Neetel Inside ニートノベル
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(四)

 フウリの涙を見るのは久しぶりだった。一筋に流れる透明な液体。手に触れる感触。僕はその温度を知っている。……とはいえ、知っているのはそれだけだ。
 飼っているペットが死んで悲しむのはおかしくない。感受性が豊かならばこみ上げることもあるだろう。しかし、理由は他にもあるような気がした。ケージの中の小動物に入れ込む理由。
 それこそがあの日、公園で偶然の邂逅を果たしたときに見た涙の正体なのかもしれない。僕が彼女を匿っているのは、きっと知りたいからだ。
 ――君はどうして泣いているんだ?
 居間は薄闇に包まれている。
 寝つきは悪かった。掛け布団をひざ掛けがわりにして、僕はソファに座っていた。じっとしていると、静寂に混じるノイズが耳につく。
 台所からは冷蔵庫の作動音が、ごおごおと苛立ちを訴えているようだ。ステイハムが死にきれずに呻いているのだろうか。
 僕はなんとなく居心地が悪くなり、トイレに立った。
 廊下に出ると、一条の光が目に入る。トイレの扉があるより先、洗面所から照明が漏れている。
「こんな夜中に。電気消し忘れたかな」
 軽い気持ちだった。一応、中を確認しておこうと引き戸を開けた。別に、何かを覗き見ようというつもりはなかったのだ。
 中にはフウリがいた。
 無人だと思っていたので意表を突かれる。反射的に着替えの途中だったのではと考えが掠めたが、彼女はパジャマを着ていた。
 僕の目を奪ったのはもっと別の光景だった。
 焼き付いた画は群青と赤のコントラスト。
 フウリは手袋を外し、左腕の袖を捲くっていた。右手には異世界から持ち込んだと言っていた刃物が握られている。そして、その刃が左手首に押し当てられ、食い込んだ部分から血が滴っている。手首を伝い落ち、洗面台の曲面に血溜まりができていた。
 ポタリ、ポタリと血溜まりがカサを増していく。
 僕はしばらくのあいだ動けなかった。脳が認識を拒絶していた。
 フウリがゆっくりと、青ざめた顔を向ける。それでようやく踏み出せた。
「バカっ、なにやってんだ!」
 刃物を持つ右腕を掴み、当てられていた部分から遠ざける。抵抗しようとするので、体ごと壁に押さえつけた。
「やめてくださいっ、離して!」
「そんなわけにいくか!」
 フウリの力は弱かった。あっさりと刃物を奪い取って放り出すと、フローリングが硬い音を響かせた。
「離してください、離して……」
 フウリはうわごとのように言った。抵抗していた力が抜け、立っていることすらままならない様子。もみ合った際に触れた血が、僕の胸の辺りを汚していた。視界を埋める過激な色合いに、立ちくらみを起こしそうになる。
「動かないで待ってるんだ。消毒液と包帯を持ってくるから」
 動悸を抑え、とにかく状況への対処を優先する。
 救急セットの場所を探し出すのには苦労しなかった。普段、工作で怪我をすることがあったからだ。
 洗面所に戻ると、フウリは暴れたりはしていなかった。さっきとは一転、魂の抜けきった表情でへたり込んでいる。僕はだらりと落とされた腕を掴み、治療に取り掛かる。
 怪我の度合いは大したことはなかった。刃が裂いたのは表面の浅い部分までで、致命的な血管には届いていない。むしろおぞましかったのは、今回の傷ではなく、今回までに付けられた傷だ。
 刻まれた筋は一本だけではなかったのだ。手袋を外して露わになった部分には、無数の傷跡が残されていた。いくつかの筋は重なり、歪につくられた蛇腹は本数を数える気持ちを萎えさせた。
 そこで、今更になって認識された。フウリがやっていたのはリストカットなのだ。しかも、日常的に行われていた。
「聞くけど、これって、宗教的なおまじないとかいうわけじゃないだろ」
 仮にそうだとすれば、フウリの態度は明らかにおかしい。
 返事がなくとも肯定だと受け取った。
「どうしてこんなことしてるんだ」
「陸人さんには関係ありません」
「関係ないことはないだろ。僕たちは……同居人だ」
「だから、なんだっていうんですか」
「一緒に住んでる相手がこんなことしてたら心配するのは当たり前だろ」
「余計なお世話です」
 声色には明確な拒絶が含まれていた。
 最近は、出会った頃と違って距離が近づいたと思っていた。しかし、それは都合のいい勘違いだったのかもしれない。僕らは近づいたのではなく、互いに傷つかないように停滞を選んでいただけだったのではないか。
「傷は浅い。自殺しようとしてたわけじゃない。これは、助けを求めていたんだろ」
 指で触れる傷跡は、一つ一つが悲痛な叫びに思えた。
「違います。わたしは誰にも助けなんか求めません」
「嘘つけ」
「嘘じゃありません」
「でなきゃ、目に見えるように自分を傷つけるはずがない」
「陸人さんは何もわかっていません。何も知らないくせに、知ったふうなことを言わないでください」
「ああ、確かに知らないかもしれない。だったら、教えてくれよ」
「さっきも言いました。陸人さんには関係ありませんから」
「だから、関係――」
「どうだっていいじゃないですか!」
 フウリはいきなり大声を出し、手を振り払った。止めていなかった包帯が乱れて解ける。憎悪のこもった瞳が僕を射抜いた。
「どうだっていいんでしょう、わたしのことなんて。わたしが苦しんだり、死んだりしても、それはあなたにとって他人事じゃないですか。適当に可愛がりたいのなら、代わりはいくらでもいるはずです。家に来ていた彼女でもいいじゃないですか。親しそうでした。それでも足りなくなったら次、次、次。取り替えていけばいいんです。いちいち墓を建てる必要もありませんね!」
「まだあのことを根に持ってるのか? いい加減しつこいぞ」
「違います。違う。わたしは、安い同情をやめてくださいって言ってるんです。そんなもので心に踏み込んでこないで。放っておいて」
 フウリが髪を振り乱す。
 聞き覚えのある言葉だった。脳裏に反響が聞こえる。
 『僕に同情しているのかもしれないけど』
 まるでやまびこだ。数時間前に放った言葉が、そっくりそのまま返ってきたのだ。
 僕は反論する気力を失ってしまった。虚脱感が一斉に訪れ、体の芯から力が抜ける。言い捨てたのは、いわば負け惜しみだ。
「放っておけっていうなら、そっちが出ていけばいいだろ。好き勝手に飲み食いしておいて、都合のいいときだけ他人面か。
 この際だからはっきり言ってやる。やっぱり君、本当は異世界人じゃなくて家出してきただけなんだろ。それで、夜道をふらついては手頃そうな男を捕まえて匿ってもらおうって腹か。
 情緒不安定で友達もいない、リストカットするような人間なら納得だよ。そういう手合いは嘘つきって相場が決まってる。最初から世界を脅かす敵なんていない。任務なんてない。君が戦うべきなのは現実じゃないのか」
 長い沈黙。
 喧嘩になるだろうと思った。フウリは僕と同じ温度で反撃をしてくるだろうと。しかし、予想に反して彼女の口調は冷めていた。言葉を選んで、機械的に並べているような。
「確かに、わたしは嘘をつきました。世界を救うための任務だなんて、馬鹿らしいですよね」
 そして、おもむろに立ち上がった。
「出ていきます」
 彼女は洗面所を去る前に、洗面台横の棚に畳まれていた衣服――出会ったときに着ていたものを手に取る。
 そのまま廊下に出ると、転がっていた刃物も拾う。持っていく荷物はたった二つだけ。両手で足りる分が、この家から持ち出されるすべてだった。
 背後で聞こえる淡々とした足音。玄関の扉を開く音。閉じる音。
 拍子抜けするほどあっさりしていた。奇妙な同居生活は、白々しい静寂を残して終幕を迎えたのだった。

       

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