Neetel Inside 文芸新都
表紙

見開き   最大化      

 別に本当に用があったわけじゃない。あんな先生の発言の後に、わざわざ一緒に行動することは無いと思ってついた咄嗟の嘘だ。
 僕は熱くなった頭を冷やすためにとトイレで顔を洗い、しばらくブラブラと校内を歩き回った。
 校内を改めて歩いてみると、案外見覚えの無い場所が多いのに気付く。
 考えてみれば、学校というものは必要ない場所には全く行かないものだ。運動部の部室棟など体育館のすぐ横に立っているというのに行った事もないし、入ったことのない特別教室もいくつかある。
 廊下にはまだ残って談笑していたり、ロッカーから部活の道具を引っ張り出したりしている生徒の姿が目に入る。そうした連中のほとんどが――当たり前のことなのかもしれないが――言葉を交わしたことも無い面子ばかりだった。
 この学校にいる時間もあと半年ちょっとだ。自分は果たしてここで有意義に過ごしていたのだろうかと、ふと考えてしまう。
 廊下の窓から下を見下ろすと、校庭に集まっている運動部の面々が準備運動やストレッチを行っていた。
 彼らのように青春を汗まみれで過ごしていれば、こんな感慨には耽らないで済むのだろうか?
 部活じゃなくてもいい。委員会やクラスでの行事など、自分としては手を抜いてきたつもりは無いが、これといって盛り上がったり熱中できたりしたものが無かったのも事実だ。
 そういうものさえあったなら、後で何も悔やむことの無い充実した高校生活を送れていたと、満足して卒業していけるのだろうか?
 漠然とした不安を、解決しないまま抱えて、僕は図書準備室の前に立っていた。
 軽くノックを二回。
「はーい?」
 中からすぐに先生の声が返ってくる。
「片瀬です」
「あ、どうぞー。鍵かかってないから入ってきちゃってー」
 扉を開けて入った図書準備室は、いつも通りの少し湿気た紙の匂いで僕を迎えてくれた。
 図書準備室とは名ばかりで現国教師の休憩所のようになってしまっているここには、コーヒーメーカーや冷蔵庫などが普通に置いてあり、しかも蔵書の品質管理のためという名目で冷暖房まで完備されている。
 図書館とは扉一枚で繋がっているが、こちら側には貸し出し禁止の図鑑や辞書など外には持ち出さないようなものしかないため、扉には普段から鍵がかけられていて不意に誰かが入ってくることも無い。
 両サイドを背の高い本棚に挟まれていて薄暗いし、そこまで広いわけでもないが、ここはもう間違いなく教師の職権濫用くつろぎスペースだ。
 それほど大きな声を出さなければ、ここほど密会に適している場所も無い。
 先生は「そこに座って」と傍らの椅子を指差した後、コーヒーメーカーに向かう。僕はその椅子には座らなかった。
「先生、話ってなんですか?」
「うん、それはまた後で。何か飲むでしょ? いつもみたいにコーヒーでいいよね、そんないい豆じゃないけど」
「先生……」
 こちらに振り向いた先生の顔は、どこかおかしかったのかもしれない。口元には半笑いを浮かべ、僕が不機嫌そうなことに心底不思議そうな顔をしていた。
 でも、僕にはそれが癇に障って、不自然さに気付かなかった。
 彼女の前であんな不用意なことを口走って、何も自分に非は無いとでも思っているのだろうかと、気付けばまた苛立っていた。
「さっきも言いましたけど、今日は本当に用事があるんです。何か理由があるならと思って来ましたけど、特に急ぎの用でもないならまた時間が合う時にしてください」
 踵を返す。家に帰ったらすぐに寝てしまおう。もう余計なことを考えたくない。心に余裕をほとんど持てない今、誰かと話すだけでも億劫だ。
「待って!」
 背中に勢い良く何かがぶつかる。振り返るまでも無く先生だ。シャツを掴んで僕の背に寄り掛かってくる。
 普段は心地よく感じる体重が、鬱陶しくて仕方なかった。
「なんですか?」
「少し話したかっただけなの。ここ二日、ろくに目も合わせてくれなかったから」
「そんなこと、今までいくらでもあったじゃないですか。じろじろ見て怪しまれたくないんです。そんなの言わなくたって分かるでしょう?」
「……冷たいんだね」
 苛立ちを押さえるのにこんなに苦労したのは、多分人生で初めてだ。
 もういいじゃないか。どうせ半分惰性でやってきた関係だ、先生を突き飛ばしでもして、ここから走って逃げ出して、家に帰ってゆっくり眠る。それでいいじゃないか。
 そんな物騒な考えは、先生の口から出た一言で一瞬にして消えうせた。
「あの教育実習生の娘、片瀬君の何?」
 先生を払いのけるように振り向いた瞬間、しまったと思った。あまりに意外すぎて冷静に対処できなかった自分が悔しい。
 いきなり振り払われた先生はびっくりしたような顔をしていたが、すぐに納得したように顔を俯ける。
「……やっぱり、そうなんだ」
「何が……『そう』なんですか?」
 心臓が胸を打つ音が酷くて、耳鳴りのようだ。動揺している自分が嫌で嫌で堪らない。気分を落ち着けようとため息を吐き出しても、熱くなった頭はまったく冷めてくれなかった。
「言っておきますけど、僕はあの先生とは赴任以来一回も喋ったことすらありませんよ。どうしてそんな風に思ったか教えて欲しいですね」
「見てたから」
「え?」
 先生は顔を上げると、僕の顔を真っ直ぐに見つめた。まるでその目は僕を責めているようで、見つめ返す僕をチクチクと痛めつける。
「最初は珍しいからだと思ってた、他の子だってそうしてたから気にも留めてなかった。でも、一昨日も、昨日も、今日も。朝も、帰りも、授業中も! 何かにつけてちらちら見てて……私とは目も合わせなかったのにっ!」
 昔好きだった人がそばにいれば、そりゃあ目が向いてしまう。廊下で声が聞こえれば振り返ってしまう――――
 たとえばそれには自覚していただけじゃなくて、無意識に見ていた時だってあったかもしれない。それを逆に誰かに見られるかもと、僕は気にしていただろうか?
 警戒心が無かったのは先生だけじゃない。僕だってそうだったんだ。
「ずっともやもやしてるのが嫌だったから、話を聞こうと思って呼び止めた……。少し話して、キスとかしてもらえれば気にしないで済むと思ってた。でも、杞憂なんかじゃ、無かったんだね」
 先生の声は嗚咽交じりで、すぐにでも泣き出してしまいそうなほど弱々しかった。まるで、捨てられたことを自覚したばかりの子犬のように。凄く年上のはずの先生が、同年代の女の子よりも脆い存在に感じた。
 苛立ちがすーっと冷めていく。悪いのは先生だけじゃなくて、自分もそうだったのだと納得して、自分がしていた八つ当たりのような行動を反省すらできた。
 頭の中では、都合のいい言い訳ばかりを考えながら。
 ああ、そうですね。そうですとも。僕はズルいんです、酷いんです。全く持っていやらしい、どうしようもない人間ですとも。
 それでも、僕が一番自分を好きになれるのはこういう時なのかもしれないと。
 先生を抱きしめながら、思った。

       

表紙
Tweet

Neetsha