Neetel Inside 文芸新都
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 前に彼女に言った通り、それはただの偶然。恋愛のきっかけなどになるはずも無く、ただそれだけのことで終わった。
 それはそうだ。先生にしてみればあの出来事は、真っ先に消し去りたい出来事に違いないのだから。
 その一件は、翌日に先生から『本当にお願いだから、誰にも言わないで!』と土下座されそうな勢いで頼まれたため、今でも僕の胸の中だけに秘められている。
 新任三ヶ月にも満たない先生が、あんなだらしない格好で涼んでいたと知られるのは、もしかしなくても体裁が悪いに決まっている。
 学校という箱庭の中での情報網は意外にできがいい。クラスの友人、部活や委員会の先輩後輩、仲のいい教師にまでその範囲は広がっていて、タチが悪いのは知られると当人が困りそうな噂ほど早く広まるという事だ。
 僕が先生との約束を今でも守り通していることに、特別な理由は無い。
 人の恥部を明らかにすることで笑いを取るという手法を僕が好まないという事もあったが、単にそこまではっちゃけた事を話すような相手もいなかっただけの話だ。
 だから、もしもきっかけというのならその後の話。
 夏休みも終わりに近付いた頃、僕は毎日のように学校の図書館に入り浸っていた。
 もちろん先生に会いに来たなどというたわけた理由ではなく、夏休みの宿題をするために来たのだ。
 情けない話だが、家にいて宿題だけにひたすら集中するという事は難しい。我が家・我が部屋には誘惑というか、娯楽が多すぎる。
 マンガやテレビなど手ごろのものから、テスト間近の部屋を掃除したい症候群のごとくどうでもいいことまで楽しそうに見えてくるから始末が悪い。
 その点、図書館は優秀だ。普段読書に欠片も勤しまないものには誘惑などどこにもなく、興味は無いが暇つぶしにパラパラ見る、という行為に小説というものは全く不向きだ。
 その日、珍しく図書館には僕のほかに客はいなかった。
 いつもは僕以外にもノートを広げて宿題を取り組むもの、夏休み終盤の暇になった時間を読書で潰そうとしているもの、部活の練習の合間に涼みに立ち寄ったものなど、少数だが人はいるものなのに。
 だから、そんな血迷った行動に出たのかもしれない。
「清水先生、いらっしゃいますか?」
 この前と同じ、ノックを二回。今度はしばらく待った。
 重ねて言うが、僕は先生に会いに学校に来たわけではない。だからそこで返事が無ければ、黙って帰るつもりだった。
「……都合よく今日が当直だなんて、あるわけない……か」
 返事は無かった。試しに扉を引いてみたが、もちろん鍵がかかっていた。
 僕がそのドアをあの時と同じにノックする気になったのは本当にただの気まぐれで、むしろ返事の無いことにほっとしていた。
 いたら何を話すつもりだったのかも決めずに、何も考えないで行動していた自分に対してため息を吐く。
 これも重ねて言うのだが、ここで僕は完全に帰るつもりだったのだ。
「あれ、片瀬君?」
 ホント、なんて偶然なんだろう。
「どうしたの、私に何か用事だった?」
 顔だけを使って振り向くと、久しぶりに見る先生がそこにいた。
 こんな暑い日だというのにキチっとしたスーツに身を包んで、暑さなど感じないかのように整った表情で僕の顔を見つめている。
 まだ僕の体は扉の方に向いていた、言い訳などとてもできそうもなくて、
「いえ、特に用事は無かったんですけど、暇だったんで少しお話でもできたらと思いまして」
 今思えば馴れ馴れしいことこの上ないが、その時には冷静を装うことに精一杯で内容についてどうこう考える余裕は無かったのだ。
「そう? とにかく、中に入ろうか?」
 先生も多少不思議そうな顔をしてはいたが、特にそこには触れずに僕を中へと促した。先生は職員室の机まで書類を取りに行っていただけだったらしい。そんな小さな用事でも鍵まで閉めていくところが、先生らしいと思った。
「清水先生って、いつもこちらにいらっしゃるんですか?」
「ん、どういう意味?」
「いや、他の先生たちは普通に職員室にいるじゃないですか。この前もそうでしたけど、清水先生っていつも図書準備室にいる印象があって、そういうのって珍しいんじゃないですか?」
「あー、確かにそうね……」
 先生は小型の冷蔵庫から麦茶のポットを取り出した。パックを入れて自分で作るタイプのものだ。冷蔵庫もそうだが、見回すとこの前着たときには無かったものがいくつか増えているようだった。
「うちの学校って全面禁煙じゃないでしょう? 職員室が煙くってこっちで仕事とかしてたんだけど、そうしたらこっちの方に荷物が溜まっちゃって自然とこっちにいる時間が長くなって……って感じかな?」
 セリフの終わりと同時に、先生は僕のそばの机に麦茶を入れたコップを置く。
 全面禁煙化が叫ばれるこのご時世でも、うちの学校から教師用の喫煙所が消える様子はない。校長が喫煙者なのがその原因であるという事は、生徒の間でも有名な話だった。
「でも、不便じゃないですか? こっちだと他の先生ともコミュニケーション取れないし……」
「そんなこと無いよ。普段の短い休み時間やお昼は職員室に戻ってるし、こっちにいるのなんて放課後ぐらい」
 ガラスのコップに入れられた麦茶を口に含む。キンと冷えた液体を流し込んでやっと、自分の喉がカラカラに渇いていたことに気付いた。
「それにほら、ここって冷房も効いてるし図書館にも近いし、居心地がいいのよね」
「……その冷蔵庫ってもしかして?」
「うん、私物。この前電気屋に行ったら決算前で安くてね、勢いで買っちゃったの。内緒よ?」
 そう言って笑う先生は、人生に不安など何一つないように見えた。
 あんなにだらけていた所を一度見られているというのに、態度も何も変わりない、『先生』であることになんの疑問も持っていないように……。
 多分そのおどけた笑い方が、ほんの少しだけ似ていたから。
 外見も性格もなにもかも違うのに、何が起こっても落ち着いているような『大人』な態度が癇に障ったから。
「清水先生って、思ってたほど真面目じゃあないんですね」
 ほんの少し、語調を強めて言った。
 普段はこんな生意気な事なんて言えない。逆に教師には嫌われないように、目立った生徒だと思われないように、常に気を使っているのに。
 多分、前の出来事があったせいだ。
 今先生の立っている『安定』という土台に一本だけ刺さった楔を、僕ならいつでも打ち込めるという安心感。
 少し考えれば、僕が握っている秘密などそこまで影響力のあるものでもないと気付けたはずなのに。とてつもなく危ういはずの優位性は、しかし昂ぶった僕の背中を置くには充分だった。
「教師の罰則って詳しくないんですけど、そういうのって他の先生に見つかったらどうなるんですか?」
「え……?」
 コップを置いて、前に踏み出す。
「こんなに堂々としてるんですから問題ないんですかね? でも新任三ヶ月で個室に冷蔵庫まで置いてるなんて、調子乗ってるって思われるかもしれませんよね」
「ちょっと、片瀬君!?」
 物が多すぎるせいで実際以上に狭い図書準備室では、二・三歩歩いただけで息のかかるような距離まで詰め寄れてしまう。
 先生はすでに机に半分座っているような体勢で逃げ場は無く、僕は今どう見ても先生を襲っているようにしか見えないだろう。
「ねぇ、冗談でしょ? 何か気に障ったのなら謝るから、こういうことは止めよう?」
 怯えきった顔、震える手は恐怖からか体の前に出すだけで僕を押し返すでもなく、細い肩は押せばすぐに倒せてしまいそうに見えた。
「…………止めた」
 顔を少し引いた。先生は愚かにも安堵した顔を上向けて、
「片瀬く――」
 僕は、自分の名前を呼びかけた口を塞いだ。
 一瞬で離す。初めて自分からしたキスは味など分かるわけもなくて、罪悪感だけが身を包む。それでも、
「口止め料とか、そんなんじゃないですから」
 みっともなくも捨て台詞まで吐いて、僕は図書準備室からゆっくりと出た。
 扉を閉めたところで、我慢しきれずに走り出した。ただひたすらに誰もいない校舎の中を駆け抜けて、いつの間にか校門の前で息を切らして、そこでようやく自分のやってしまった事の馬鹿さ加減に気が付いた。
「はぁ……はぁ……はっ、クソッ!」
 苛立ちをぶつけた。
 どこも似ているところなど無いはずなのに、外見も性格も何一つ同じところなど無かったのに。僕はキスをした瞬間、確かに先生と彼女を重ねていた。
 学校を見上げる。息も絶え絶えに、このまま真っ直ぐ家に帰ることしか出来ない。惨めな負け犬のような気分だった。
 何に負けたかすらも、分かっていないくせに。

       

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