「……うん。だいぶ良くなってきた。これならきっと、近い内に退院できるよ」
「本当?先生」
どこかの国の、どこかの医師が放った診断の言葉。それを受けて、少女は銀髪を揺らして楽し気に笑う。
初めて会った時の死に切った表情とは一変し、今は普通の少女らしく喜怒哀楽をころころと表情に反映させることが出来ていた。
一重にそれは担当医師であった彼の懸命な尽力によるものであったし、彼女自身もそれを信じて疑わない。心身ともにおける、彼は命の恩人だった。
そんな彼は、少女を慈しむように瞳を細めてこう続ける。
「ああ。ただし、油断は禁物だが。君の心に負った傷はいつまた痛みを訴えるものかわからない。そのトラウマは、何かの拍子に再発するやもしれないものだ」
「そっか。…それならさ、先生。わたしがいつそうなってもいいように、ずっと隣にいてくれたら嬉しいな。なんて」
「退院してからでも、また遊びに来ればいい。こんな消毒液臭い場所で良ければコーヒーくらいは馳走しよう。ああいや、君はココアの方がいいか」
「子供扱いしないでっ…ううん、そうじゃなくって。わたしを!あの、先生の…お、お嫁さんにしてくれないかなーっていう、話」
「……」
「……ぅ」
「…………ぷっ」
年端もいかぬ少女が、一丁前にそんなことを言うものだから。思わず噴き出してしまったのも責められたものではないだろうと思う。
しかしそんなことは少女には関係なかった。腰掛けていた木製の椅子を引っ繰り返す勢いで立ち上がり、赤らんでいた顔をさらに紅潮させる。
「お、女の子が一生に一度しかない大告白をしたっていうのに!一生懸命、頑張って言ったのに!なんで笑うの!」
「ふふ、はははっ!いやいや、なに…驚いただけさ。驚愕が一周回って思考が追い付かなくなった。人間、意表を突かれると感情とは無関係に表情筋が誤作動を引き起こすらしいな。医者ながらに無知な私を許してくれ」
「むう…!」
「怒るな怒るな。しかし、まあ、そうか」
頬を膨らませる少女を宥めながら、ふと彼は感動を覚える。
幼くして両親を亡くした少女がまともな感情を取り戻し、あまつさえ求婚すら覚えたとあっては彼女の精神を支え続けてきた一介の医者としてはつくづく冥利に尽きる。
…たとえその行為自体が、彼にとっての贖罪として課してきた義務であると自負していても。
「君はまだ若い。こんな、婚期逃し気味の行き遅れを将来の相手に定めることはない。これから先、きっと良い人に出会う。だから」
「先生より良い人になんて、絶対会わない。わたしは、先生以外なんて絶対にいや」
断固として譲らない彼女の態度は頑なだ。おそらく、ここより先は押し問答にしかならない。
であれば、ここは大人らしく引き際として負けるとしよう。
「わかったよ。君が元気にここを退院してくれて、外の世界を見て知って。それでもなお私を相手に選んでくれるというのであれば、その時は私と婚姻してくれ。ただし、後悔はするなよ」
「うーん…長いと思う」
「これでもかなり譲歩したつもりなのだが」
少女は未だ確定していない退院より先の話となってしまったことを不満げにしていたが、彼としてもここが限界だ。そもそもが医師と患者、御法度というわけではないが院内で恋仲の関係になることはあまり善しとされたことではない。
彼もまたゆっくりと立ち上がり、彼女の髪を片手で梳く。身長差のある彼を、瑠璃色の瞳が上目遣いに見ていた。
「私にとっては君の幸せが第一だ。私がその一因になれるのなら、喜んでなろう。それでいいかい?」
「わたしとしては相思相愛を望むけど、それは結婚してからでも遅くないし…とりあえずはそれでいいかな」
妥協を重ねてようやっと納得してくれた少女の肩に手を置いて、彼は診察室から廊下へ続く扉へと少女を誘導する。
「それじゃあ、お姫様のご理解を頂けたところでだ。部屋で診察の続きをするとしよう。ここはエアコンが壊れていて肌寒い」
「まだ終わってなかったの?手早く終わらせて遊びたいのに」
唇を尖らせて文句を垂れながらも、言葉ほど機嫌は悪くないらしい。軽くステップを踏んで少女は彼の手を取って先を行く。
「面白い本を見つけたの。部屋に置いてあるから先生にもぜひ読んでほしくて」
「そうか。なら診察ついでに受け取るとしよう」
「なら早く!」
ステップから小走りになり、銀髪を振り回して少女は楽しそうに手を引いたまま廊下へ飛び出す。
「ね、ほら早くっ。
「待てって。もう君ほど身軽には動けないんだリザ、歳という枷は思った以上に重たくてな…」
「まだ二十代のくせに、なに言ってるの!」
ここは彼の母国とは遠く離れた異国の土地。そこで彼、
そんな彼へと恋慕の情を寄せるは天涯孤独の少女リザ。まだ何も知らず、まだ何も得ることのない無垢で無力なただの小娘。
麗らかな日和の、よく晴れた日。
差し込む陽射しが柔らかく、肌寒さをすら取り払ってくれそうな暖気を伴った青天の、ある春の日の出来事だった。
―――とある一部の者しか内容を知らず、それを体験したごく僅かな生存者だけが知る秘匿された戦いがあった。
参戦した誰しもがそれを地獄と呼んだ戦場を、強大な力を以て勝利へ導いた男がいた。
のちに、この戦争を生きて乗り越えた者達はこれを天成る神へ挑んだ聖戦、『神討大戦』として語り継いだ。
史上において最初で最後であると思われたが故に、誰しもその大戦に『第一次』などという単語をくっつけることをしなかったが、これが後々になって間違いであったと気付くのは先の話。
第一次神討大戦。
英雄と呼ばれる人間と、悪魔と呼ばれる元人間。それらが引き起こした戦争が日々を平穏に過ごす人々へ知られぬままに終結を迎え、一年が経った。
これは、その、終戦後最初の春のことだった。