Neetel Inside ニートノベル
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異世界人が働かない理由。
第二章

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(一)

 フウリとの同居が始まってから、約一か月が経った。
 その日は学校もバイトのシフトも入っていない正真正銘の休日で、目が覚めたのは昼過ぎだった。家事も前日におおかた済ませてあり、歯磨きをして顔を洗うだけでやることがなくなってしまった僕は、本でも読もうかと自室を訪れた。
 フウリとの関係はかなり気安くなっていた。最初期は自室に入るのも遠慮していたが、慣れてからは形だけのノック一回でいい。
 ドアを開けると、フウリの足裏が目に入った。パジャマ姿の彼女はベッドにうつ伏せて漫画を読んでいる。
「漫画、おもしろい?」
「……はい」
 開いたページに顔を向けたまま、気のない返事が返ってくる。
 フウリは学校に行かないため、暇している時間が多い。読んでいる漫画のタイトルが、いつ見ても違っている気がする。いまは、有名作家のサバイバル小説をコミカライズした作品を読んでいた。
 僕もラックを眺め本を選ぼうと思ったが、それよりもわきのケージに意識が向いた。
「ステイハム、元気にしてるか」
 呼びながら指を突っ込んでみるが、寄ってくる様子がない。床材のこんもりした場所に丸まってじっとしてる。
「なんだよ、世話しなくなったご主人様は用なしか」
 餌入れに目をやると、適量のペレットが積まれている。水も十分に入っているし、ケージのなかは清潔に保たれてみえる。前任者のときに比べればよほど良い飼育環境だ。
 しかし、その割には元気一杯という感じでもない。寒さが原因なのだろうかと思い、机の上のリモコンで暖房の温度を上げた。
 すると、漫画に没入していたフウリが顔を上げる。
「あ、ごめん、暑かった?」
「唇を合わせることは、現世界での一般的な契約の意味ではなかったんですね」
 読んでいるページを閉じて、脈絡もなく言う。
 何を言っているか数秒わからなかったが、記憶を探ってから合点がいった。
 そういえば、そんな勘違いをしていたんだったな。出会った日の出来事を、まるで大昔のことのように思い出す。
 おそらく、物語を読み進めていくうちにキスシーンに当たったのだろう。たったいま、男女の恋愛について正しい知識を得た。
 フウリのこういった言動は演技なのかと思っていたが、最近はそれを指摘したりもしなくなった。ひと月もやり取りをしていると、会話のなかでいちいち疑ってかかるのも面倒になるのである。それに異世界人でなくとも、度を過ぎた世間知らずである疑いはかなり強い。なので、
「ふーん、ようやくフウリも常識が身についてきたんだな」
 感心して頷いていると、膝辺りをめがけてクッションが飛んできた。
「なんで怒るんだよ」
「騙されました」
「僕から騙したんじゃないって。だいたい異世界人だっていうなら、こっちの世界がどうであれ、恥の基準まで寄せる必要はないだろ。異世界ではキスは恥ずかしいことじゃないし、気にしないんだから」
「っ……! き、気にしません、気にしていませんでした。……けど、気になるんです」
 気になるんかい。
 僕は溜息をつく。クッションの埃を払ってから、山なりで投げ返した。
 クッションが手から離れる瞬間、甘い香りが鼻先をかすめる。元々僕のベッドに置かれていたものだが、ひと月ですっかりフウリの匂いが染みついたらしい。同じシャンプーやボディソープを使っているはずなのに、どうして違う匂いがするのだろう。
 益体のない思考に耽っていると、フウリが「ところで」と呟く。
「ステイハムのことなんですが、最近、元気がないようなんです」
「うーん、寒くなってきたからかな。暖房はつけてあるんだけど」
「わたしは、陸人さんが散歩に出してあげたらいいと思うんですが」
「外? ああ、たまに部屋に放してやるといいんだっけ。でも、柵で囲うとかしないとだめらしいよ。一回散歩させると、習慣にしないとかえってストレスが溜まるとかも聞くし」
「いえ、部屋の中ではなく。部屋を散歩させるのもいいですけど」
「もしかして、家から出して歩かせたいってこと?」
「はい。遮光カーテンを開けると、ステイハムが窓のほうに首を伸ばすんです。きっと、外に出たがっているんだと思って」
「いやいや、さすがに無理だよ。ハムスターに首輪つけて散歩してる人なんて見たことない。それに、歩かせてる最中に野良猫に襲われるかも。ほら、フウリも公園にいたときに見たことあるだろ」
「はい。何匹もいました」
「町中にも至る所にいるからさ。フウリを見つけたときも、最初は野良猫かと思って近づいたんだよな」
「わたしは猫ではありませんよ」
「いや、知ってるけど」
 提案を却下されて、フウリは気落ちしているようだった。しかし、こればかりは折れるわけにもいかない。散歩中にステイハムがガブガブ食べられたりしたら、トラウマになるだろうし。
「わたし、猫については少し知識があります。人間の生活圏にも多く生息する害獣で、有志によってさまざまな方法で駆除が行われていると。なかでもポピュラーなのは、ホウ酸団子や不凍液を用いた毒餌戦法で――」
「殺す気かよっ」
 平然と続きそうな話を遮る。
「ペットの散歩のために近所の野良猫をジェノサイドするなんて、動物愛護団体が黙ってないって。とにかく、ダメダメ。外を散歩させるのは諦めて」
「……そうですか。わかりました」
「あと、こっちからも質問なんだけどさ」
 機会なので尋ねておくことにした。僕はさりげなさを演出する意図も含め、ラックから漫画を選んで抜き出す。中国史を描いた長編シリーズの十二巻、ちょうど盛り上がるところなのだ。
「フウリは外に出なくていいの? 学校……いや、任務とかさ」
 ベッドでだらけていた少女の、暢気に揺らしていた脚が止まった。
 密かにずっと気になっていたことだった。フウリが僕の想像通りに家出してきたのならば、一か月という期間は短くない。警察沙汰になることを最も嫌っているのは彼女自身なので、両親とは隠れて連絡をとっていたりするのかもしれないが、学校の出席日数だっていずれ足りなくなるだろう。精神的な面でも、ブランクが空くほど社会復帰は難しいと聞くし。
 加えて、別方面の問題が。
 設定上、彼女には敵を排する任務がある。それは異世界と現世界、双方の平和のために必要なはずで、敵の正体を掴んでさえいない現世界にとってはフウリだけが頼りなのだ。つまり、彼女は現状、寸暇を惜しんででも働いていなければ辻褄が合わない。
 暖房を操作した甲斐あって、室温が快適になってきていた。生ぬるい空気で頭がぼうっとしてくる。改めて思った。こんな宙ぶらりんの生活は、いつまでも続けられないのではないか。
 フウリはベッドに座り姿勢を正しつつも、僕から視線を外して言った。
「大丈夫です。わたし以外にも、任務に当たっている仲間はいますから」
「え、そうなの」
 初耳の情報に驚いたが、思い直す。
「でも、そうか。フウリの討伐ノルマはたったの一匹だって言ってたっけ。じゃあ最悪、フウリがやらなくても誰か他の人が働いてくれるんだ。……うん、まあ、だったら、いいんじゃない。うん……うん……」
 その解釈に、フウリは頷くことも首を横に振ることもしない。ただうつむいて、深い思考に沈んでいるようだった。
 続けて声を掛けるのもためらわれて、僕は部屋を出ようとする。
 すると、後ろから縋るように呼びかけられる。
「陸人さん!」
「なに?」
 振り返ると、フウリはいまにも泣き出しそうな表情をしていた。
「わたし……。わたしは、罪深い行いをしていますよね」
 抽象的な問いを向けられて、返す言葉に困ってしまった。
 彼女の言う罪深さはおそらく、僕の知り得ない彼女自身の事情に根ざしている。僕は所詮、宿を貸しているに過ぎない他人だ。
 迷った末に口にしたのは、場当たりの慰めだった。
「まあ、いいんじゃない、あんまり重く考えなくても。サボりくらい誰だってしてるし。人生には充電期間も必要だよ」
 言い置いて部屋を出た僕は、最近になって膨らんでいた感情を無視できなくなっていた。
 『こんな宙ぶらりんの生活は、いつまでも続けられないのではないか』。その考えの裏にある前提が突き付けられる。
 そうだ、僕はいつの間にか、フウリとの同居生活を続けたいと願っているのだ。成り行きで始まって、不満だらけだったはずの関係が壊れることを恐れている。そのために、彼女に合わせて心にもない相槌を打ち、薄っぺらな慰めを言ったりしている。
 頭がかあっと熱くなる。動揺に早まる鼓動が心地いいのか不快なのか、結論を出すのは先送りにした。

       

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