Neetel Inside ニートノベル
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(二)

 翌日、土曜の昼。
 洗面所の鏡で自分の顔を観察すると、確かにこけているように見えた。ゾンビとまでは言わないまでも、心労がたたっていると邪推されても仕方がない。
 じっと鏡を眺める。すると、映る背景に血色が滲んだ。
 洗面所、刃物、血液、……フウリ。それらすべては関連付けて記憶されている。
 眩暈がした。
 目頭を押さえ、瞑目する。深呼吸してから瞼を開くと、今度こそ鏡の中にゾンビを見た。
「ぶっ倒れる前にちゃんと食べた方がいいな」
 台所に行き冷蔵庫を開けると、志麻子に貰った食材が並んでいた。
 同居人がいなくなり、もはや消費は不可能と踏んで見て見ぬふりをしてきたが、向き合ってみてもいいだろう。凝った料理は作れないので鍋にしよう。冬だし、暖まるにもちょうどいい。
 方針が決まったところで食材を選びはじめるが、一日や二日で使い切れる量ではないことを悟る。生肉は腐っているか怪しいものもある。また、パックに期限が書かれていればまだいい。表示がない野菜などはいつまで保つのかもわからない。
「すぐに使えない分は凍らせておくか」
 迷った挙句、冷凍庫に移すことにした。
 そして、下段の引き出しを開けた奥に、死体があった。
「うわ」
 思わず声を出す。
 すっかり忘れていた。冷凍食品の隣には、ジップロックに詰められたステイハムが横たわっている。
「ステイハム、久しぶりだな。お前のおかげで食欲が失せたよ」
 もちろん死体は返事をよこさない。収納した時と同じ姿で、僕をじっと見つめてくる。
「よしわかった、腹ごしらえの前に、墓をこしらえてやろう」
 家には、本来は園芸を楽しむためであろう、中途半端な広さの裏庭がある。
 居間から掃き出し窓を開け、石段にあるスリッパを履いて裏庭に出る。やせた土ばかりで相応しい場所とは言いがたいが、端のほうにローズマリーが群れているのを見つけた。その近くに埋めてやる算段をつける。
 しかし、埋めただけでは墓とは言えない。端に設置されている物置小屋を漁り、DIY用にとっておいた木っ端を探す。ついでにスコップも取り出した。墓標をつくるのだ。
 ステインを塗ったり、文字を転写することも考えたけれど面倒だったので、直接ペンキで描く。『ステイハム』と名前だけ。出来栄えはチープだったが、墓標はものの数分で完成した。
 用意は揃った。あとは埋めるだけだ。
 さっそく穴を掘る。ハムスターならば、穴は拳大で十分だ。そしていよいよステイハムを底に置き、上から砂をかければお終い。これで、永遠の別れ――。
 あとは砂をかけて、地面を固めるだけ。なのに、下半身を埋めた段階で作業が止まった。
 スコップを握る右手が小刻みに震え出す。体が自分の意思に反していた。
 やがて、目の前の地面に変色が起こる。斑模様に散らされた、色が濃い部分ができていく。何事かの事象によって、地面が濡れているのだ。
 左手を目元にやって気づく。僕は泣いていた。涙ぐむ、どころではない。涙腺はダムが決壊を起こしたように制御を失い、止めどなく透明な液体を流し続けている。
 肉体と精神が乖離したような感覚だった。涙に連鎖して喉がひっくり返り、嗚咽を吐き出す。地に這いつくばり、頭を垂れる情けない男がそこにいた。
 大騒ぎになっている体とは裏腹に、頭は冷静だった。
 自分の状況について理解が及ぶ。僕はツケを払っているのだ。ここ数日のあいだ拒絶していた本心に、逆襲の牙を剥かれている。
 スコップを持ち直し、半分かかっていた砂を無我夢中で掘り返す。毛に絡まった分までできるだけ払い落してから、亡骸をジップロックにしまい直した。
「いやだ。まだ、諦めたくない」
 ステイハムは、フウリと一緒に埋めるのだ。そうでなければ供養は済まない。
 諦めてたまるか。
 頑なな感情が湧き起こるのと、ズボンにしまったスマホが震えるのは同時だった。
 メッセージだ。
 志麻子からだった。


 本文の内容は至って簡潔。可及的速やかに待ち合わせ場所に来い。すぐに済むから、用事があっても来いと。
 指示に従って訪れたのは近所の空き地だった。立ち並ぶ家々の隙間にある、ポケットみたいな空白地帯。幼い頃によく遊んでいた場所だ。
「変わってないね、ここ」
 先に待っていた志麻子に呼びかける。
「……そうね」
 志麻子は引き締まったシルエットのコートを着て、手首にはブレスレットを嵌めている。
「街に出るの? 悪いけど、やることがあるから一緒には行けないよ」
「大丈夫。伝えたでしょ、時間は長く取らせないって」
 とか言うわりには口が重そうだ。歩み寄る足取り一つ一つから、並々ならぬ緊張感が漂ってくる。辺りには風が吹いていた。今日は一段と強い。
 居心地の悪い間が続いたので、僕から話を振った。
「そういえば、周りにどんどん一軒家が建つのに、どうしてここだけずっと空き地なんだろう。微妙に細長いから間取りが難しいのかな。まあ、僕としては周りに家なんて建たないほうがいいけどさ。ほら、道沿いに隙間なく建物が詰まってるのって息も詰まるだろ。空き地の一つや二つもないと息継ぎができない」
 志麻子は頬をほころばせた。
「子どもの遊び場にもなるものね。陸人、覚えてる? ここで、小学生のときにキャッチボールしてたの」
「あぁ……。あったなぁ、そんなこと」
「この空き地は私たちの家の中間地点だから、いつも使ってた」
 よくもまぁ、飽きもせずに毎日集まっていたものだと思う。休みの日ともなれば、朝食を食べては遊び、昼食を挟んで、陽が暮れるまでまた遊んでいた。
 脳裏に焼けるような夕陽の景色が思い出される。太陽系の仕組みが変わったわけでもないのに、あの頃と同じ黄昏は二度とやってこない確信があった。
 志麻子はあさっての方角を向いて、投球の真似をした。様になったフォームから放たれた架空のボールは、遠くの寒空に消える。
「キャッチボール、最初に誘ってきたのは陸人からだったでしょ」
「そうだったかな」
「そうよ。小学三年生の夏休み。確か前日に、テレビで甲子園の試合がやってたんだっけ。勝ったチームのエースピッチャーがフラミンゴみたいなフォームでかっこよかったって言って、私の家に押し掛けてきてさ。『ふたりで甲子園に出よう』とか目をキラキラさせて、無理やり引っ張って連れられた。学校で部活動に参加できるのは四年生からだったから、それまで空き地で特訓しようってことになったのよ」
「よくそんなことまで詳しく覚えてるな」
 照れ臭くなって鼻を掻く。
「昔の僕、めちゃくちゃだっただろ。考えなしなくせにエネルギーが有り余っててさ。そもそも、女は甲子園に出られないだろって」
「付き合わされるのは嫌じゃなかった。でも、一か月もしたらキャッチボールやめちゃったじゃない。私が誘っても頑なに『行かない』って。突然だし、理由も教えてくれないし。ねぇ、結局あれなんだったの?」
 恨みがましい視線を向けられる。
 僕は当時の記憶を掘り返しながら弁明した。
「小学生の頃の行動に怒られてもな。できれば時効にしてほしいんだけど。
 いや、その、僕の中では突然嫌になったんじゃなかったんだよね。あの頃って、志麻子のほうが体が大きかっただろ。しかも、運動神経の良さなんて比べるべくもないわけで。はじめて二週間もしたら実力差ができてて、後々差が広がるばっかりなのも目に見えてたからさ。簡単に言うと、悔しくてスネてたんだよ」
「そんなことだろうと思った」
 志麻子は呆れたようにそっぽを向く。
 思えばあの出来事は、ふたりで遊ぶ機会を減らしたきっかけだったかもしれない。
「あのときと比べると、私たちの関係も変わったよね」
「どうかな。関係自体は変わってないような気もするんだけど」
「変わったよ。昔みたいに、陸人に引きずり回されることもなくなった。さっきも言ったけど、わたしは嫌じゃなかったのに」
「へぇ、知らなかったよ。志麻子は、僕がやることなすこと気に入らないのかと思ってた」
「そんなわけないでしょ。……でね、小さい子どもじゃなくなってからは、私が陸人を引きずり回してやろうって思ってたの。私たちは男と女だから、年が経つごとに面倒が増えていくのも実感してた。でも、そんなもの解決方法は分かりきってる。形式的な手続きを踏むだけでいいんだから、すぐにでも実行してやろうって思ってた」
「……?」
 なんだか、わざと迂遠な言い回しをされている気がする。
 困惑する僕をよそに、志麻子は幼子を慈しむように微笑んだ。笑みを向けた先は僕ではなく、過去の彼女自身らしかった。
「でも、全然ダメね。私って意外に勇気がないみたい。すぐにでもなんて言っておきながら、明日にしよう、機会が来たらにしようって先延ばしにしてた。……しかもそんなことしてるうちに、別のことに巻き込まれて、陸人に深入りする資格なくしちゃって。馬鹿みたい。
 ……でね、いまから言うのは自分勝手な落とし前。一応、伝えておきたかったから」
「う、うん」
 志麻子が姿勢を正したので、つられて僕も背筋を伸ばす。
「ええと、聞いて。その、私たぶん、陸人が思うほどお節介な性格じゃないの。女友達の進路相談に乗ったりしたこともないし。むしろ、人それぞれ考えが違うんだから、基本的に放っておけばってタイプ。進路に限らず、なんでも。だってそうでしょ、遊ぶくらいしか関わらない相手に、責任を負う気もないくせに、あれこれ押し付けるのはよくないって、その程度の分別はつくつもり、なの。冷静でいられるときには。
 だから、陸人にしつこく付きまとったり口を出すのは、ただ幼馴染だからじゃない、別の理由」
 ひときわ強い風が吹いた。
 足元の砂が舞い上がって、僕は腕で顔を覆い隠す。
 しばらくすると風は止んだ。
 細めた目を開きながら、腕をどける。
 背景に黄昏れはじめた空。目の前にいた女の子は、まるで人が変わったみたいだった。風に散らされた毛先。決意に満ちた瞳。
 志麻子は、実に堂々とした居住まいをしている。
「私は――」
 ――――――――。
 伝えられた言葉は僕にとって、できすぎた答え合わせだった。

       

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