ちきな天使どもを倒しませんか? ご安心ください。あなたのアーティファクトの力は既にあなたのものだ。天使たちとの契約を打ち切ったからといってなくなるものではない。非正規英雄を倒した場合の報酬も、我々はしみったれた天使たちと違い、数百万単位で差し上げるおつもりです。また、非正規英雄を倒すだけが準悪魔の仕事ではない。多くのつまらない人間どもを殺すことも仕事のうちになります」
「なぜだ、なぜ人間を殺す…?」
「この世界は、一度破壊しなければならない。天使の理によって成り立つこの世界は、既に腐敗し、取り返しのつかないほどに汚れてしまっている。ならば、我々が一度それを壊し、新たな世界を作る必要があるのです」
「そんなことが……」
「できます。それを可能たらしめるのが、我々やあなたに与えられたアーティファクトの力なのですから。天使も悪魔も元は同じもの。やり方が違うだけです。今の腐った秩序を維持するか、それを壊し、新たな世界を構築するか。あなたはどうなさいますか?」
 俺は……俺は……。
 返答につまり、呆然と立ち尽くす俺に、クロちゃんは優しく俺の手を取った。
「すぐに答えは見つからないでしょう。ただ、私たちと接触したというのは、あなたを管轄する天使も既に察知している。性急な天使どもはすぐに対応してくるでしょう。即ち、あなたからアーティファクトを取り上げようとする。その前に、我々があなたの庇護者になることもできる。明日、またここに来てください。その時までに答えを聞かせて頂ければ結構です」
「ユキを殺したあんたのことは憎いけど、仲間になるというなら許してあげる。良い返事を聞かせてね……」
 ソバージュのお姉さんが、俺をバーの外へといざなう。
 すっかり酔いも覚めてしまった俺は、後ろでギャンギャンと喚いている翼ちゃんの声も聞こえず、呆然としながらとぼとぼと家路についた。






つづく