気がつくと私の体は見知らぬどこかの神殿の中にあった。

 大理石で出来た床が目に入って仰向けになった体を起き上げると視線を支柱がむき出しになった高い天井から衣擦れのような音がする方へ移してみる。

 そこには目の大きな白と茶色の毛が混じったサルのつがいが毛づくろいをしていて、起き上がった私に気付くとおそらく私から引き抜いたであろう長い髪の毛を二、三本手にとって入り口の方へ飛び跳ねていった。

 それにしても、私は頭を落ち着かせるようにしてここに辿りつく前の記憶を紐解いていく。

――私を襲いに来た敵とキタローのアクターバトルの最中にインドで拾ったコンパクトを開いて気がついたらこの謎空間に飛ばされた。

 威圧感のある格調高い壁画の前に置かれた長台の上にまるで神様への添え物のように私の体が乗せられていて辺りを見渡しながらその装飾台を降りる。

 ここはどこなんだろう。至るところに傷が刻まれた天井を支える柱に括られた燭台の上にこうこうとローソクの火が点っている。どちらかと言えば洋風の神殿というよりかはBSチャンネルで見かけるような東南アジアにある寺院の雰囲気に近い。

 まぁ国営放送の受信料を払っていないみんなにはこれ以上現場の詳細説明しても伝わらないだろうし、こうしちゃいられない。

 光と煙に包まれて来たことから、おそらくここはアクター空間特有の仮想世界なんだろうけど、体に生ぬるい風を感じる。なんだか生理的に嫌な気持ちがしてスカートのポケット越しに下着をまさぐってみる。よし、純潔は守り抜かれている。

『目覚めたようね。我が主と心を通わせる者よ』

 ふいに細い声が聞こえてきて、ポケットから手を出して気を巡らせる。少し離れた場所の柱の影からローブを羽織った背の高い女の人がこつ、こつと大理石を踏みしめながらこっちへ歩いてくる。

 フードの下から覗く美しい顔をした褐色の女性は私の顔を見て少し興ざめた口調でこう言った。

「あら、貴女。良く見たら。祈り子にしてはトウが立っているわね」

 感情の読み取れないポーカーフェイスからのパッと花が咲いたような体温の通う柔らかさを持った声。私は少し呆気にとられたけど、「わ、悪かったわね!ロリじゃなくて!」と平静を取り繕って声を張った。

 東南アジアの国では偉い人がその年に生まれた女の子を選別して神の使いとして初潮が始まる日まで祭り上げるという慣わしがあるのをみんなが受信料を払っていないBSチャンネルで知った。

 目の前のローブの人は私の事をその祈り子だと思っていたのだろう。残念ながら私は無宗教のノーフェイス・ジャパニーズガールである。今日からあんた達の神サマとやらに心血を捧げよ、とか言われても無理だかんね。

 額に三つ目のくま取りを施したその人は「これを」と私の後ろにある大きな壁画を振り返るよう目で示した。

 その絵には阿修羅を思わせるたくさんの腕を持つ色黒の鬼とその腕の一組に抱かれる下半身が虎の女性が描かれていた。鬼の目は見開かれて各々の腕には剣や槍といった武器、或いはベルや指し棒のような枝が握られていた。

「そこに描かれている思想は極彩色の絢爛模様。人の持つ業、欲望と絶望、そして狂気。猥雑と崇高。狂暴なまでの生命の躍動。本来の仏教のあるべき姿です」

 絵の解説をするように私の横に立ってその人は言う。……思い出した。美術の授業で見たことがある。この絵はチベットの有名な仏画のひとつだ。手を叩いた私にその人はこう告げる。

「主に選ばれた貴女はこれらの感情すべてと向き合う必要があります。貴女は我が主を千年の長き眠りから解いたのです」

「ちょっと待って。理解とツッコミが追いつかない。なんでインドで拾ったコンパクトにチベットの神様が閉じ込められてたのよ?」

 私が目を寄越すとその人は答えづらそうに咳払いをひとつ。

「…話すととても長い話になりますがよろしいですか?」

「いいよ別に。どうせ寺院から盗まれた装飾鏡がガンジス河を渡ってインドのスラムに流れ着きました、みたいな話でしょ?私には時間が無い。早く戻ってキタローを救わなきゃ」

 私がそう言うとその人は少しほっとした表情で息を吐いて胸元に両手を置いた。てか、話したくなかったんかい。私も少し気が抜けてきて頭に手をまわして溜息をついた。

「そんな事言われたって無理よ。あたし、コンパクト拾ってここに飛ばされただけだもん。仏教千年の歴史とやらも知らないし、あなたが望むような事は何にも出来ないし」

 私が少し悪態をつくとその人は苛立った表情を見せる事無く温かい口調でこう諭した。

「貴女はその権利を既に手に入れています。鏡に封じられし我が主は自ら貴女を選びました。卑下する事はありません。そのチカラを正義の為に振るうのです」

「へぇ、なんだかヒーローモノっぽくなってきたじゃない。良く分からないけどあたしもアクターとしてのチカラを得たって事でいいんでしょ?それで、どう帰ったらいいの?」

 私がそう訊ねるとその人は視線を壁画の中心に向けた。「絵がワープホールになっているってワケね。何か最高に嫌な予感がするけど」そう言って私はローファーの踵を鳴らしながら階段を一段ずつ上ってその祭られた絵に近づいていく。

 間近に寄ると絵の凄まじい迫力に気圧されて私はその場に立ち竦んでしまった。てか常識的に考えてこんな怖い絵の中に飛び込むなんて、そんなん無理でしょ。後ろでそのローブの人が片膝を付いて祈りを浮かべている。そして化粧だと思っていた額の目がかっと見開かれて辺りが眩しい光に包まれた。

『全ては夢、まぼろし』

 その一言に背中を押されるように手を伸ばすと絵の中からドス黒い触手が生えて私に腕にぎゅるり、と不快な音を立てて巻きついた。悲鳴を上げるより先に絵の中の世界へ体が放り込まれる。

 光も重力さえ感じさせない空無の中で頭の中に様々な映像が流れ込んでくる。生命の繁栄、戦争、そしてやり場のない怒り。焼け野原からの再生。再度訪れる絢爛たる繁栄のゾートロープ。

 処理速度が間に合わない膨大たる情報量に吐き出されるより飲み込まれるように脳味噌に書き込まれる神経回路。

 なによ、なんなのこれ。止めて、誰か助けて……!

 真夏のマラソン大会で酸欠になった時みたいな極彩色に染まる景色。切れ切れになる意識。

 溺れるような感覚の海を流れのままに抜け出すと、産み落とされた胎児のように私の体は元居たアクター空間の中に立ち戻った。

「お、思っていたより早かったようだな」

 私が居ない間にいたぶっていたアンクの体から手を離したカメレオンが私の姿を見つけてマスク越しに鼻で笑った。地べたに転がるキタローの容態を見て私の背筋にぞわじわとした怒りが湧き上がってくる。

 転送前は無事だった反対側の腕も無残に捻じ曲げられていた。意識が既に途切れかけているのか、私の呼びかけにもキタローは反応を示さない。

――絶対に許しちゃいけない。この人だけは絶対に!私はポケットからコンパクトを取り出してその手を前に突き出して反対側の拳を腰の位置で握り締めて発声した。

「変身!チベットガール!」

 コンパクトから光が溢れて身体がそれに包まれた。私のアクターとしての戦いがここから始まっていく。