Neetel Inside 文芸新都
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種無しの葡萄

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種無しの葡萄

 歓楽街の真ん中。ビルとビルの間の路地。薄暗いけれど掃除は行き届いている狭い階段。雨も降っていないのに傘が刺さっている傘立て。開きっぱなしの重そうな扉。明るくて、時にうるさい。そんなワインバーを僕らは秘密基地みたいに扱っていた。ここに来ると嫌な気持ちも吹っ飛ぶ。でもその日は、そうもいかなかった。
 病院からの帰り道、僕は妻に何度も「ごめん」と言っていた。妻は「仕方ない」とか「私は別にいいよ」とか言っていたと思う。あまり覚えていない。しょぼくれる僕を見かねたのだろう。「よし、飲むぞ」 そう言って彼女は僕を秘密基地に連れ込んだ。
 こんな時でも違う味を楽しむために妻は勝手に二杯のグラスワインを頼んだ。ワインに口をつけても美味しく感じない。子どもができないのは僕のせいだと分かって感じるのは、妻や親への申し訳なさだった。顔も知らない先祖のことまで考えてしまいそうになる。
「別に私は子どもどっちでも良かったからなあ。できないって分かって余計に子どものいる家庭が羨ましく思えるだけだって。ほら、隣の葡萄は美味しそうに見える、って言うじゃない」
と言って、彼女は僕の前にあるワインを飲んだ。本人はしたり顔だが、きっとただ単にすっぱい葡萄の話と混同している。「隣の芝は青い、だよ」と訂正しようか迷ったけど、励まそうとしてくれているのが分かっているのでやめた。「やっぱり美味しい」と彼女は言った。僕みたいな種なし葡萄でも、羨ましがる人もいるかもしれない。そう思えると少し楽になった。そういえば、僕はいつも妻のしたり顔に救われてきた。改めて口をつけた目の前のワインは驚くほど美味しくなっていた。「美味しい」と言うと、「でしょ」と彼女はしたり顔だった。
 彼女のおかげで開き直れた僕はマスターに聞く。
「種なし葡萄のワインってあるんですか」
「ありますよ。今飲まれているのもそうですし。果実味が強く出るから美味しいですよね」
種なし葡萄もこんなに美味しいのか。彼女を見るとしたり顔。まさか分かっていて頼んだのだろうか。案外、すっぱい葡萄の混同もわざとかもしれない。
「これからもよろしくね」
隣に座る彼女にそう言うと、返ってくる。
「隣の葡萄は美味しそうに見えるでしょ」
続けて
「やっぱり美味しかったって死ぬ時に思わせてあげる」
このしたり顔を僕は死んでも離さない。

       

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